「何言っているんですか」

配達員は小さく嘲笑して言う。

しかし、客の皆の表情は険しい。

客の皆の表情を見た配達員の表情は引き攣る。

「あの…、ロープなら持っています」

篠生がロープを手に持ち立ち上がった。

「縛りつけよ」

老婆が言う。

「何で持っているんだ? まあ、いいや、貰うぞ」

老父は篠生からロープをさっと奪う。

「私も手伝うわ」

田堂の母は意気込んで立ち上がる。

老父と田堂の母は配達員ににじり寄る。

「おい、嘘でしょ?」

配達員は慌てて出入り口へ走る。

途中で足がもつれ、腰を抜かした。

配達員は動けずに老父と田堂の母を見る。

その眼差しは怯えている。

老父は配達員の体を押さえ込み、田堂の母がロープを巻き付ける。

「私達は助かりたいのよ」

田堂の母は配達員を縛りながら言う。

「助かるも何も冗談やめてくださいよ」

配達員はそう言いながら両手で抵抗するも、老父が押さえる。

私はその光景を見て、無意識のうちに顔を逸らしていた。

妻も胸で娘を抱きしめて、顔を逸らしている。

田堂の息子は車椅子に乗ったまま、体を大きく左右に揺らしている。

配達員は拘束された。

腕や足は曲げる事も出来ない。

配達員は出入り口の扉の前で仰向けにされた。

老父と田堂の母は戻り、席に座る。

配達員は一人取り残されている。

篠生は突然、貧乏ゆすりを始める。

その貧乏ゆすりは大きく、体全身が震えている。

「ああ、ロープを渡さなければ。いつもそうだ。いつも余計な事をして、人を困らせるんだ」

篠生は両手を膝の上で広げる。

両手の掌を顔に向けて、その掌をじっと見つめる。

両手は大きく震えていた。

「怖い! 怖い!」

田堂の息子が車椅子に乗りながら、何度も叫ぶ。

その息子は体を大きく左右に揺さぶる。

その度に、車椅子から軋む音が聞こえる。

「うるさい!」

老婆は鬼の形相で睨みつけて言う。

「ご、ごめんなさい」

田堂の母は、息子を何とかなだめようとする。

「静かにしようねー、怖くないよー」

息子の声は止まない。

息子の鼻から、黄緑色の粘度の高い鼻水が流れ出る。

それを息子は、ずびびびと吸い上げる。

鼻水が喉へと流れ込んだのか、一瞬、顔色を青くして声が止む。

しかし、再び、息子は声を上げた。

「しー、だよ」

田堂の母は、人差し指を伸ばして、口元で縦にして見せた。

息子はそれを見て、今度は、しーしーと繰り返し言い始めた。

それも次第に穏やかになり、声も小さくなった。

「悪魔なんて居ないのかもしれませんよ?」

突然、老婦が言う。

老婦は老父の顔色を窺いながら、言葉をそっと発した。

「なーに言ってるんだお前。窓を見てみろよ、ああやって死んでいるだろ?」

老父は窓に寄りかかる死体を指差して言う。

すかさず、私は立ち上がる。

「いや、私もまだ信じられないです。もっと、悪魔以外の可能性も考えていくべきだと思います」

私は言う。

老婆は私を睨んでいるように感じる。

「じゃあ、何なんだよ。あの死体、動かないんだぞ。撮影なら動いてもいいよな」

老父は私に言う。

「それは」

私は言葉を詰まらせる。

「でも、もしかしたら、初めから、悪魔なんてものは居なくて、ただの濃霧なのかもしれませんよ?」

私の妻も座りながら言う。

妻の加勢に心が強くなるのを感じた。

「じゃあ、この先、どうするのか教えてくれ」

老父が鼻で笑い、訊ねた。

「あの方に外の様子を聞きます」

私は配達員へ顔を向けて言う。

配達員は、こほこほと咳を小さくしている。

客の皆が配達員に顔を向けた時、突然、老婆は立ち上がった。

「皆よ! よく聞くがよい」

老婆は私の話を阻止するように言い放った。

「あいつが店内に入り、霧が沢山入り込んだ。もう誰が霧に触れているかわからない。誰でも悪魔になりえる」

老婆のしわがれた言葉が妙に耳の奥に響き、印象付ける。

「じゃあ、どうしたらいいのよ」

田堂の母が聞く。

「そうだよ、どうしたらいいんだ?」

老父も賛同して訊ねる。

老婆は一呼吸置いて、口を開いた。

「一人一人の距離を空けなさい」