「まあ、無事で良かったよ」

私はなるべく穏やかな口調で言い、場を和ませる。

慌てた気持ちを飲み込もうと早口になる。

娘は俯いている。

「もう、戻ろう?」

妻は娘に優しくに言う。

娘はこくんと首を縦に振る。

妻は厨房の蛇口をひねり、水を出す。

手招きして娘を呼ぶ。

妻は両手で娘を抱き上げると、厨房のシンクの隣に座らせる。

錆びでべっとりと汚れた娘の両手を流水で洗っていく。

「あのね、あそこから声がするの」

娘が人差し指で指して言う。

その指した先には排水口がある。

指した手が妻の手に掴まれて、流水へ誘われる。

「ねずみの声かな」

私は言う。

「違うの、人の声」

娘は答える。

「人の声?」

私は屈んで、排水口に耳を近づける。

確かに、ごにょごにょと雑談をする声のようにも聞こえる。

排水管に水が流れる音にも聞こえる。

「多分、水が流れていく音じゃないかな」

私は言う。

娘は何も言わずに、しゅんと目線を下げる。

「これで綺麗になった。皆の居る場所に戻ろうか」

妻は言う。

私は娘の付けている汚れたマスクを外した。

「もう一枚、マスクを貰わないとね」

私は言う。

私は娘を抱きかかえる。

私達は厨房から出た。

皆の居る場所に戻っていく。

途中、お手洗いの前を横切ると、何やら声が聞こえてきた。

その声は老夫婦だった。

お手洗いの扉の向こうからこそこそと聞こえてくる。

私達は思わず立ち止まった。

「どうしてシナモンティーを無料で渡しているんだ?」

老父が言う。

「せっかく沢山あるんだから、和んでもらおうとしただけじゃない」

老婦は答える。

「はは、今日は口答えするんだな。いいか? あいつらは、ゴイだ」

「ゴイ?」

「言わせるなよ、豚だ」

老婦は黙ったまま聞いている。

「シナモンティーもマスクもまだ有り余る程にある。でも、皆はその事を知らない」

「あなたはいつもそう、人を騙して楽しんで」

「黙ってろ。お前も助かりたいだろ? お前はわしの考えに、はいと言っていればいいんだ」

老婦は黙る。

「シナモンもマスクも悪魔には効果があるんだから、継続して欲しがる人が出るはずだ。残り僅かだから有料にすると言い、お金を取ろう。あいつらは家畜だ。上手く利用して、あいつらを盾にして、わしらは助かろう」