四時限目終了のチャイムが鳴り、昼休みの時間となった。わたしは大きく伸びをしてまだ体に留まっている眠気を払い落とすと、代わって食欲を満たすべく昼食の準備に入ろうとした。
 そんなとき、チリチリとした熱視線を感じた。わざわざこちらから見返さなくても相手が誰なのかはわかっている。田丸がちらちらとわたしの様子を窺っているのだろう。
 田丸はわたしと一緒にお昼を食べようと画策し、その機会を窺っているのだ。だけど、わたしが素知らぬそぶりでさっさと一人で弁当を食べ始めると、それを目の当たりにした田丸はしょんぼりと肩を落とし、自分も一人で寂しく弁当を食べることになる――そんな駆け引きがここ一週間ほど繰り返されていた。
 わたしとしては、かしましくお喋りをしながら同時に弁当を食べるだなんてマルチタスクを強いられるのは正直勘弁願いたいところだけど、田丸がどうしてもと言うのであれば、その勇気と行動力に敬意を表して付き合ってやらんでもないと考えていた。しかし、田丸はなかなか行動に移そうとはしなかった。長らくシカトされ続けていたせいもあるのだろう、わたしに拒絶されたらどうしようという恐怖で臆病になっているのかもしれない。
 そして今日もわたしの腹時計がタイムアップを告げた。はい残念でした。また明日がんばりましょう。
 わたしが机のフックにかけていたカバンから弁当箱を取り出そうと身を屈めたところ、
「あの高屋さん……お昼をご一緒してもよろしいですか?」
 ついにきたか、と思った。つい顔がほころんでしまったけれど、でもそんなところは相手には見せられないので、平静を装って体を起こし、
「別にいいけど――」
 と、何気ない素振りで返答しかけて、停止した。
 そこにいたのは田丸ではなかった。アニメ声でなかった時点で気付いてしかるべきだったけど、他にわたしを昼に誘う人間がいるとは思わなかったので、つい早合点してしまったのだ。
 目の前にいる相手は、身長、体重、スリーサイズ共に全国の女子高生の平均を割り出したような標準体型。長いとも短いともいえない黒い髪はくっきりと天使の輪が浮かんでいるものの、無造作に後ろで束ねられているため、あまり見栄えはしない。顔立ちも複数の人間の顔写真を合成したらできる、〝整ってはいるけど、これといった特徴のない顔〟といった印象だ。ようするに彼女には、マンガの背景に描かれているモブキャラのような存在だった。ただでさえ人の顔を覚えないわたしだから、クラスメイトとはいえそんな没個性な相手のことなどまったく記憶にないはずだった。
 だけど、わたしは彼女の存在を知っていた。
「女子C!」
 思わず叫んでしまった。そうだ、こいつは先日の昼休み、わたしの睡眠を妨げた三人娘のうちのひとりだ。お仲間二人とは違い、ぱっと見でキャラ説明ができそうなわかりやすい特徴はなく、ほとんど喋らなかったので影が薄かったけど、それでも最後に見せた行動によってその姿は鮮明に記憶に残っていた。
「え?」
 自分が名指しされたとは思わず、女子Cは首を傾げている。
「いったい、何しに来たわけ?」
 警戒してわたしは尋ねた。またこの間のように忠告という名の警告でもしに来たのだろうか。
「ですから、お昼をご一緒したいなぁ、と思ったのですが……」
 女子Cの手にはピンク色の巾着袋があった。そういえば、さっきそんなことを言ってたな。
「……かまわないんですよね?」
 女子Cは今一度確認を求める。たしかにわたしは、反射的に「別にいいけど」と答えはしたものの、それは相手が田丸だと思っていたからであり、まったく別の相手――それも先日やりあったばかりの連中のひとりでは事情が違う。
「あなた、お仲間はいいわけ?」
 そう尋ねながら、わたしは教室の廊下側の席に陣取っている女子Aと女子Bに視線を向けた。見た感じ、彼女たちはわたしと一緒に昼を共にしたいと思っているわけではないようだ。というか、「あんた、いったい何やっているのよ!?」という表情でこちらを睨んでいる。明らかに女子Cの行動に困惑している様子だ。どうも彼女はやつらの差し金というわけではなさそうだ。
「いいんです」
 そう答えた女子Cは声は微かに震えてはいたものの、その表情には強い決意が滲み出ていた。
 勘違いとはいえ一度は了承してしまった手前、わたしとしては「じゃあどうぞ」と答えるより他なかった。
「では、失礼します」
 女子Cはわたしの席とくっつけようと、前の空いている机を静かに動かし始めた。その最中、わたしはちらりと田丸に視線を向けた。
 田丸はうるうるした瞳でこちらを見つめている。それはまるで、ペットショップで隣のケージの子が買われてしまい、自分ひとりが売れ残ってしまった寂しげな子犬を思わせた。
 ええい、そうやって同情を誘うような顔をするんじゃない! あんたがいつまでもぐだぐだしているから人に先を越されるんでしょうが。自業自得だよ。言っとくけど、今回はこっちから助け船を出す気はないからね。そこまでわたしは甘くはないのだ。
 …………。
「……田丸さんも一緒にどう?」
 それは聞こえなかったなら別にいいやというようなかすかな声量だったけど、相手の耳にはしっかり届いたようだ。田丸は自分の机を倒さんばかりの勢いで立ち上がると、まっしぐらにわたしの席に向かってやって来た。
「いやー、誰かと一緒にお昼を食べるだなんて久しぶりだなぁ」
 喜々として空いていたわたしの隣の机をガタガタ動かしてくっつける田丸。見えない尻尾を激しく振っているその姿に、「つくづくわたしも甘いよな……」と思わずにはいられなかった。
「中沢さんもよろしくね」
 田丸はニコニコ顔で女子Cに言った。こいつはそういう名前なのか(あとで名簿を調べて、フルネームが中沢景子であることを知った)。
「よ、よろしく……」
 女子C改め中沢は、どこか引きつった表情で答えた。思わぬ第三者の出現に明らかに困惑している様子だ。思えばこいつは(積極的だったかはともかくとして)田丸いじめに荷担していた人間であるわけで、こうして一人で面と向かわされるのは、さぞやきまりが悪いことだろう。
