娘は、郷珠の隣へ行く。

それを見て、妻は娘と郷珠の居る四人席へ向かった。

娘を見失わないようにする為だろう。

老婆は一度ぎろりと瞳を妻に向けたが、何も言わなかった。

郷珠は長椅子の端に座っている。

通路側に両足を出して、体も通路側に向けている。

娘は靴を脱ぐと、その長椅子の上に両足で立ち上がった。

長椅子の上に立ち上がった事により、長椅子の弾力が躍動する。

その弾みを臀部で感じた郷珠は顔を背後に向ける。

見えない目をつぶり、左右の耳で見る。

娘は郷珠の両肩に手をかけて、背中に飛び乗った。

おっとっとと動揺するも、すぐに、娘だと気が付き、許す。

郷珠は白杖を片手に持ち、もう片方の手で背中に回す。

娘の体が落ちないようにそっと支える。

慌てて、妻が娘の脇の下に手を入れて引き剥がそうとする。

「こら、降りなさい」

妻が娘を叱る。

絶望の漂う雰囲気の中でも、叱る時の表情は変わらない。

少しだけ眉間を尖らせて、ちょっぴり低い声。

「構いませんよ」

郷珠は娘を支えているほうの手で、娘をぽふぽふと撫でる。

娘は、にこにこして、郷珠により抱きついた。

数時間前に何気なく見ていた娘の笑顔がとても尊くて懐かしい。

妻もその笑顔を前にして、叱る事を忘れている。

制止する手を動かす事が出来ず、ほんわか笑みを浮かべる。

私は久しぶりの家族の笑顔を見て安堵を感じた。

その時、私の視界に異変を感じた。

両目で見ている視界に一つ線が見えるのに気が付いた。

視界の左上の端から右下の端まで、線が引かれている。

定規で引いたように真っ直ぐの線。

まるで、ガラスが割れて線が走った窓越しに見ているようだった。

視界に映る妻と娘の姿に斜めの線が引かれている。

目をぱちぱちと開閉しても変わらない。

視線をずらして、田堂の親子を見ても、線は無くならない。

目を擦っても線は無くならなかった。

再び妻と娘を見る。

片目を閉じても変わらない。

私は目の違和感に不安を感じる。

しかし、すぐに私の脳は都合の良い理由を探し当てる。

疲れただけだ。

理由を見つけると、不安感は鎮まっていく。

はっと、気が付いた。

机の上に置いておいた私の車の鍵が無くなっている。

ふと、噴水の縁で、きらりと光る何かがある事に気が付いた。

割れた視界を凝らして見ると、そこには、私の車の鍵が置いてあった。

そんなはずはない。

確かに、レストランに入った時、靴紐がほどけて、噴水に立ち止まった。

その時、車の鍵を噴水の縁に置いた。

しかし、その後、確かに手に持ち、机に置いた。

席を移動した後も同様だ。

移動した席の机に鍵を置いておいた。

おかしい。

私は立ち上がる。

割れた視界の中、噴水に近づく。

妻は私へ顔を向ける。

私の横顔を見ている。

しかし、その視線に応える自信が無い。

割れた視界は相手からどのように見えているのかわからない。

そして、記憶が錯誤して、動揺した表情だとわかっているからだ。

こんな弱い夫は見せられない。

「どうしたの?」

妻が私に声をかける。

「いや」

私は言葉を丁寧に返す事も出来ない。

とにかく、噴水の縁にある鍵が私の鍵であるかを確認したい。

噴水の前に着いた。

そこには紛れも無く、私の車の鍵が置いてあった。

その鍵を手に取る。

鍵を取った手が小さく震えている。

心拍が胸の内側で強く鼓動する。

私は鍵を握を握りしめて、席へ戻る。

その時、妻と娘をちらりと見た。

私は驚愕した。

なんと、割れた視界は、より侵食していた。

右上と左下の二枚になっていた視界。

左下の視界は、薄く白い、もやが、かかっている。

光景は映るも、人が映らない。

右上の視界に妻の顔が見える。

しかし、左下の視界に入る、妻の首から下は何も無い。

左下の視界に入る娘は、もう姿の一部すら映っていない。

私は顔を動かして右上の視界で妻と娘を映す。

もっとよく見たいと焦点を妻や娘に合わせると、姿が欠ける。

私は、目に片手を置いて、頭を素早く左右に振る。

「どうしたの? 大丈夫?」

妻は心配そうに、私の隣へ来た。

私は溢れ出す不安感に思わず、妻の手を握る。

柔らかくて少しひんやりとした妻の感触が私の手の感覚から浸透する。

その柔らかな妻の感触は腰を背を軽くして、心地よさを私の脳に届ける。

まるで、芳しい甘い香りをふんわりと嗅いだ時のようだった。

「何でもないよ。少し横になっていいかい?」

私は妻に言う。

割れた視界では妻を直視出来ず、足元に目線を下げる。

「ええ、もちろん。あの子は任せて」

妻は快諾する。

妻から手を離す。

じんわりと汗が滲んだ手の平が冷やされる。

私は席へ戻っていく。

左下の視界は、妻と娘のみならず、客の皆も同様に姿を映さない。

左下の視界には、誰も居なかった。

更に不安が私を追い詰めた。

今、私の背後には、妻が居る。

その記憶すらも存在していないのかもしれない。

不安を払拭させるように素早く振り返る。

その困惑する私の姿を妻は心配そうに見ていた。