耳で捉える音も異様だ。

私の耳の中で音が跳ね返る。

老婆のくちゃくちゃと入れ歯を動かす音。

田堂の息子の鼻を啜る音。

娘の話し声と相槌を打つ妻の声は、郷珠と言い争っているように騒がしい。

それらの音が耳元で鳴っているように聞こえる。

耳の奥では、ごーごーと重低音が一定の間隔で鳴っている。

その重低音は私の呼吸に合わせて鳴っている。

まるで、耳が肺呼吸しているようだった。

私は徐に立ち上がる。

よくわからないが、妻と娘と郷珠の喧嘩を止めなければ。

覚束ない足取りで一歩一歩と近づく。

踏み込む足の裏の感覚も変だ。

床がとても柔らかい。

まるでベットマットの上を歩いているようだった。

妻と娘に向かって歩いているはず。

しかし、遠近感を失った視界では、反対に遠ざかる。

踏み込む足の爪先が何かに当たった。

人の足のようだ。

「体調はどう?」

妻の声だ。

妻の足に当たったようだった。

視界では、遠くに居る妻が私を見ている。

「喧嘩は良くないよ」

私は言う。

どうしてだろうか、私の声が震える。

「え?」

妻はきょとんと答える。

私の焦点が定まらない。

「喧嘩は良くないよ」

私はロボットのように、同じ声色で言う。

自らの意思ではなく、脳が勝手言わせているように思えた。

これまで私は自由に脳を使ってきた。

しかし、今は脳が私を支配しているように思えた。

目が泳ぎ、蒼白の顔した私を心配する妻。

「喧嘩は良くないよ」

私は再び言うと、体を反転し、背後を向いた。

何も無かったかのように元の席へ戻り始める。

脳は、喧嘩を私が仲裁した。

もう大丈夫だと結論付ける。

そして、私に達成感のような高揚感を褒美として与える。

私は席に戻ると、倒れ込むように横になった。

私の隣に妻が駆け寄る。

妻は私に何か話しかけている。

しかし、私はとても眠くて、妻の話を理解する間もなく、夢見に落ちた。