 一方のいじめられていた側はといえば、そんなことは微塵も気にする様子もなく、鼻歌なんぞ奏ながら楽しげに弁当箱の包みを開けている。
 かくして、こんなよくわからないメンバーで昼を共にすることになったのだった。教室に残っていたクラスメイトは怪訝そうな眼差しをこちらに向けている。わたしとしても、はたして大丈夫なんだろうか……と危惧せずにはいられなかった。
「げっ」
 コロッケを箸で二つに割ったわたしは、思わず声を漏らしてしまった。俵形に成形された上に衣がついているし、ジャガイモも潰してはあるものの、その茶色がかった色合いといい、肉の形状といい、それは明らかにきのうわたしが作った肉じゃが以外の何ものでもなかった。そういえば調子に乗ってジャガイモの皮をむきすぎたせいもあって、三人家族で食べるには明らかに量が多かったからなぁ。
「高屋さん、どうかしたの?」
 田丸が訊いてきたので、わたしはコロッケの前世について話した。こちらとしては、「きのうの余りものを食わされるなんてたまらないね」なんて話のネタになればいいくらいに思っていたのだけど、
「すごい!」
 田丸は目を輝かせた。
「すごいって、何がよ?」
 困惑してわたしは尋ねる。まさか、余りものを別の料理に作り替える主婦の技に感嘆しているのだろうか。
「高屋さんって、自分で晩ごはんのおかずを作るんだ。すごいなぁ」
 あ、そっちね。そんなことをしたのは今のところ、きのうの一回きりしかないのだけど、キラキラした尊敬の眼差しを向けられてしまうと、とてもそんな事実を伝えることはできず、「ま、まあね」と言葉を濁すより他なかった。
「おいしそうだなぁ……」
 物欲しそうに肉じゃがコロッケを見つめる田丸。まるでお預けをくらっている犬のようだ。
 わたしはやれやれと小さくため息をつくと、田丸のピンク色の弁当箱の蓋にコロッケの半分を入れた。
「食べれば」
「いいの?! ありがとう!」
 田丸は大げさなくらいに歓喜の声を上げた。
「いだだきまーす」
 田丸はさっそくコロッケを口に入れた。落っこちるのを防ごうとするかのようにほっぺたを抑えながら、
「おいしいなぁ。高屋さんの愛情の味がするよ」
「何よそれ……」
 田丸の食レポに呆れはしながらも、満足してもらえたことは少なからず嬉しかった。
「じゃあ、お返しに卵焼きあげるね。うちのお母さんのはフワフワしておいしいんだよ。エビフライもあげる。実がぷりっぷりだよ。ブロッコリーは……わたしは嫌いだけど、きっと気に入ると思うよ」
 田丸がわたしの弁当箱の蓋に気前よく自分のおかずを入れていく。わたしはブロッコリー以外は素直に受け取った。
 わたしは田丸家の卵焼き(我が家のものと違って甘かった)を頬張りながら、ちらりともう一人の同伴者に視線を向ける。
 中沢は一人黙々と食べていた。彼女の弁当箱は小さなお重のようで、中身もわたしのものとは違いカラフルでおいしそうだったけど、あまり食は進んでいない様子だ。緊張のあまり食欲が湧かないのだろうか。
 中沢に対していまだ警戒を解けずにいるわたしではあったけど、それはそれとして、残ったコロッケの半分を彼女の弁当の蓋の中に入れた。驚いた様子の彼女に、「あげる」とだけ言った。
「ありがとうございます」
 中沢は嬉しそうに答えた。
 こちらとしては〝衣替え〟したとはいえ、きのうと同じものを食べさせられるのは勘弁願いたいと思っただけなので、そんな感謝されても困るのだけど。
「釣り合うかどうかわかりませんけど」
 中沢はお返しとして、表面がてらてらしたプチトマトを二個わたしの弁当箱の蓋に入れた。
「これは?」
「プチトマトのハニージンジャーマリネです。皮を湯むきしたプチトマトを、はちみつとしょうがの絞り汁で作ったマリネ液に漬けて冷やしたものです」
「へーえ」
 マリネだなんてハイカラな代物、我が家の献立にはまず登場することはないだろうな。
 聞くところによると、中沢は毎朝自分で弁当を作っているのだそうだ。一回だけ晩ごはんのおかず作りを手伝っただけでドヤ顔していたわたしなんかよりよっぽど「すごい!」な。
 中沢ご自慢の一品はさっぱりしていて、焼きものや揚げものが多い我が家の弁当の中で爽やかなアクセントになってくれた。
「おいしいですね、これ」
 わたしのコロッケを食べた中沢はこれまで硬かった表情が少しばかり弛んでいた。
「でしょー」
「いや、なんであんたが得意気なのよ」
 田丸に思わず突っ込みを入れたわたしだったけど、その際、再び中沢の顔がこわばるのを見逃さなかった。
「あの高屋さん、この間のことなんですけど……」
 田丸が購買部にジュースを買いに行ったのを見計らって、中沢が話しかけてきた。
「なに?」
 わたしは身構える。思えば彼女は、わたしに用があって昼を共にしたのだろう。
 先日、自分の親友にさんざん毒を吐いて、その顔を青くしたり赤くしたりしたことに対し、今さらながら謝罪のひとつも要求しようというのだろうか。まあ、なんてお友達想いですこと。さすがは他人を玩具に仕立て上げ、それを仲良く弄ぶことによって育まれた友情はものが違うわ。一人だけ仲間はずれにするのもかわいそうだから、あなたの顔色も変えてあげましょうか? 青、赤ときたから、今度は黄色がいいかしらね。信号機みたいで、まさに仲良しトリオって感じだね。
 なんて意地の悪いことを考えていたところ、中沢は座った状態で深々と頭を下げた。
「あの時はご迷惑をおかけして、まことに申し訳ありませんでした」
 突然の謝罪にわたしは虚を突かれた。返り討ちにしてやろうという意気込みは行き場をなくしてしまう。
 こちらが反応しないと中沢はいつまでも頭を下げ続けていそうだったので、わたしは彼女にもう止めるよう促した。
「わたしは別に気にしちゃいないよ。まあ、せっかく昼寝していたところを邪魔されて、たしかに迷惑だったけどね」
