夏休みが明けて一ヶ月──。
秋の色が少しずつ風景を包み始めているのに、今朝はまだ夏かと思うほど暑い。
暑さに弱い彼は、きっと不機嫌な顔をしているに違いない。そんなことを考えながら玄関のドアを開けると、気怠そうにマンションの廊下の壁にもたれている幼なじみがいた。
「おはよう」
「おう……」
揃った挨拶は正反対のトーンで、なんだかおもしろい。予想通りの態度に小さく笑えば、面倒臭そうなため息が零された。
夏生まれで、陽太。だけど、彼はその名前に似つかわしくないほどに夏が嫌いで、夏休みはエアコンの効いた部屋で引きこもるのが毎年恒例だ。
「陽ちゃん、ご機嫌ななめだね」
「クソ暑い時に笑えるか」
「私、前に乗ろうか?」
「お前のスピードだと遅刻するだろ。いいから、早く乗れ」
エレベーターを降りて自転車置き場に着くと、陽ちゃんはさっさと自転車を出してサドルに跨った。「はーい」と笑った私が後ろに乗って彼に捕まると、自転車が動き出した。
ふたり乗りの自転車は、青空の下をゆっくりと走る。たまに聞こえる「暑い」という独り言に何度か笑ったあと、学校が見えてきた。
「じゃあな、ちゃんと勉強しろよ」
「陽ちゃんもね」
校門の前で立っている生活指導の先生の目に入らないように、いつもと同じように少し手前で下ろしてもらう。お決まりの台詞におどけたように笑えば、「学校では先輩と呼べ」なんて聞き慣れた言葉が返ってきた。
「陽ちゃんは陽ちゃんだもん」
「可愛くねぇ後輩だな」
冗談めかしたような顔はすっかり学校で見る陽ちゃんになっていて、さっきまで不機嫌な顔をしていたとは思えないほど爽やかだ。人当たりのいい彼らしい振る舞いが、少しだけおかしかった。
陽ちゃんとの距離が離れていくことに寂しさを感じていると、「おはよ」という明るい声とともに肩をポンと叩かれた。声の主は同級生の親友で、笑顔で挨拶を返して自然と並んで歩き始める。
「今日もラブラブだったねぇ」
「そんなんじゃないってば」
「嬉しいくせに」
テンプレ化したやり取りにため息を零したけれど、嬉しいというのは当たっていて、言葉に詰まったことを誤魔化すために唇を小さく尖らせた。「素直じゃないなぁ、菜々は」という呆れた声は聞こえない振りをして、校門を潜った。
昼休みにお弁当を食べていると、陽ちゃんからLINEがきた。
【委員会だから遅くなる】
【待ってるよ】
【先に帰ってろ】
私の希望はあっさり却下されてしまい、思わず眉を寄せていた。
来月に行われる文化祭の実行委員になった陽ちゃんは、夏休みが明けてからは特に忙しくて、最近は一緒に帰れる機会が減ってしまった。家までは徒歩でも十五分もかからないけれど、今日は一緒に帰れると思っていたからため息が零れる。
「なに? 愛しの幼なじみくんから?」
「また委員会だって」
からかうような言い方には触れずに素直に落ち込んでいると、同情の視線を寄越された。「どんまい」と肩を叩かれるとますます気が滅入って、再びため息が漏れた。
「最近、一緒に帰れてないんだけど」
「文化祭まであとちょっとだからね」
「文化祭なんて早く終わればいいのに……」
「素直なんだか素直じゃないんだか」
呆れた笑いにも言い返す気にはなれなくて、気分が落ち込んでいくとわかっていながらもLINE画面を見つめていた。
午後の授業が始まっても身が入らなくて、いつにも増して数学がつまらなく感じた──。
陽ちゃんとは、私が生まれた時からずっと一緒だ。
私が生まれる少し前に隣に引っ越してきた陽ちゃん一家とは、物心がついた時には既に家族ぐるみの付き合いになっていた。そんな私にとって、彼はお兄ちゃんのようであり、それでいて一番近い異性でもあった。
陽ちゃんも私もひとりっ子だということもあって、兄妹のように育てられてきたし、小さい頃はよく同じ布団で寝て、お風呂だって一緒に入っていた。私たちが顔を合わせなかった日なんて、きっとこの十六年間で数えるほどしかない。
そんな日々を過ごしてきた私にとっては、彼がいつも傍にいることは当たり前だった。
幼稚園も小学校も中学校も同じところだったし、高校だってわざわざ陽ちゃんを追いかけて受験した。ひとつ年上の彼がいつも先を行くのが寂しくて、いつだって早く追いつきたかった。
お隣に住んでいる幼なじみの隣にいるのは、私。当たり前のことなんかではないのに、頭のどこかではそれが普通のことだと思っていたからこそ、ずっと追いかけてきたんだと思う。
いつから好きだったのかと問われれば、明確な時期は答えられないけれど……。とにかく、私は陽ちゃんのことが大好きだ。
「菜々」
ベランダでぼんやりとしていると、左隣から陽ちゃんの声がした。すぐにパァッと顔が明るくなって、自然と弾んだ声が出た。
「陽ちゃん、おかえり」
「おう。って帰ってきたの、だいぶ前だけどな」
柵から身を乗り出すようにした私に、「落ちんなよ」と苦笑が返される。
「実行委員ってそんなに忙しいの?」
「まぁな。それより、お前はちゃんとクラスの仕事、手伝ってるか?」
「してるよ。今日だって残ってたんだから」
本当は陽ちゃんと一緒に帰れるかもしれないと、文化祭の準備が終わったあとで昇降口で三十分ほど待ってみたけれど、彼がやってくることはなかった。陽ちゃんのいない帰り道は寂しくてつまらなくて、帰路がとてつもなく長く感じた。
「明日は一緒に帰れる?」
「そろそろひとりで登下校すれば?」
「やだ」
「わがままだな」
「陽ちゃんこそ、意地悪だよ」
「毎朝乗せてやってるだろ」
「陽ちゃんが卒業するまでよろしくね」
陽ちゃんのため息が聞こえてきたけれど、身を乗り出して彼の顔を見てみると呆れたように笑っているだけで、本気で嫌がっていないことはわかる。
こうして話すのも、ほとんど日課みたいなもの。
お風呂上がりにベランダでジュースを飲む陽ちゃんに合わせて、私も顔を出す。今日は私の方が早かったけれど、こんな風に他愛のない話ができる時間はとても楽しくて、さっきまでの寂しかった気持ちも和らいだ。
「お前さー」
「なに?」
「俺とばっかりいたら、彼氏できねぇぞ」
「いいもん、別に」
私が好きなのは陽ちゃんなんだから、なんて言う勇気はまだないけれど、幼なじみというポジションは私だけのもの。それさえあれば、誰よりも彼の近くにいられるんだから。
「そろそろ兄離れしろよ」
「お兄ちゃんじゃないじゃん」
「似たようなもんだろ」
「全然違う! それに、私たちキスした仲じゃん!」
ムキになった私の言葉に、陽ちゃんは飲んでいたサイダーを噴き出しそうになった。
「……お前、それ誰にも言うなよ」
「私たちのファーストキスのこと?」
「誤解を生みそうな言い方はやめろ」
「本当のことでしょ?」
陽ちゃんは深いため息のあとで、「幼稚園の時の話なんてノーカンだって言ってるだろ」と聞き飽きた言葉を口にした。