「しっかりしろっ!」

私は、篠生の頬を叩いた。

篠生は全力で私を突き飛ばす。

私は体勢を崩して床に尻餅をついた。

篠生は上体を起こして、尻餅をついている私を見る。

篠生は片手で腹部を押さえる。

「痛い」

突然、苦痛に顔を歪ませると、その痛みを抑えようと呼吸を始めた。

しかし、その呼吸はとても浅く、早かった。

痛みに苦しみ、浅い呼吸を繰り返す。

続いて、何度も空気をごくりと飲み込み始めた。

内側から溢れ出る何かを飲み込もうとしている。

再び浅い呼吸を繰り返す。

篠生は横になる。

それでも浅い呼吸は止まらなかった。

次第に篠生の唇が青ざめてくると、見る見るうちに体も異変をきたす。

両腕はぴんと伸びきり、硬直した。

両手の指の関節一つ一つに強い力が入り強張る。

両足もぴんと伸びきり、硬直する。

妻は、篠生の体を揺らして、気を戻そうと試みる。

篠生の体は石のように硬く、足は木のようだった。

篠生は口を閉じて、鼻で早く呼吸を始める。

私は、徐に立ち上がった。

「もう、じきに悪魔へ進化する。皆、その者をロープで拘束しなさい」

老婆は言う。

「何とかならないんですか」

妻は言う。

何も出来ない無力感と助けたい気持ちが入り混じった声だった。

私は老婆の命令を無視して、篠生のギターを手に持った。

左手でギターの柄を持つ。

曲の初めのコードを左手の指で押さえた。

そして、右手ので弦を弾いた。

すかすかして、鳴らない音も含まれた音色がふわんと響いた。

篠生は目をぴくっと見開く。

次のコードを指で押さえるまでに時間がかかる。

小指がここ、薬指がここ、中指がここ、人差し指がここ、親指がここ。

ぽろんと弦を弾いた。

弾いた後、どれかの弦が、びーんと雑音の余韻を残す。

覚束ないながら、次のコード、次のコードと繋げていくと、何とか曲が出来上がっていく。

これで篠生の気が戻るならばとひたすら続けた。

篠生の呼吸が少しゆったりしてくる。

それをわかった妻は篠生へ声をかける。

「ゆっくり吸って、大きく吸って」

篠生は妻に促されるまま、口で深呼吸を繰り返す。

篠生の少しずつ少しずつ緊張がほどけていく。

篠生の頬は薄桃色になり、表情も穏やかになっていく。

篠生の目尻から一筋の涙が流れた。

それを妻は安堵の表情で見た。

篠生は、その妻の心温かな表情を見ると顔をくしゃりとする。

そして、ダムが決壊したように涙が溢れ出た。

「負けた! 負けた、負けた」

篠生はそう繰り返しながら、泣きじゃくった。

きっとこれまで、様々な事を堪えてきたのだろう。

ずっと、その苦しみを飲み込んできたのだろう。

私と妻はそう同じ事を感じていた。