「あなた、いつもと同じじゃないですか」

老婦は答える。

「そうかあ?」

老父は小言を言いながら、また一口啜る。

老父はシナモンティーを飲み込むとお腹をさすっている。

突然、ほろんとギターの弦を弾く音が聞こえた。

篠生がギターの弦を弾いている。

指の腹でそっと弦を弾く、とても小さな音だった。

老婆は目を細めて見る。

老父はシナモンティーを飲み干して口を開いた。

「おいおい、何してるんだよ、悪魔が来たらどうするんだよ」

老父は言う。

「すみません。皆を励まそうと思って」

篠生はびくっと指を止めて言う。

「音楽なんて娯楽、今は必要ないんだよ。わしらは命が関わっているんだ」

老父は一喝する。

「いいえ。ギターを演奏しなさい」

突然、郷珠が話の間に入った。

これまで、一言も発しなかった口が静かに動く。

「音楽は皆の気持ちを一つにする力があります」

郷珠は続けて言う。

郷珠の声は中性的で淑やかな印象。

さらさらと小川が流れるような繊細な声質。

しかし、その声の中には芯がある。

絶対的な根拠があるように揺るぎない何かを感じた。

「はは、喋れるのか。郷珠だっけか? 郷珠は目が見えない。今置かれている状況がどうなっているかもわからないだろう?」

老父は怒鳴る。

「愚かだ」

郷珠はため息に言葉を吐き出す。

「くそ、お前! 何か言ったか?」

老父は立ち上がり、郷珠へ突っかかる。

私は咄嗟に間に入り、老父と郷珠の距離を保つ。

娘は郷珠の背後に隠れて、私と老父を覗く。

老婆は驚いた表情を見せるも、すぐに険しい表情へ変わる。

老婆は分厚い本のページを見ながら、ぶつぶつと何やら呟く。

妻は私を心配そうにする。

篠生は、わたわたと忙しなく体動する。

私は、老父の体を全身を使って押しのける。

老父の伸ばした左手が郷珠の着ている服の襟を掴む。

郷珠は胸ぐらを掴まれるも動じていない。

「もう一回言ってみろ!」

老父は目を尖らせて、眉を立てて怒鳴る。

「愚かだと言いました」

郷珠は平然と言った。

「くそ野郎! いっぺん殴らないと気がおさまらねえ」

老父は右手に拳を作る。

「やめてください!」

田堂の母が叫んだ。

客の皆が田堂の母を見る。

老父も田堂の母に顔を向ける。

老父の右手のいきり上がった拳が緩む。

「争っている場合ではないでしょ? 私だって、息子が水をかけられたのは許していません。でも、まずは助け合わないといけないのではないですか?」

田堂の母は両肩を首元に上げて緊張している。

「じゃあ、音を鳴らして、悪魔を呼び集めろって言うのか」

老父は怒鳴る。

「あなたの声のほうがよっぽど大きい声です」

田堂の母は言い返す。

老父は言葉を詰まらせる。

老父の剣幕は次第に穏やかになっていく。

それに伴って、私の押しのける力も緩めていく。

老父は肩を左右に揺らしながら、怠そうに歩いて席に戻る。

老父は大袈裟に頭を掻き、不機嫌を見せている。

「それで、篠生の音楽を聞きたい人はこの中にいるのかい」

老父は言う。

「私は聞きたい。静かになると怖くなるんだ」

私は言った。

他の客の皆は意思表示をしてはいないが、否定的な表情では無かった。

「婆さんは、これでいいんですか?」

老父は老婆に訊ねる。

老婆は、ぶつぶつと呟き続けている。

「アーガ! アーが助けてくれる!」

老婆は天井に顔を向けて叫んだ。

その表情は怯えているようにも見える。

「アーね。そうかい、好きにしてくれ」

老父は言葉を放り投げた。