私は、ふと思った。

この状況で店員はどうしているのか。

ホールの女性店員は厨房に入ったっきり、出てこない。

厨房で調理するものもいるはずだ。

「すぐに戻る」

私は妻と娘に一言添えて、立ち上がった。

「え? どこへ行くの?」

妻は私を見上げる。

妻の下瞼が充血し、厚ぼったい。

目は潤い、頬を下げて、悲観した表情だった。

「店員に聞いてくる。もしかしたら、本当に撮影中なのかもしれないからね」

私はそう言うと、店内を静かに歩いて厨房へ向かう。

席に座る客の視線が私に集まる。

どうしてだろう。

お前だけ動いていいなんてずるいと言わんばかりの圧力を感じる。

「どこへ行く」

老婆は立ち上がり、高圧的に言う。

「ああ、いや、店員はどうしているかなと思って」

私は立ち止まり答える。

「確かにそうね、撮影なら、店員が知っているわよね」

老夫婦の老婦が言う。

老婆は何か言いたそうだった。

しかし、老婦に返す言葉が見つからないのか、口を吃らせる。

老婆は座り、再び分厚い本のページを見入る。

そのページを見ながら何やらぶつぶつと呟いている。

私は厨房へ再び歩き出す。

先に、一つ、床にお皿が落ちている。

慌てて落としたのか、お皿は砕けて、破片が散乱している。

その砕けたお皿を越える。

厨房に着いた。

「ごめんください」

私は了承を伺いながら厨房の中に入った。

厨房には誰も居なかった。

調理中だったのか、フライパンの中には料理が残っている。

水道の蛇口からは、水が出しっぱなしになっている。

その水によって、シンクの中は水に満たされている。

そのシンクの中には沢山の食器があった。

私はそっと水を止める。

シンクの数々の食器の間に数本、注射器を見つけた。

その注射器の針は、私の手首から指先までの長さがある。

注射器にはメモリが記されている。

何の調理に使うのだろうか。

香辛料の分量に使うのだろうと勝手に結論付ける。

そうして深く気に留めることなく、疑問を解決した。

私は厨房を見渡した。

厨房の壁には棚が備わり、様々な調味料が並んでいる。

棚の側面には鍵掛けがあり、鍵が下がっている。

その鍵は持ち手の部分がびっしりと錆び付いている。

棚の隣に、三つの冷蔵庫が備わっている。

厨房の奥にはシャッターがあり、しっかりと閉まっている。

こちらから、仕入れた食材を搬入しているのだろう。

厨房の天井は、照明が設置されているが、電気は点いていない。

厨房の床はタイル張りで、にわかに調理油でぎらついている。

もう一つの壁側には何も置かれていない。

壁には排水溝があり、床の水が流れていくような仕組みになっている。

その排水溝の入り口は鉄網で塞がれ、びっしりと錆がこびり付いている。

その錆は赤黒く、べっとりとしている。

私は厨房から出ようと出入り口へ視線を向ける。

その視線の先には老婆が居た。

老婆は分厚い本を片手に持ち、無言で立っている。

厨房の出入り口で、私を見ていた。

私は思わず、びくっと体に緊張が入り、身の毛がよだつ。

私は老婆を避けるようにすれ違い、足早にホールへ戻った。