篠生との会話を終えた妻は篠生と同じ四人席に座っている。

篠生は妻の横顔を見ている。

その目線は首筋から胸元を通り、腰に向けられる。

違和感を覚えた私は席を立ち、妻と篠生の元へ行く。

「ギターを勝手に使ってしまった、すみません」

私はそう言って、篠生にギターを返した。

「いえ、こちらこそ、ありがとうございます」

篠生は言い、ギターを受け取った。

その声は以前のようにおどおどした声色が無い。

男性らしい太さすら感じる。

「素敵な奥さんですね」

篠生は言う。

にたっとした笑みが浮かぶ。

「そろそろ席に戻らないとじゃないか?」

私は妻に言う。

「そうね」

妻は立ち上がり、自らの席へ戻る。

篠生はその妻の後ろ姿を爪先から臀部へ目線を送っていた。

私は強い不快感に目を細めるも、篠生は気が付かない。

私も自らの席へ向かい歩いていく。

ふと気が付いた。

田堂の母が居ない。

何やら厨房から音がする。

私はその足で、厨房へ向かった。

厨房を覗くと、田堂の母が冷蔵庫を漁っていた。

田堂の母は私に気が付くと葉物野菜を咥えたまま振り向く。

口の周りは調味料のタレで、ぎとぎととしている。

私は異様な光景に体の動きが止まる。

「何をしているんですか?」

私は訊ねる。

「何って、食べているのよ。この先、食べれなくなるかもしれないのよ。いっぱい食べておかなくちゃ」

「待ってください。そうなら、皆で分けないと」

「ふざけないで! 私はあの子と助かりたいのよ」

田堂の方は生肉も素手で掴み、口に入れる。

くちゃくちゃとゴムを噛むように咀嚼している。

「それは食べちゃ危ないですよ」

私は田堂の母の手に持っている生肉を取り上げようと、掴みかかる。

田堂の母は獣のような目で、私を見る。

掴みかかる手を握ると、私の右手の人差し指を噛んだ。

「痛い!」

鋭い痛覚に思わず悲痛の声が出る。

私は人差し指を見る。

歯形に傷口が彫られて、血が滲む。

私は後ずさりして厨房を出る。

田堂の母は両手に沢山の食材を持ち、私に、にじりよる。

私の額に汗が滲む。

田堂の母も厨房から出ると、ぷいっと方向を変えて、息子の元へ戻った。

私は背筋に冷えた汗が流れる。

私は人差し指を抑えながら、席に戻った。

「ほら、食べようね」

「テープを剥がしてはならぬ!」

老婆は言う。

「食べたら、また、つければいいんでしょ!」

芯の通った野菜をそのまま口に入れる。

「ほら、しっかりと噛んでね」

息子は眉を下げて、上体を揺らす。

その目は何故だろうか、私に向けられている。

本当は田堂の母を制止させたい。

しかし、人差し指の痛みが、じんじんと追い詰める。

私の頭は、再び起きるかもしれない恐怖を想像してしまう。

私はその恐怖に腰を上げる事が出来ない。

「残さず食べるんだよ」

生肉も口に入れる。

「今ここで、食中毒になったら、何も処置ができませんよ」

篠生は突然立ち上がり、言う。

その篠生の表情は真剣そのものだった。

「そう言って、横取りする気ね。そうはさせないわ」

「そうじゃありません! 本当に大変な事になるんです」

篠生は田堂の母へ向かう。

緊張しているのだろう。

その両腕はぴんと伸び、両手は固く握り拳を作る。

「あげないわよ!」

篠生の母は、隠し持っていた包丁を持ち、先端を光らせる。

篠生はびくっと立ち止まる。

何度か立ち向かおうと上体を前に傾けるも、一歩が踏み出せない。

そして、篠生は何もせず、背を向けて、自らの席へ座った。

「ほら、食べようね」

田堂の母は再び、息子へ食材を食べさせようとする。

しかし、息子は口を閉じて拒んだ。

今も、息子の眼差しが私に向けられる。

「どうしたの? どうして食べないの」

田堂の母は口元に生肉を押し付けて、こじ開けようとする。

余りにも容赦の無い無理矢理に、田堂の息子が泣き出した。

大きな声で泣く。

その泣き声は全身で表し、店内全体を鳴らす。

「どうして泣くのよ! 私が悪い事をしているみたいじゃないの」

田堂の母は息子の目線より高い位置に顔を近づける。

そして、息子の上から見下して怒鳴り、叱る。

「早く黙らせなさい!」

老婆は言う。