「すみません」
「その上、自分たちの行為を正当化するような言葉をだらだら聞かせられたあげく、一緒に仲良くいじめに参加しましょうだなんて誘われたりしたんで、正直げんなりさせられたけどね」
「すみません……」
「あげくは女子B……お仲間のひとりに危うくぶたれそうにもなったしさ。ほんと、たまったもんじゃなかったよ」
「……本当に、すみませんでした」
 どこまでも垂れていく中沢の頭。かわいそうだから、これ以上は勘弁してやることにしよう。
「あなたが謝罪するのはいいとして、お仲間二人はこないわけ?」
 あの場面でほとんど発言していない中沢は迷惑度でいえば一番低かったわけで、謝るべきはむしろあの二人なのではと思うのだけど。
 中沢は顔を上げて気まずそうに、
「宮村さんと吉永さんは自分が悪いとは思ってはいませんから。それどころか、わざわざ親切に忠告してあげたというのに、けんもほろろな対応をされたということで、むしろ高屋さんに憤慨しているようですし」
「でしょうね」
 そう答えながら廊下側の席に目を向けると、女子Aと女子B(どっちが宮村で、どっちが吉永なのかわからないけど)が恨みがましい目でこちらを睨んでいた。たしかに中沢の言う通りであるようだ。まあ、あいつらに謝ってほしいかと言われれば、全然そんなことは望んじゃいないけどさ。
 再び視線を中沢に戻す。
「あなたはお仲間の意に反するような真似をしてよかったの? そんな友達を裏切るようなことをしたら、いろいろとまずいんじゃない。例えばハブられるとかさ」
 わたしの問いに、中沢しばし苦悶の表情を浮かべていたものの、
「いいんです」
 と、わたしを昼に誘った時と同様の返事をした。どうも彼女は強い覚悟を持ってこの場に臨んでいるようだ。
 その強い覚悟でもって、いったい何を始めるつもりなのかと思っていると――
「……わたしは弱い人間です」
 弱々しいまでの自分語りだった。
「わたしは幼い頃から人の顔色ばかり窺うような人間でした。周りに自分を合わせることに汲々としている人間でした。たとえ自分ではこうだと考えているようなことでも、それが他の人たちの意見と異なっているのなら、当然のようにみんなの方に同調してしまうような人間でした。……そんな周囲に流されるばかりのわたしは、どうしようもないくらい弱い人間なんだと思います」
「はあ……」
 突然そんな告白を聞かされても、わたしは困惑するばかりだった。
 中沢が今の自分のありように思い悩んでいるのだということはわかったけど、でもなんでそれをわたしに聞かせようとするのだろう。わたしは悩みを相談するのに適した相手だとはとても思えないのだけど。
「わたしが知っているかぎり、高屋さんはいつもひとりでいるように見受けられます」
「まあ、そうだね」
「でも、そのことを全然苦にしているようには見えませんでした」
「〝苦〟どころか、むしろ〝楽〟だと思っているくらいだしね。」
「そんな高屋さんの姿を見て、常々思っていたんです。どうしてこの人はひとりでも平気なんだろう? ひとりは寂しくないんだろうか? 誰かと一緒にいなくて不安になったりはしないんだろうか?――って」
「……それってもしかして、わたしのことをぼっちでかわいそうだと同情したいわけ?」
 もしや煽られているかと思ってそう尋ねたところ、
「ち、違います!」
 反射的に大声を出してしまった中沢は、すぐさまはっと我に返り、風船がしぼむように小さくなってしまう。それでも消え入るような声で続ける。
「……違います。他の人がどう考えているのかは知りませんけど、わたしは同情とか哀れみなんかで高屋さんのことを見たりなんてしていません。むしろ、すごいなって思っているくらいなんです」
「すごい?」
「ええ。ひとりでも平気でいられる高屋さんは、本当に強い人なんだなって」
「強い、ねぇ……」
 わたしがひとりでいることを〝かわいそう〟や〝哀れ〟だとか思うのならいざしらず、〝すごい〟とか〝強い〟だなんてポジティブな受け止められ方をする人がいるだなんて想像だにしなかった。
「そんな高屋さんの姿にわたしは憧れてしまいます。だってわたしは、高屋さんとはまったく正反対の人間ですから……」
 唐突に始まった中沢の自分語りは、はやり唐突に終了した。
 思うに、こいつはわたしのことを誤解しているのだろう。いつもひとりでいるわたしを、他人に迎合することのない、孤高を貫いている強い人間であるのだと勘違いしているに違いない。
 バカバカしいにも程がある。わたしがいつもひとりでいるのは、単に他人と関わるのは煩わしいと思って避けているだけという、自分で言うのもなんだけど、非常に冴えない理由にすぎないのだから。だというのに、妙な買いかぶりをされたあげく、一方的に憧れなんか抱かれても、こちらとしては迷惑以外の何ものでもなかった。
 これ以上妙な誤解をされてはかなわないと思い、訂正しようとしたわたしだったけど、中沢が発した「田丸さんのこともそうです」という発言によって、その機会を逸してしまった。
「いつのことだったか、自然とクラス全体で田丸さんを無視しようという雰囲気になって……。わたしとしてはそんなことはよくないと思いながらも、その空気に逆らえず黙って同調するしかなくて……。これもひとえに、わたしが周りにただただ流されるばかりの弱い人間だったからで……。もしわたしが高屋さんのように強い人間であったなら、己の意志に従って、そんな空気に逆らうもだってできたはずなのに……」
「いや、田丸のことに関しては、わたしも他の連中と大差ないからね」
 なんせ、田丸がシカトされているのを知っていながら、そんなのは学校生活においてはよくあることだと達観した気になっていたくらいだし。
「でも、田丸さんに挨拶したじゃないですか」中沢は反論する。「あの日、高屋さんに声をかけてもらえたおかげで、田丸さんは救われたのではないでしょうか。田丸さんが高屋さんのことを敬愛するのも当然だと思います」
