「その分厚い本に書いてあるのか?」
老父は訊ねる。
老婆は話を返さない。
「また無視か」
老父は、呆れた表情を見せる。
店内に沈黙した重苦しい空気が漂う。
篠生はギターケースを撫でている。
私は篠生に話しかけた。
「昼間、川瀬で演奏していませんでしたか?」
篠生は体をびくつかせて、私を見る。
「あ、驚かせてすみません」
私は明るく接する。
「あ、あ、い、いえ。全然大丈夫です。見られていたんですね」
篠生は、おどおどとして吃りが強い。
「ええ。たまたま通りかかって、心地良い曲でしたので家族で聞き入っていました」
「いや、そんな。恥ずかしいな」
篠生は頭を掻いて困惑している。
篠生の額には汗が滲む。
「ギターのプロの方ですか?」
「いえ、そんな。ただの趣味ですよ」
「趣味で、あんなに綺麗な曲を弾けるんですね」
篠生の頬が仄かに赤らむ。
篠生は徐にギターケースを開け、ギターを取り出した。
ギターは年季がある。
ボディーのコーティングが剥げて、模様もあせていた。
篠生はギターを太ももにのせる。
「私ではなく、このギターが良い音色を奏でてくれるんですよ」
篠生はギターのボディを優しく撫でる。
その表情は我が子を愛でているように温かい。
「もし出来るなら、演奏していただけませんか?」
私は切実な思いだった。
あの演奏を聞けば、皆の気分が明るくなるのではないかと思った。
「いや、聞かせる程ではないですよ。だって…」
篠生は言いかけて、言葉を詰まらせる。
「ほんの少しだけでいいんだ。どうかお願いします」
私は頭を下げる。
「わ、わ、わ、かりました。ちょっとだけ」
ぽんと弦を指で弾いた。
その音は、この沈黙の空気感に光が射したように染み渡る。
皆の視線が集まる。
老婆は怪訝そうな眼差しを送る。
篠生は体を萎縮させて、手を止める。
「や、やっぱり、やめませんか? 皆、怒っていますし」
篠生はおどおどとして言う。
「大丈夫。皆もあの曲を聞けば、気持ちが明るくなるはずだから」
「うう」
篠生は苦い顔で言葉を濁す。
ちらりちらりと客の皆の視線を気にしながら、チューニングをしていく。
チューニングを終えると、篠生は一呼吸置いた。
そして、左の手の指の腹で弦を押さえ、右手の指で弦を弾いた。
演奏は店内へ一気に広がり、重苦しい空気感を払拭させた。
川瀬で演奏していた曲だ。
篠生の体が小さく左右に揺れる。
旋律に心体を委ねているようだった。
演奏する前の自信の無い様子は全く見られない。
演奏の上手い下手は私には分からない。
ただ、ふんわりとした幸福感が体に染み渡るのを覚えた。
皆も、その旋律に聞き入っている。
疲労感や恐怖心に塞ぎ込んだ表情がほぐれていく。
妻は眉を下げて、どうする事も出来ない状況に悲しみを浮かべている。
涙袋にじんわりと涙が滲む。
集まった涙は涙袋の土手を超えると、ほろりと頬を伝う。
再び、涙が涙袋に少しずつ少しずつ集まっていく。
そして、また一つ、ほろりと涙が滴る。
老婆は篠生を睨み付け、口が何やらもごもごと動く。
その口の中から、カチッカチッと金属的な音が鳴る。
入れ歯を定位置に戻そうとしているように見える。
老父は訊ねる。
老婆は話を返さない。
「また無視か」
老父は、呆れた表情を見せる。
店内に沈黙した重苦しい空気が漂う。
篠生はギターケースを撫でている。
私は篠生に話しかけた。
「昼間、川瀬で演奏していませんでしたか?」
篠生は体をびくつかせて、私を見る。
「あ、驚かせてすみません」
私は明るく接する。
「あ、あ、い、いえ。全然大丈夫です。見られていたんですね」
篠生は、おどおどとして吃りが強い。
「ええ。たまたま通りかかって、心地良い曲でしたので家族で聞き入っていました」
「いや、そんな。恥ずかしいな」
篠生は頭を掻いて困惑している。
篠生の額には汗が滲む。
「ギターのプロの方ですか?」
「いえ、そんな。ただの趣味ですよ」
「趣味で、あんなに綺麗な曲を弾けるんですね」
篠生の頬が仄かに赤らむ。
篠生は徐にギターケースを開け、ギターを取り出した。
ギターは年季がある。
ボディーのコーティングが剥げて、模様もあせていた。
篠生はギターを太ももにのせる。
「私ではなく、このギターが良い音色を奏でてくれるんですよ」
篠生はギターのボディを優しく撫でる。
その表情は我が子を愛でているように温かい。
「もし出来るなら、演奏していただけませんか?」
私は切実な思いだった。
あの演奏を聞けば、皆の気分が明るくなるのではないかと思った。
「いや、聞かせる程ではないですよ。だって…」
篠生は言いかけて、言葉を詰まらせる。
「ほんの少しだけでいいんだ。どうかお願いします」
私は頭を下げる。
「わ、わ、わ、かりました。ちょっとだけ」
ぽんと弦を指で弾いた。
その音は、この沈黙の空気感に光が射したように染み渡る。
皆の視線が集まる。
老婆は怪訝そうな眼差しを送る。
篠生は体を萎縮させて、手を止める。
「や、やっぱり、やめませんか? 皆、怒っていますし」
篠生はおどおどとして言う。
「大丈夫。皆もあの曲を聞けば、気持ちが明るくなるはずだから」
「うう」
篠生は苦い顔で言葉を濁す。
ちらりちらりと客の皆の視線を気にしながら、チューニングをしていく。
チューニングを終えると、篠生は一呼吸置いた。
そして、左の手の指の腹で弦を押さえ、右手の指で弦を弾いた。
演奏は店内へ一気に広がり、重苦しい空気感を払拭させた。
川瀬で演奏していた曲だ。
篠生の体が小さく左右に揺れる。
旋律に心体を委ねているようだった。
演奏する前の自信の無い様子は全く見られない。
演奏の上手い下手は私には分からない。
ただ、ふんわりとした幸福感が体に染み渡るのを覚えた。
皆も、その旋律に聞き入っている。
疲労感や恐怖心に塞ぎ込んだ表情がほぐれていく。
妻は眉を下げて、どうする事も出来ない状況に悲しみを浮かべている。
涙袋にじんわりと涙が滲む。
集まった涙は涙袋の土手を超えると、ほろりと頬を伝う。
再び、涙が涙袋に少しずつ少しずつ集まっていく。
そして、また一つ、ほろりと涙が滴る。
老婆は篠生を睨み付け、口が何やらもごもごと動く。
その口の中から、カチッカチッと金属的な音が鳴る。
入れ歯を定位置に戻そうとしているように見える。