しかし、老父の声は、店内の行き交うどよめきに掻き消される。

その時、店内の照明が消え、テレビも映らなくなった。

薄暗くなった店内。

店内に混乱をきたした悲鳴が飛び交う。

「静かに」

老婆は分厚い本を胸に抱え、大きな声で一喝する。

一喝した老婆の体はぶるっと一度小さく震える。

老婆の目は見開き、にたっと笑みを浮かべている。

その目は天井の一点を見続けている。

どこか、水を得た魚のように生き生きと楽しんでいるように見えた。

「ここに居ることが悪魔にばれてしまう」

老婆は畳み掛けて言う。

客の誰もが置かれている状況を少しずつ理解する。

それに比例して店内は段々と静まる。

私の体が小刻みに震えている。

空調設備も停止したからだろうか、体が異様に冷える。

私は、妻と娘の座る席へ移動し、妻と娘を抱擁した。

妻も体を震わせていた。

娘は両腕を妻の背にまわして抱きついて離さない。

私達は、お互いの震えを共感する。

不思議と不安感が穏やかになっていく。

「怖いよ」

娘が妻の胸に顔を埋めたまま言う。

娘の小さな声が妻の肺に振動して、もごっと、こもって聞こえる。

私は娘の頭を撫でることしかできなかった。

私は優しく撫でながら考えていた。

悪魔というのが現実に居るのだろうか。

虚言なのではないか。

しかし、こうして今、濃霧の中で一人が亡くなった。

電気も断たれ、テレビから情報収集することもできない。

ふと、そろりそろりと厨房へにじり寄る店員の姿が視界に入った。

そして、さっと店員が厨房の中へ入る。

そうだ、スマートフォンで連絡は取れないのか?

私はスマートフォンを手に取る。

スマートフォンは圏外になっていた。

圏外ではどうすることもできない。

知り得る情報は老婆の言葉だけだった。