〝敬愛〟って、あんた……。言わんとしていることはわからないでもないけど、あいつの場合は〝なついてる〟という方がしっくりくるような気がするけどなぁ。
「わたしも、高屋さんのようにできればよかったのに……」
 再びぐったり頭を垂れる中沢。見ている方も首が痛くなりそうだ。
 そんな中沢の姿にどうしたものかと思っていたわたしは、ふと彼女の後方に視線を向けて言った。
「わたしが強いかどうかはさておくとして……同じようにしたいのであれば、今からでもやってみればいいじゃないの。ちょうど相手もいることだしさ」
 その言葉にはっとして、中沢は後ろを向いた。その視界にはわたし同様、ジュースのパックを三つ抱えて立っている田丸の姿が映っていることだろう。
 田丸は自分がいない間に妙な事態になっていることにきょとんとしていた。
 対する中沢の表情はこれまでになくこわばっている。
 きっと怖いのだろう。田丸がというよりは、田丸に関わることで周りの人間にどのように思われるかということが。そんな世間の意に反するような真似をしたら裏切り者認定され、次は自分がいじめられる側に回されかねない。自身が告白したとおり、それは中沢がもっとも恐れていることであるはずだから。
「田丸さん……」
 震える声で田丸の名を呼んだ中沢は、やがて覚悟を決めたように自分の膝に頭をぶつけんばかりの勢いで頭を下げた。
「あなたのことを無視したりしてごめんなさい!」
 ざわ……と教室の空気が揺らいだ。昼休み中ということもあり、人の数はさほど多くはなかったけど、中沢が田丸をシカトするという協定を破ったことはまたたくまにクラス中に知れ渡るはずだ。
 けしかける形になったわたしも心中穏やかではなかった。まさか中沢がここまでやるとは思わなかったのだ。この行為によって彼女がクラスでの立ち位置がどうなってしまうのか、危惧せずにはいられない。
 一番反応が薄かったのは、謝罪された当人であったかもしれない。田丸は相変わらずぼんやりした表情をしていたものの、
「ジュース買ってきたよー。高屋さんはコーヒー牛乳でいいんだよね」
 何事もなかったかのように買ってきたジュースを配っていく。田丸はおごるよと言ったものの、わたしがパシリをさせたと思われてはたまらないので、ちゃんと自分の分のお金は支払った。
 田丸は自分の席に腰を下ろすと、いちごミルクのパックにストローを差しておいしそうに飲み始める。
 やがて頭を上げた中沢は今にも泣きそうな顔をしていた。自分がシカトした仕返しをされたと思っているのかもしれない。
 だけど、田丸は最後まで中沢を無視したりはしなかった。
「わたしは、中沢さんは全然弱い人間なんかじゃないと思うけどな」
 田丸がぽつりと言った言葉に、中沢は驚いたように頭を上げる。
「だって、高屋さんが今にも宮村さんにぶたれそうになっていたところを機転を利かせて助けたじゃないの。それって、勇気がいたんじゃないかな。弱い人にはとてもできないと思うよ」
 ということは、女子Aの方が吉永なわけか。
「でもあれは、もともとこちらに問題があったわけですし……」
 あの件に関してはわたしもその通りだよなと思ったけど、でもあえて中沢に伝えた。
「中沢さん、あの時は危ういところ助けてくれてありがとう」
「高屋さん……」
 中沢は今にも泣き出しそうな表情になる。
 そんなわたしたちの様子を見た田丸は、ぷくっと不機嫌そうに頬を膨らませて、
「本当はわたしが助けるつもりだったのになー」
「え?」
「宮村さんが高屋さんをぶとうとした瞬間、わたしは素早く自分の席を飛び出してその手を掴み、『やめなさい! わたしの友達に手を出すような真似は許さないよ!』って颯爽と宣言するつもりでいたんだよ。そうすれば高屋さんもわたしに、『ありがとう、あなたはわたしの命の恩人よ!』なんて感謝感激してくれたはずなのにさ」
「……いや、それはないから」
 だいたい、あのときのあんたは自分の席でちぢこまっているばかりだったじゃないの。
「ごめんなさい。そうとは知らなくて……」と謝る中沢。
「お前も真に受けない!」
 双方に突っ込みを入れなくてはならなくてわたしは大忙しだ。
 田丸はジュースをひと吸いしてから、改まったように言った。
「正直なところ、中沢さんに謝られても、どうしたらいいのかわたしにはよくわからないんだよね。だって、中沢さんひとりに謝罪されたところで、今の状況がよくなるわけでもないんだしさ」」
「そうですね……」
 たしかに、クラスのリーダー的な人間の行動ならいざ知らず、明らかに目立たない存在である中沢に倣って皆が考えを改めるとは到底思えなかった。
「でもね、中沢さんはちゃんと謝ってくれたし、それになにより高屋さんがぶたれそうになったところを助けてくれた。そんな中沢のことをわたしはとても嫌いにはなれそうにない。だからさ――」
 田丸は中沢に手を差し出し、
「友達になろう。わたしたちってこれまでさして親しいわけではなかったけど、これからはちゃんとお話したりできるような関係になれたらいいな」
「田丸さん……」
「もし嫌ならいいんだけど……」
 自分と関わり合いを持つことのデメリットを思い出し、田丸は躊躇したようだけど、中沢は彼女の手をぎゅっと握りしめ、
「わたしでよろしければ!」
 ぼろぼろと涙をこぼしながらも、はっきり答えた。
「ありがとう」
 田丸もここ何カ月忘れていた満面の笑みで応えた。
 そんな二人の姿をわたしは温かな目で眺めていた。
 これから二人の行く道は決して順風満帆とはいかないだろう。クラスの協定を破ったとして、二人揃ってハブられることになるかもしれない。そのことに耐えることができず、誓ったはずの友情にヒビが入る事態になるかもしれない。
 それでも今は、二人の門出を祝福したい気持ちだった。
 …………。
 ……わたし、この場にいる必要があるんだろうか?
