「に……人間の、分際で――ッ!」

 セイレーンは、上へ、上へ、上へ……と逃げていく。
 逃げることしかできない。

 しかし、すぐに人間も空中を蹴って追いつき、剣を振るってくる。
 自分の独壇場であるはずの空で――翼を持たない最弱(にんげん)に押される。

 セイレーンの体にどんどん生傷が増えていく。
 美しかった羽根がぼろぼろにちぎれ飛んでいく。
 あきらかな劣勢。

 このままでは――狩られる。


「…………勝って」


 そのとき、ふいに地上から音が聞こえてきた。
 セイレーンには、一瞬、なんの音かわからなかった。
 今までに聞いたことがない音。

 少し遅れて、それが市民の声だと気づく。
 ひとつの雫のような声は、やがて市民全体へと波紋のように広がっていき――。

「負けるなッ!」「いけぇッ!」「勝てェェッ!」

 市民たちが人間を応援する。
 セイレーンを恐れて声を出さなかった市民たちが、声を張り上げて叫んでいる。

 家畜(にんげん)が魔物に挑みかかり――圧倒している。
 その光景が、市民たちの希望となったのだろう。

「――“黙れ”! “黙れ”! “黙れ”ェェェ――ッ!」

 雑音、雑音、雑音、雑音、雑音――――。
 自分にまとわりつくような嫌な音を振り払うように、セイレーンは絶叫する。

 しかし、そのセイレーンの声も……届かない。
 片肺が欠損しているせいで声量が出ないのもあるが。
 なにより、1万の市民たちの声にあっさりとかき消されてしまう。
 命令が届かなければ、セイレーンに従う者なんていない。

(なぜ……!? なぜ、どいつもこいつも、思い通りにならないッ!)

 さらに追撃しようとしてくる人間を睨みつける。
 もはや、この人間が鳥かごに入るような器ではないことはわかった。
 こうなればもう、全身全声で……殺すしかない。

(…………仕方ない)

 本当は、“あの歌”だけは使いたくなかった。
 あまりにも醜悪で、惨めで、自分すらも破壊する危険な歌。
 しかし、もうそれしか手段はない。
 だから。

「――――ッ!!」

 セイレーンは静かに口を開き――口を裂いた。
 がばぁっ! と、口が耳元まで一気に裂ける。
 その開け放たれた口を中心に、びきびきびき……とセイレーンの肌に亀裂が広がっていく。

「……ッ! 水塊(ミルズ)……」

 人間がなにかを察知したらしい。
 今まで緩めなかった追撃の手を止めて、とっさになにかの魔法を発動する。
 ずいぶんと勘がいいことだ。いったい、この人間はどれほどの実戦経験を積んでいるのだろうか。

 しかし……全てはもう遅い。
 セイレーンの歌からは、逃れられない。

「…………ふぅぅぅ……」

 セイレーンは大きく息を吸い、そして――。

 ………………歌が、始まった。



「――……――――……――――……―――――ッ!!」



 それは、もはや音というより衝撃波だった。
 あらゆる物質を破壊する音がつらなり、ひとつの旋律となる。

 ――――滅びの(うた)

 それは、生命の終止符。
 声をつかさどる女王の鉄槌。
 これから踏み潰される聴衆(たみ)への葬送歌。

 その歌声は――。
 肉を、骨を、血管を、神経を、眼球を、内臓を、精神を……。

 そして、なにより――脳を破壊する。

 不可視にして音速。
 実体のない歌声の前では、いかなる回避や防御も意味をなさない。

「――……――――」

 ぱきん――ッ! と。
 セイレーンに迫っていた剣が、ガラスのように粉々に砕け散った。

「――――……――」

 ずん――ッ! と。
 人間が戦鎚の一撃でも食らったかのように大きくのけぞった。

「――……――――」

 人間が歌に合わせて踊るように、びくびくと体を跳ねさせる。
 人間の肉が裂け、骨がひしゃげ、血飛沫が舞い、そして――。


 ………………終演だ。


 静寂の幕が下りる。
 音が止まった世界で、ぼろぼろに壊れた人間が落ちていく。

(……全ての声を出し尽くした)

