私達は聞いてはいけない話を耳にしてしまった。

身の毛がよだつ。

私と妻は顔を合わせると、阿吽の呼吸でその場を通り過ぎた。

私達は何も無かったかのように、座った。

「娘さんは居ましたか?」

郷珠が訊ねる。

「はい、郷珠さんの言う通り、厨房に居ました。ありがとうございます」

私は答える。

老夫婦がお手洗いから出てきた。

老父は腰に片手を添えて、腰を曲げて歩く。

足取りは一歩一歩と引きずり、異様な程に体が重そうに見える。

その老父の背に老婦は片手を添えて、支えている。

老父は体重に任せて、どんっと椅子に座った。

老婦も元の席へ戻る。

私は老夫婦を見ている。

私の脳裏に、あの老夫婦の話が再生される。

私の脳が不快な話を肯定化しようとする。

勘違いだった?

悪巧みのように聞こえたけど、実際は違う?

私の脳は様々な理由を作り、穏便に済まそうとする。

しかし、思考の着地には、老父の発言「豚だから」が存在する。

「あら、娘さん、無事で良かったわね」

老婦が妻に言う。

「あ、ありがとうございます」

妻が返す声からも警戒している事が伺える。

「あ、あの、もし出来たら、マスクをもう一枚いただけますか? 子供が汚しちゃって」

妻は恐る恐る言う。

老父は、ぎろっと、老婦の顔を見る。

老婦は、その老父の視線をちらりと見ると表情を曇らせる。

老婦は言葉を詰まらせている。

老父は老婦を顎で使う。

「ごめんなさいね。マスクが残り僅かだから、渡せないのよ」

老婦は渋々言う。

老父は我が物顔で、私の妻を見る。

老父は次の老婦の発言を待っているようだ。

「少しだけお金をいただくようにしようと思っていてね」

老婦の声が語尾に向けて、段々と小さな声になる。

老父は、にやりと笑みを浮かべて、私の妻を見る。

その発言に、田堂の母は目を丸くして驚く。

篠生も老婦を見る。

「えっと、いくらですか?」

妻は疑いの表情を浮かべて訊ねる。

「ああ、一枚三百円頂こうか」

老父はすかさず答える。

「さ、三百円?」

妻は思わず驚いて、むせ込む。

「おいおい、悪魔に感染したんじゃないだろうな。マスクを二重にして付けたほうが良くないか?」

老父は言う。

「あまりの酷い金額に驚いて、むせただけです」

妻は苛立ちの口調で答える。

「まあ、マスクはお金を取る事にしたから、皆よろしく」

老父の言葉に賛成する者は居なかった。

「でも、今回は買います。汚れたマスクをし続けるのは体に良くないから」

妻は渋々、三百円を老父に渡し、マスクを一枚貰った。

妻は娘のマスクを交換する。

娘は俯いて、「ごめんなさい」と小さく呟いた。