「景ちゃんは自分のことを弱い人間だって卑下するけどさ、わたしも自分のことを弱い人間だなって感じるんだよね」
 いちごミルクをすすりながら田丸は言った。友達認定したとたん、すぐさま相手を名前で呼び出すのはさすがというか、なんというか。
「そうなんですか? えーと……佳乃さん」
 田丸が買ってきたレモンミルクをすすりながら応対する中沢。こちらはすぐさま名前で呼ぶことには抵抗があるようだけど、さっそく人に流されていた。
「うん、シカトされたせいで、そのことをまざまざと思い知らされたよ」と田丸は言った。「シカトの何が怖いってさ、これまで仲良くしていた友達が話しかけもしてくれなくなることもそうだけど、それまでたいして親しくなかった人たちまでもが、まるでわたしなんて最初から存在していなかったかのように扱いだすことなんだよね。それはまるで、世界の中にわたしひとりだけが取り残されてしまったかのような感覚で……。そのことが怖くて辛くてたまらなくて、いつもひとり、教室の自分の席で震えていたものだよ」
「……ごめんなさい」
 しなだれる中沢を、「別に景ちゃんを責めてるわけじゃないよ」と田丸はなだめる。
「ただ、人との繋がりを絶たれることがこんなにも辛いものなんだって嫌でも気付かされたんだよね」
「佳乃さんのその気持ち、わたしもよくわかります」
 中沢は実感がこもった様子でうなずいた。
「だからこそ――」田丸はわたしの方を向いて言った。「麻美ちゃんに声をかけてもらえて、本当に嬉しかったんだ」
 不意を突かれ、わたしは吸い込んでいたコーヒー牛乳を少しパックに戻してしまった。
「何よ、藪から棒に。……っていうか、人を馴れ馴れしく名前+ちゃん付けで呼ぶんじゃない!」
 たまらずわたしは抗議したものの、田丸は素知らぬ顔で、
「あの朝、麻美ちゃんがかけてくれた『おはよう』の一言は、わたしにとっては真っ暗な世界に差し込んだ一筋の希望の光のように思えたんだよ」
 田丸の脳内では、天上より遣わされし天使アサミエルによって福音を授けられるという、神々しい宗教画のような光景でも広がっているのだろうか。
「遅ればせながらだけど、麻美ちゃん、本当にありがとね」
 満面の笑みでそう言うと、田丸はぺこりとわたしに頭を下げた。
「う、うん……」
 こちらとしては感謝されるようなことをしたつもりなどまったくなかったので、なんとも居心地が悪くなってしまう。ちらりと中沢に視線を向けると、彼女は「ほら、言った通りじゃないですか」とばかりに微笑んでいる。それがわたしの居心地の悪さをさらに加速させた。
「でも、ちょっと不思議だったんですよね」小首を傾げながら中沢は言った。「どうして高屋さんが田丸……佳乃さんに声をかけたんだろうって。わたしの印象では、高屋さんは常に周囲からしかるべき距離を置き、わざわざクラスのもめ事に足を突っ込んだりするようなタイプではないと思っていたものですから」
「たしかにそうだね」中沢の疑問に田丸も同調する。そして、ストレートにわたしに尋ねる。「どうして?」
「いや、どうしてと言われても……」
 そんなこと、こっちが聞きたいくらいだ。中沢が指摘した通り、たしかにあれは普段のわたしからは考えられないような行為であったから。
 あのとき、自分はいったい何を考えていたのだろう。後になってただの気まぐれだの、一時の衝動だの、眠気のせいで頭が正常に働いていなかったせいだのといろいろと理屈をこねくり回してはみたものの、どうもしっくりこない。もっと根本的な理由があったような気がするのだ。
 そう、たしか――
「……どうせ死ぬんだから」
「「え?」」
 わたしがぼそりと呟いた一言に、二人が一様に驚きの表情を浮かべる。
 驚いたのはわたしも同様だ。なんで突然、〝死〟なんて不穏な単語が飛び出したのか、自分でもよくわからなかった。
 わからないながらもわたしは続ける。
「どうせ人なんていずれ死ぬんだから、そのときになって後悔しないよう、自分の心の命じるがままに行動してみよう――そんなふうに思ったんだ」
 口に出してみたところでやっぱりよくわからなかった。これではまるで、病気かなんかで今日明日ともしれぬ人間の境地じゃないか。
「いったい何を言っているんだろうね、まったく」
 ハハハ……と笑って誤魔化してみたものの、二人からは想定していなかった反応が返ってきた。
「かっこいい!」
 目をキラキラさせた田丸が発した一言に、わたしはぎょっとしてしまった。
「……か、かっこいい?」
「うん。普段は周囲に対し、『わたしには関係ないね』とばかりにクールを装っていながら、その実、胸の奥では正しきことを成そうという熱い想いが燃えているんだね。いやあ、麻美ちゃんは本当にかっこいいなあ!」
 ひとりで勝手に盛り上がっている田丸を見て、勘弁してくれと思った。わたしはそんな大層な人間ではないのだから。
 わたしは助けを求めるように中沢に視線をむけたものの、こっちはこっちでやはり同様に目を輝かせてわたしを見つめている。
「麻美さんは本当に素敵な人です」
 それこそ敬愛に満ちた表情で中沢は言った。
 だから、勘弁してくれっての!