 セイレーンの声帯は完全に壊れた。もはや彼女の喉からは、音と呼ばれるものすら出すこともままならない。
 そんな自らをも破壊する一撃を、この人間は至近距離で食らったのだ。セイレーンの片肺に欠損があったとはいえ、充分に致命傷を与えられたはず。

 もはや、生きているということはないだろう。
 人間には人狼(ワーウルフ)不死鳥(フェニックス)のような再生能力はないのだから……。

(…………?)

 と、そのとき。
 セイレーンの視界の端に、なにかきらきらと輝くものが映った。
 その光の粒子のようなものは、人間の体から舞っているらしい。
 セイレーンはその光の正体に気づいた。
 あれは、そう……。


(…………水?)


 人間の頭の辺りで、大量の水が弾けるように舞っていた。
 先ほどまではなかったはずの水。
 よく見れば、その水は人間の頭を包み込んでいる。
 そして、その水飛沫の隙間で、人間の目が――。

 ……ぎょろり、と。

 セイレーンに、向けられた。
 人間の口がわずかに動いて、言葉をつむぎ出す。


「――――風王脚(フゥゼ・デルタ)


 ……反応は、できなかった。
 できたところで、まともに体が動かなかっただろう。

 気づけば、人間はすぐ目の前まで接近し――。
 その潰れた拳を、セイレーンの開け放たれた口へと突き刺していた。

「が……ッ!?」

 歯をへし折り、口蓋をえぐり、喉の奥にまで侵入する拳。
 セイレーンは混乱する。

(なぜ……? なぜだ……?)

 なぜ、この人間が生きているのか……わからない。
 今までこの必殺の一撃で、必ず殺せなかったことなどなかった。
 答えを求めるように人間の顔を見ると、彼はにやりと凶悪な笑みを浮かべる。

「……誰が……お前なんかの言いなりに……なってやるかよ」

 血を吐きながら人間は笑う。セイレーンを嘲笑う。
 その濡れた頭を見て、セイレーンはようやく理解した。

 この人間は――魔法で水の塊を作り出し、頭を覆ったのだ。

 音は水面で反射する性質を持つ。水中に届くのはごく一部だけ。
 海で生きてきたセイレーンにとって、それは痛いほど心当たりがあった。声が届かなくなる海中からの攻撃こそがセイレーンの弱点だったからだ。

 だからこそ、セイレーンは陸へと上がった。
 だというのに、その弱点をあっさり看破された。

(よりにもよって、最弱(にんげん)などに……!)

 あの一瞬で、この人間は致命傷を回避するための対策をした。
 それはまさしく、魔物を倒すための知恵。
 この人間は、魔物の倒し方を知っているのだ。

(……なぜ? ……なぜだ?)

 心の中で何度も呟く。
 その『なぜ?』が、なにに対してのものなのかすら判然としない。
 それぐらい、目の前にいる人間の――全てがわからない。

 ただ、ひとつわかることは……。
 セイレーンの口に刺さった拳に、魔力が集まっていくことだけだ。

(や、やめ……ッ!)

 とっさになにか命令を下そうとしても、もはや声は出すことさえできない。
 声帯が潰れたうえに、人間の拳のせいで唇も舌も動かせない。
 命令しなければ、この人間を止められないというのに。

 ――止められない。

 人間の刃のような眼光が、セイレーンを射抜く。
 その燃えさかる瞳の灼熱色は、セイレーンを焼き尽くさんばかりに輝いた。

「お前ごときに【輪廻炎生(コンティニュー)】は必要ない――」

 そして、言う。


「――――爆ぜろ……風操(フゥゼ)ッ!」


 その言葉と同時に――ぱんっ、と。
 セイレーンの肉体は破裂したのだった――――。