「あぁ……お前はいったい、どんな悲鳴を奏でてくれるのかしら?」

 セイレーンはふわりと、壊された貴賓席から浮かび上がった。
 鮮やかな翡翠色の翼を広げて。花吹雪のように羽根を舞わせて。
 ステップを踏むように優雅に空中を歩きながら、人間に近づいていく。

 ある程度近づくと、人間の手の甲で光っているレベル刻印が読み取れた。
 この人間のレベルは――61。
 人間にしては異様に高いものの、セイレーンよりは低い。
 その時点で、勝負は決したも同然だった。

「――“動くな”」

 人間が行動するより先に、セイレーンが命令をする。
 その一言で――戦いは終わった。

 セイレーンの天恵(ギフト)を知らなかったがゆえの敗北だ。
 おそらく、よほど力に自信があったのだろう。
 たしかに、人間にしては圧倒的なレベルだ。その力におごってしまうのも無理はない。

 しかし、レベルの差は絶対だ。
 セイレーンよりもレベルが低い時点で、セイレーンの声には抗えない。
 それが――【絶対王声】という天恵(ギフト)の力。
 あとは煮るなり焼くなり好きに加工(めいれい)すればいいだけだ。

「さて、どうやってお前を鳴かせようかしら? ただ痛めつけるだけでは芸がないし……そうね、面白いことを考えたわ」

 セイレーンが、すぅぅ……と息を吸い。
 そして、大きく口を開けた。


「――“ここにいる全ての観衆ども、その人間を食べなさい”」


 絶対に抗えない王の声がとどろく。
 次の瞬間――観客席にいた市民たちが、一斉に中央へとなだれ込んできた。

 理性を失った顔で、人間に迫り、つかみかかろうとする。
 この場にいる市民の数は――実に1万匹。
 その圧倒的な数の暴力を前に、たった1匹の人間など、すぐに人波に埋もれて見えなくなってしまう。

「うふふ……どうかしら? 守ろうとした人間に生きたまま食われる感想は? 泣きたいかしら? 叫びたいかしら? わめきたいかしら? 嘆きたいかしら? それとも……」


「――――風王脚(フゥゼ・デルタ)


 ふと、背後から声がした。
 油断しきっていた。周囲の人波のせいで気配がまぎれていた。
 だからこそ――反応が遅れた。

「…………は?」

 悪寒を覚えてふり返ると、すぐ背後に人間がいた。

 ――空中に、である。

 人間が宙を駆けながら、セイレーンの首に向かって剣を振るっていた。
 すでに刃は肉薄していた。避けることはできない。
 首をのけぞらせるだけで精一杯だった。

「……ッ!?」

 ひゅん――ッ! と。
 剣光がセイレーンの目と鼻の先を通過するとともに、彼女の右の翼がはね飛んだ。
 血と羽根が飛沫となって、空中に舞う

「……あ、ぁあッ!?」

 がくっと空中で体勢を崩したことで、片翼を失ったことを自覚する。
 なんとか落下せず、宙に踏みとどまるが。

「――風王脚(フゥゼ・デルタ)

 ひゅお――ッ! と、人間の足に魔法の風がまとわりつく。
 人間はさらに宙を蹴って、追撃をしかけてきた。

(……なぜ? なぜ? なぜなの――ッ!?)

 眼下にひしめく人波にまぎれて、セイレーンの背後まで回り、魔法の力で飛翔した……。
 そこまでは、わかる。
 わからないのは……人間が動けるということだ。
 たしかに、この人間には“動くな”と命令したはずなのに。

「……くっ」

 剣を王笏で受けるも、どんどん体勢を崩していく。
 飛行を安定させている余裕がない。戦う余裕なんてあるわけがない。
 なんとか、後方へ、上へ……と退避していくが。
 すぐに人間も追従してくる。

「と……“止まれ”! “止まりなさい”ッ!」

 命令するが――止まらない。

「――風王脚(フゥゼ・デルタ)ッ!」

 人間はさらに宙を蹴り――加速する。
 その両手に握られた2振りの剣が、セイレーンに間断なく迫る。
 まるで洗練された舞いだ。

「くぅ……ッ!?」

 倍の手数に、対処できない。
 王笏が受けたのとは別の剣が、セイレーンの胸に突き立った。
 心臓を避けるも、その一撃は肺を貫通する。

「……はッ……ん……んぐ……ッ!」

 痛い。苦しい。それなのに――。

 ――まだ止まらない。

 人間はセイレーンに剣を刺したまま、新たな剣を腰から抜き放った。
 隙のない流れるような剣撃。
 冷静に、確実に、淡々と――この人間は、セイレーンを狩ろうとしていた。

「……っ」

 ぞくっ、と恐怖を覚えた。
 狩られる側になった経験はなかった。それも、レベルが下の相手になど。
 苛立ち、焦り、恐怖、戸惑い。
 その全てがまぜこぜになって、黒く濁って、ぐちゃぐちゃになって……。
 感情も思考も、うまく制御ができない。

「く、“来るな”! “来るな”、”来るな”、“来るな”ァァアァ――ッ!」

 悲鳴のように命令する。
 声を出すたびに肺に刺さった剣がさらに食い込み、激痛が走る。

 それなのに――命令は届かない。

 人間のレベル刻印を改めて見るが、レベル61だ。
 そのレベルでは、【絶対王声】の命令力からは逃れられないはずだ。
 それなのに……人間はセイレーンをあざ笑うような、反抗的な笑みを浮かべる。

「……ッ」

 そこで、セイレーンはようやく察した。

(こいつ……まさか、鼓膜を潰して……)

 命令を聞かないための、あまりにも単純な解決策。
 ここまでセイレーンが思い至らなかったのは、混乱のためもあるが……。
 それ以上に、そこまでしてレベルが下の人間が自分に牙をむくとは想定していなかった。
 ただ狩られ、食われ、もてあそばれるだけの最弱(にんげん)に対して……油断しきっていた。

「に……人間の、分際で――ッ!」

 セイレーンは、上へ、上へ、上へ……と逃げていく。
 逃げることしかできない。

 しかし、すぐに人間も空中を蹴って追いつき、剣を振るってくる。
 自分の独壇場であるはずの空で――翼を持たない最弱(にんげん)に押される。

 セイレーンの体にどんどん生傷が増えていく。
 美しかった羽根がぼろぼろにちぎれ飛んでいく。
 あきらかな劣勢。

 このままでは――狩られる。