 わたしはたまらず頭を抱えて机に突っ伏した。それはこのバカげた事態に参ってしまったのと同時に、ちょっとだけ――あくまでちょこっとだ――照れくささが顔に出そうになってしまい、慌ててそれを隠そうとしたのだということは否定できなかった。
「あら、出かけるの?」
 母がそう尋ねたのは、わたしが昼間でも薄暗い玄関の框に座って靴を履いている時だった。
 わたしは母に丸めた背中を向けたまま、
「ちょっと、友だ……クラスメイトの買い物に付き合わなくちゃならなくなってね」
 自分としてはまったく乗り気ではないのだということをアピールすべく大きくため息をついてみせた。

 今度の日曜日、一緒に修学旅行のための買い物に行くという決定がなされたのは、数日前の昼休みのことだった。
 その日、わたしと田丸と中沢の三人は、いつものようにくっつけた机を囲んで昼食を共にしていた。そう、あの――初めて三人で昼を食べ、中沢が自分は弱い人間だと告白し、田丸にシカトに荷担したことを謝罪し、田丸がそれを許して友達になろうと提案した――日以来、こうして三人で昼を食べることが常態化しているのだ。
「じゃあ、景ちゃんのスコッチエッグ一個と、わたしのフライドポテト二本を交換ね」
「えっ、なんか交換レートおかしくないですか?」
「そうかなぁ? じゃあ、おまけとしてブロッコリーも付けるよ」
「……それ、佳乃さんが嫌いなおかずを押し付けているだけですよね?」
 中沢と田丸が弁当のおかずをトレードしている様子を見て、わたしは小さくため息をついた。……なんでこんな事態になってしまったのだろう。
 クラスの田丸に対するシカトは、どうも自然消滅という形になったようだ。別に誰かが終結を宣言したわけではないものの、わたしや中沢が協定破り(そもそもわたしは、そんなバカげた協定に参加した覚えはないのだけど)をしたことによってもはや有名無実化してしまった。以降も後ろめたさもあってか田丸に積極的に関わろうとするクラスメイトはいなかったけど、朝の挨拶やちょっとした手伝いを頼むときに声をかけるくらいはされるようにはなったようだ。
 いや、一度だけ積極的に声をかけてきた相手はいた。例によってわたしは名前を覚えてはいないけど、見るからにカースト上位に位置していそうな女子四人組だ。以前田丸は、そのグループの末席に名を連ねていたそうだ。なんでも一学期早々勧誘されたのだという。田丸自身も「なんでだろうね?」と不思議がっていたが、それについては〝顔〟の一言で説明がつきそうだ。
 ある日の休み時間、四人は連れ立って田丸の席にやってくると、これまでのことなどまるでなかったかのように一緒に街に遊びに行こうと誘ってきた。その様子を自分の席から突っ伏した状態で見ていたわたしは、田丸が元の群れに戻ることができるのであれば、それに越したことはないんじゃないかと思っていた。
 しかし、彼女たちに対する田丸の返答は、
「アッカンベー!」
 だった。
 あとで田丸に聞いたところによると、彼女がクラス全体からシカトされるようになったのは、そのイケてるグループ内での人間関係のいざこざが発端であったようだ。なんでも、リーダー格の女子の彼氏が田丸のことを「かわいい」と評したのがきっかけだったとか。なんてバカバカしい……。
 田丸も同意見らしく、「あの人たちと付き合うようになってせいで、以前仲のよかった友達と疎遠になったり、連日怪しげなナイトスポットに連れて行かれたりと、ろくなことがなかったからね。ほんと、バカバカしいったらありゃしないよ!」と頬をパンパンに膨らませながら言っていた。
「もうあの人たちとは付き合う気はないよ。だって、今のわたしには麻美ちゃんと景ちゃんがいるもんね」
 というわけで、田丸はわたしのところに入り浸るようになったのだった。
 中沢は、女子Aと女子B(名前がなんだったかは忘れた)と袂を分かったようだ。
 中沢によると、三人は入学した際に席が隣同士だったという理由でつるむようになり、以後もだらだらと関係を続けていただけで、それほど親密な間柄でもないそうだ。もっとも、それは中沢個人の感想であって、わたしには少なくとも女子Aと女子Bは仲がよさそうに見受けられたけど(なんせ、連れ立ってわたしの席に乗り込んできたくらいだし)。
 中沢には仲間内にいながらも疎外感を抱いていたが、それでもひとりでいるよりはましだという理由でそこに留り続けていたのだという。だけど、勝手にわたしに謝罪をしたり、田丸と友達になったりといった独断専行を咎められたこともあり、もうこの人たちとは一緒にはやっていけないと決断したのだそうだ。彼女自身、わたしに話しかけた時点でこういう結果になることは覚悟していたのだろう。
 一年以上続いていた関係を解消して後悔しないのかとわたしが尋ねたところ、中沢は少しの寂しさと、それ以上に希望に満ちた表情で、
「いいんです」
 と答えた。
 こうして居場所を捨てた中沢は、現在はわたしのところに身を寄せているのだった。
 田丸と中沢がつるむのは別にいい。なんせ二人はわざわざ宣言をしてまで友達同志になったのだから。
 でも、なんでわたしまでそれに付き合わされているのだろう。しかも、いつもわたしの席の周りに集まってくるため、傍から見れば、わたしが中心になっているように思われているのではないか。わたしの方からは、一度たりとも進んでそのような集まりを主催したことなどないのだが。
