「だめだ、トイレに行く」

老父は立ち上がり、お手洗いへ向かう。

その足取りは、ふらついて、時々、足がもつれる。

老婦は老父に介助しようと隣に行く。

「わしは大丈夫だ! 老人扱いしやがって」

老父は老婦を一喝し、突き飛ばす。

老婦はその場に取り残される。

老父はお手洗いに入った。

しばらくして、老父はお手洗いから出てきた。

付けていたマスクが無く、表情がはっきりとうかがえる。

その表情は震え上がり、青ざめている。

老父は客の皆の方向へ顔を向けると突然興奮する。

「お前達は誰だ!」

老父は叫んだ。

その瞳は揺れ動き、動揺しているのがわかる。

老父はお手洗いに備え付けられていたモップを持つ。

モップを武器に客の皆に近づいてくる。

「お前達は、わしを殺そうとしている」

モップの柄を頭上に振るいかざし、足早に近づいてくる。

しかし、その足取りはふらついている。

老婆は、ひぃっと顔を引き攣り、身をのけぞる。

このままでは、家族が危ないと察した時。

私は無意識に老父を止めに向かっていた。

「どうしたんですか、私達ですよ」

私は振るいかざしたモップを両手で握り、制止を試みる。

よく見ると、老父の歩いてきた軌跡には足跡があった。

その足跡は、赤黒く血痕に見える。

擦りながら歩いてきたために、足跡が擦れている。

その血は穿いているズボンの裾の中から流れていた。

「その血、どうしたんですか!」

私は老父を制止しながら言う。

「皆よ、近づいてはならん」

老婆が険しい顔で言う。

私は老父を制止しながら、老婆を見た。

老父は全力で私を振り払おうとする。

「悪魔に感染したのだ」

老婆は言う。

娘が泣く声が聞こえる。

妻は、その娘を抱きしめて、泣き止まそうとする。

老父は、もごもごと口を動かすも、声を作れない。

老父の左の口角から、血が滲み出て、床に滴る。

がはっと、老父は大きくむせると、大量に吐血した。

その瞬間、老父は魂のぬかれたマリオネットのように床に崩れ倒れた。

動かない。

気が付けば、私は老父の吐血の多くを浴びていた。

私は恐る恐る、老父の口元に手を近づける。

息をしていない。

私は後ずさりする。

その私の行動に、客の皆は老父が死んだ事を悟った。

「やかんに残っているシナモンティーの半分を勇敢なあの者に。残りの半分は死体にかけなさい」

老婆は言う。

私は衝撃的な光景を目の当たりにして、老婆の声がよく聞こえない。

妻はすかさず、やかんを老婦から貰う。

老婦はただ黙って、光景を見ている。

その両手は小刻みに震えている。

妻は老婦を気にも止めず、私にシナモンティーを渡す。

私は動揺してコップを口元に持っていくことすら出来ない。

妻は私の口元に無理矢理コップの縁を付ける。

そして、私の口の中にシナモンティーを流し込む。

私はコップ一杯のシナモンティーを飲み干す。

妻は急いで残りのシナモンティーを横たわる老父の全身にかけた。