「距離を空ける?」

老父が訊ねる。

「そうだ。段々と咳が出るようになる。その咳でも感染する」

老婆は答える。

「だってよ、皆」

老父は客の皆に言う。

「いや、私はしない」

私は異論を唱えた。

常に妻と娘に触れられる距離で居たい。

妻と娘に何か起きた時に何も出来ないからだ。

いや、違うのかもしれない。

私が家族と近くに居たい。

家族と居れば、私は強い姿を保てるように思えた。

「あなただけが、距離を取らなかった為に誰かへ感染させたら、どう責任取るつもりなのかしら」

田堂の母が言う。

私はそれに反論する事は出来なかった。

「さあ、皆よ。距離を空けなさい」

老婆の言われるがまま、客の皆は動き出す。

私の妻と娘は、私の席の左右隣の席に居る。

娘の席の隣席には、白杖を持った郷珠が居る。

妻の席の隣席には、ギターを持った篠生が居る。

他の皆も噴水を中心に、各四人席に一人ずつ座った。

「咳で感染するなら、マスクを皆に渡したほうがいいかね」

老婦が淑やかな口調で言うと、カバンから何やら箱を取り出した。

片手で持てる位の紙の素材の箱。

その蓋を開けると、マスクが沢山入っていた。

「おお! 神はこの者を遣わしてくださった。皆よ、神の恩恵に感謝し、マスクを受け取りなさい」

老婆は一瞬、笑みを見せて言う。

「良かったな、お前、褒められるなんて今まであったか?」

老父は薄笑いの表情を浮かべながら老婦に言う。

それを見た老婦は不服そうに目を細める。

その目線は、老父と反対の方向に動かす。

そして、老婦は無言で立ち上がる。

老婦は各席に居る客の皆に、マスクを一枚ずつ配っていく。

客の皆に配り終え、老婆にもマスクを渡そうと近づく。

「近寄るな!」

老婆は開いていた分厚い本を勢い良く閉じて、剣幕で一喝する。

老婦は突然の剣幕にびくっと立ち止まる。

「マスクはそこに置け」

老婆は誰も居ない席を指差して言う。

老婦は従うまま、その席にマスクを一枚置き、元の席へ戻った。

老婆はそのマスクを受け取り、元の席に座る。

客の皆は徐にマスクを付けて、口元を隠した。

「嫌だ、嫌だ」

田堂の息子がマスクを体全身を激しく動かして拒否する。

「付けなくちゃ、駄目なのよ? 皆に迷惑がかかっちゃうんだから」

田堂の母は、何とかマスクを息子に付けようとするも上手くいかない。

マスクを無理強いすると、田堂の息子の体動の激しさを増す。

「おいおい、早いとこ、何とかしてくれないか」

老父が呆気に取られるように言う。

田堂の母は息子の両肩を両手で撫でて、なだめる。

しかし、一向に、息子の体動は収まらない。

老父は立ち上がる。

「えーっと、篠生だっけか? こちらに来てくれ」

老父はそう言いながら手招きする。

「え、あ、あ、は、はい」

篠生は言われるがままに老父の席に向かう。

その足取りは小走りだった。

篠生は老父の居る席に着いた。

「いやあ、さっきの曲、良い曲だったよ。お前さん凄いな。オリジナルの曲かい?」

老父は言う。

「あ、は、はい」

篠生は答える。

「わしはファンになったよ、お前さんの。もっと聞きたいんだけど、こんなに騒がしいとお前さんの良い曲がちゃんと聞けないから、あいつを静かにしてくれないか?」

老父は座ったまま、たたずむ篠生に言う。

「え?」

篠生の声が緊張のあまり、裏返る。

「簡単だろ? これをあいつにかければ、すぐに静かになる。ここにいる皆も望んでいる事だ。お前さんもそうだろう? 皆と同じ意見だよな?」

老父は煽り立てる。

「は、はい」

篠生は小さく何度も、うなづいて、答える。

「ならできるよな。これをすれば皆から褒められるぞ」

老父は水の入ったコップを差し出す。

「ほーら、早く」

老父は更に前へ差し出す。

篠生は恐怖に怯えていた。

目を丸くして、眉は下がり、両肩を上げて、首を縮こませている。

篠生の震える手は、そのコップを持った。

「ほーら、早く」

老父は篠生の顔を見上げて煽る。

私は目の前で起きる異常な光景に理解が追いつかない。

篠生は、関節をがちがちにこわばらせて、田堂の息子へ足を進める。

まるで、壊れかけのマリオネットのようだった。

老婆は横目で見ている。

篠生は田堂の息子の前に立った。

「ちょっと、何するつもり?」

田堂の母は鋭い表情で睨み付ける。

「ごめんなさい、ごめんなさい」

篠生は田堂の息子に向かってコップを傾ける。

「駄目だ! してはいけない」

私は無意識のうちに声が出ていた。

篠生は、私の声に動作を止める。

しかし、その拍子に、水がコップから流れ、田堂の息子の顔にかかった。

田堂の息子は、驚いた表情で体動を止める。

怒りの頂点に達した田堂の母は、篠生の頬を平手打ちした。

「何て事をするの」

田堂の瞳に涙が溜まる。

篠生の瞳も平手打ちの衝撃で涙が込み上がる。

田堂の息子は、両腕を胸元に縮こませる。

何度も繰り返し、両腕を胸元に縮こませる。

その両手は握り拳で硬く、怯えた表情で田堂の母を見つめていた。