 わたしとしてはのんびりと弁当が食べられないし、食後の昼寝もできなくなるしで、溜まり場にされるのは正直勘弁願いたいところではあるのだけど――
「麻美ちゃん、卵焼きあげるね。このあいだあげたの気に入ってくれたみたいだから。ついでにブロッコリーも……あ、こっちはいりませんか、そうですか」
「以前、麻美さんからコロッケをいただいたので、よかったらわたしが作ったのも食べてみてください。わたしのはカニクリームコロッケなんですよ」
 ……おかずのバラエティが増すし、まあ悪くはないかな、なんて思ったりしているわけだけど。
「そういえば、来週から修学旅行だね」と田丸。
「そうですね」うなずく中沢。「行き先が京都と奈良というのがいかにも定番って感じですけど、わたしはまだ両方とも行ったことがないので楽しみです」
「そろそろ、旅行に持っていくものを買い揃えなきゃね」
「でしたら、繁華街まで遠出した方がいいかもしれませんよ」
「そうだね。せっかく街に出るんなら、買い物だけじゃなくていろんなところに遊びにも行きたいよね」
「いいですね、それ。さいわい、今週末はいいお天気みたいですし」
 まるで田丸と中沢の二人で買い物の相談しているかのようだけど、合間合間にチラチラこちらに向けられる視線のせいで、わたしに聞かせようとしてるのは明らかだった。どうもこいつらは、わたしを含めた三人で街に遊びに行きたいと思っているようだ。
 田丸はわたしの方から誘ってきてほしそうにうずうずしている。これまで何度となくわたしが助け船を出したこともあり、今回もそれを期待しているのだろう。
 中沢は孤高のわたしに憧れると言ってしまった手前、集団行動に引きずり込むことに若干の迷いがあるようだけど、今回ばかりは田丸との共闘関係を隠そうとしなかった。
 潤んだ瞳で懇願するペットショップで売られている子犬たち(二匹になってしまった!)に対し、わたしは素知らぬふりを決めこんで食事を続ける。これ以上、煩わしい人間関係に巻き込まれてたまるものか。
 弁当箱の蓋を見ると、そこには先ほど二人からもらった卵焼きとカニクリームコロッケが入っていた。……まさかこれって、便宜を図ってもらうためのワイロだったわけじゃないよね。
 弁当箱の蓋からちらりと視線を上げると、二人は期待に満ちた表情でわたしを見つめていた。
 取るべきか、取らざるべきか……。
 しばし煩悶していたわたしだったけど、結局は欲望に屈しておかずに箸を付けた。まずかったら文句のひとつも言ってやろうと思ったけど、あいにくおいしかったのでそれも叶わず、やけくそ気味にわたしは宣言した。
「マル、ケイ、二人とも今度の日曜日に一緒に修学旅行のための買い物に行くよ。――いいね?」
 それを聞かされた二人は、一瞬はっとした表情になり、次いで互いを見合い、最後に揃ってわたしの方を向いた。その顔には満面に笑みが浮かんでいた。
「もちろん!」と、田(マル)佳乃は答えた。
「いいですとも!」と、中沢(ケイ)子は答えた。
「まったく、なんでわたしがこんな面倒なことに付き合わなくちゃならないんだか……」
 回想から戻ってきたわたしは、今一度大きなため息をつくと、框から立ち上がり、母の方を振り向いた。
 母はにんまりと笑みを浮かべている。
「……何よ、気持ち悪いなぁ」
 眉をしかめるわたしとは対照的に、母のニヤニヤは増していく。
「仕方なくという割には、朝早くに起きたりして妙に気合いが入っているなと思ってね。普段、休みの日は昼まで寝ているのにさ」
「……今日は、たまたま早めに目が醒めただけだから」
「そうなんだ」
 母のニヤニヤは止まらない。……この人、絶対デートか何かだと思っているな。
「わたしはもう行くからね!」
 これ以上付き合っていられないと思い、わたしが玄関の扉に手をかけたところ、居間から父がのそっと姿を現した。
「ん」
 と、相変わらず一文字で母にどうしたのか訊く。母が「お友達とお出かけなんですってよ」とニヤニヤで言うと、「ん」と納得したようにうなずいた。そして、わたしの方を向き、
「車に気をつけて行ってきなさい」
 一瞬、何が起こったのかわからなかったわたしだったけど、理解が追いつくと仰天した声を上げてしまった。
「うわっ、喋った!?」
「……あんた、自分の父親をなんだと思っているのよ」
 母が呆れたようにツッコミを入れた。
 衝撃の展開を経て、改めてわたしは出かけようとした。ドアノブに手をかけたところで、ふと玄関の方を振り向く。そこには相変わらず父と母が並んで立っていた。これじゃまるで、出かける娘を温かく見守る両親という構図じゃないか。
 なんだか気恥ずかしくなってしまったけど、二人に向かってわたしは言った。
「じゃあ、行ってきます」
 父は軽く微笑んで、母は小さく手を振りながら答えた。
「行ってらっしゃい」
 最寄りの駅から電車で三十分ほど揺られ、わたしは目的の町に到着した。後ろから次々と押し寄せる人波に流されるように駅舎を出ると、日曜の日中は歩行者天国になっている道路を横切り、駅西口前の公園に入っていった。中央に設置されている噴水のあたりまでやってくると、円形の園内をぐるりと見回した。同じ沿線に住んでいるということで一緒に来ると言っていた田丸と中沢の姿はまだ見えない。約束の時間までまだ十五分以上あるのだから当然か。わたしは空いているベンチを見つけ、ガムや鳥のフンが付いていないことを確認してから腰を下ろした。ここで二人が来るのを待つことにしよう。
