老婦は立ち上がり、厨房へ入ると、間もなくして出てきた。

右手には、やかんを持っている。

老婦は、田堂の母の隣に行くと、両膝を曲げて床に付ける。

田堂の母と目線を合わせ、コップにシナモンティーを注ぐ。

老婦は田堂の母に寄り添いながら、背を撫でる。

田堂の母は、くしゃっと顔を歪めて静かに泣いている。

ふと気がつけば、娘がどこにも居なかった。

先程まで、郷珠の隣に居たはず。

丁度同じ時に、妻も娘が居ない事に気が付いた。

「あれ、居ない!」

妻が慌てた声を発して立ち上がる。

「どうして見ていないんだ!」

私は思わず妻に怒鳴る。

妻はびくっとする。

「ごめん。くそっ」

私は怒鳴ってしまった罪悪感に苛まれる。

今まで妻に怒鳴る事は一度も無かった。

焦りか不安か恐怖か。

私の頭を不幸が飛び交い、混乱させる。

思考が理解不能と簡単に結論付けて考える事から逃げてしまう。

冷静で居なくちゃ。

家族には冷静を見せて、安心させないと。

そう思えば思うほど、その大きさの分、私自身の不安感を慰めるものを求めてしまう。

妻は私に何をしてくれた?

妻は私の心境を理解してくれているのか?

不安感を妻のせいにする感情が現れるも、すぐに理論が見つけて抹殺する。

妻にどう弁解しようか。

いや、私の気持ちを妻に理解させるにはどう言うべきか。

どうしても、私を正当化しようと妻を否定する思考が生まれる。

その度に、家族一緒に力を合わせなくてはと理性が粛清する。

妻は私の怒号に目を見張ったまま動かない。

その眼差しが私の心を槍のように貫く。

私は優しい言葉もかけられず、妻の眼差しから目線を外した。

シナモンの苦味が口に残っている。

今は、娘だ。

そう結論付けた。

これなら、妻も納得してくれるだろう。

私は妻を横目に郷珠へ駆け寄った。

「娘を知りませんか?」

私は訊ねる。

「おそらく、厨房の方向へ駆けていったようです」

郷珠は静かに答える。

私と妻は厨房へ慌てて向かう。

厨房の中へ駆け入る。

娘は、厨房の床にある鉄格子で塞がれている排水口を覗き込んでいた。

私と妻は安堵した。

沸いた胸騒ぎは次第に穏やかになっていく。

娘は小さな両手で鉄格子を握りしめている。

鉄格子を何とか開けようと、腰を使って持ち上げようとしている。

しかし、厳重に鍵が施錠されているので、びくともしない。

手を滑らせて、尻餅をつく。

それでも諦めない。

鉄格子に顔をつけて、中を覗き込む。

「心配したんだから! 何しているの、汚いでしょ」

妻は娘に言う。

安堵したからこそ、尖りのある口調になる。

「ごめんなさい」

娘は両手を鉄格子から離し、妻を見る。

両手は錆びで汚れ、膝や臀部は黒く汚れている。

マスクも錆びで汚れていた。