 夜にはナンパスポットとして賑わうこの公園も、まだ陽が高いこともあり健全な姿をしていた。夜には出没しない種類の若者や、家族連れの姿が多く見受けられる。群れている鳩を見つけては幾度も突撃を繰り返す小さな子どもと、それに律儀に付き合って飛び去る鳩の様子を見て、わたしはくすりと笑ってしまった。
「平和だねぇ……」
 ちょうどいい陽気も手伝い、わたしは大きく伸びをした。
 思えばここに来るのはずいぶんと久しぶりだ。以前来た時は夜で、ナンパされるのが目的だったっけ。でもその日はまったくの不漁で、結局声をかけてきたのは宗教青年と殺し屋だけだったんだよな。
「……ん? 殺し屋?」
 そうだ。あの日、わたしは殺し屋に声をかけられたんだった。背が高く、全身黒ずくめの恰好をした、けっこうイケメンの殺し屋を名乗る男に。殺してほしい相手はいないかと尋ねる殺し屋にわたしは言ったのだ。「わたしは、わたしを殺してほしい」と。
 ……そのことをすっかり忘れていた。
 自分が殺されるかもしれないというのに、そんなことなどすっかり忘れてのうのうと生活していたとは……。我ながら、脳天気なことこの上ないな。
 でもまあ、今もこうしてぴんぴんしているのだから、あの殺し屋はまったくの偽物だったということなのだろう。そりゃそうだよな。もともと最初から信じてはいなかったしね。
「なーんだ、つまんないの」
 わざわざ口に出して言ってみたとたん、本当につまらなくなってきてしまった。
 あのときわたしは、毎日を生きていることがつまらないと感じていたはずだ。これ以上生きていてもしょうがないと思っていたはずだ。だからこそ、殺し屋に自分を殺してほしいと依頼したはずなのだ。
 なのに、なんでわたしは今もなお、平然と生き続けているのだろう? わたし、死にたいんじゃなかったの?
 あれほど眩しかった太陽の光が陰ったように感じられた。鮮やかにきらめいていた風景がとたんに色褪せて見えた。家族連れの楽しげな声が耳障りなノイズにしか聞こえなくなってしまった。
 この広い世界の中に、わたしひとりだけがぽつんと取り残されてしまったような……そんな気分になってしまった。
「麻美ちゃーん!」
 わたしを呼ぶ声で我に返った。はっとして声がした方向に目を向けると、公園の入口のところで伸びをせんばかりに大きく手を振っている田丸の姿が見えた。その隣には照れくさそうに小さく手を振っている中沢の姿もあった。
 ……まったく、そんな大声で人の名前を呼ばないでよね。
 気恥ずかしく思いながらもs、二人が来てくれたことにわたしはほっとした。……さっき感じた、仄暗い感情は忘れることにしよう。
 田丸と中沢がこちらに向かって歩いてくる。わたしも二人の元に向かおうとベンチから立ち上がったところ、視界にひとりの男の姿が飛び込んできた。
 レトロなソフト帽に暑苦しいトレンチコートという、全身黒づくめの姿をした長身の男――殺し屋だ。
 殺し屋は田丸と中沢の後ろに立っていた。じっとわたしを見つめている。笑顔を絶やさなかった以前とは違い、いっさいの表情がない。それはまるで、どんな冷酷な行為も平然とこなすことができる、まさに殺し屋の顔をしていた。
 その黒き死の到来を、わたしは氷のように静かな心で受け止めた。
 ……遅かったじゃない。いいかげん待ちくたびれちゃったよ。ほら、さっさとやってちょうだい。一刻も早く、わたしを退屈から救い出してよ。
 殺し屋は田丸たちの脇をすり抜けて、わたしの方に向かって駆けてくる。懐に手を入れ、中から黒光りするものを取り出した。銃だ。
 それを見たわたしは、背を向け、殺し屋が来るのとは反対側の出入り口に向かって走り出した。
 背中越しに田丸と中沢がわたしを呼ぶ声が聞こえた。
 それに応えることなく、わたしは公園の外に飛び出した。
 町の中をひた走るわたしの行く手を大勢の通行人が邪魔をする。わたしは彼らの隙間を縫い、ときにはぶつかって文句を言われながらも駆けていく。
 殺し屋は誰にもぶつかることなくわたしを追ってくる。
 横断歩道を渡ろうとしたところ、緑色のタクシーが飛び出してきた。けたたましいブレーキ音を響かせ、わたしの数センチ手前で停止する。「赤信号が見えないのか!」と怒鳴る運転手にわたしはぺこぺこ頭を下げながら前を通りすぎる。
 殺し屋はひらりとタクシーのボンネットを飛び越えてわたしを追ってくる。
 わたしはビルとビルの間の路地裏へと入った。殺し屋が気付かず前を通りすぎてくれることを期待した。
 しかし、殺し屋は何の迷いもなく路地裏に入り、わたしを追ってくる。
 わたしは迷路のような路地裏をひた走りながら、自分の選択が失敗だったのではないかと思い始めていた。たしかに人通りのない路地裏なら誰にも行く手を邪魔されないけど、その条件は殺し屋も同じなのだ。むしろ、わたしを追いやすくなったといえるかもしれない。
 殺し屋はぐんぐんわたしに迫ってくる。
 何かがわたしの足にぶつかり、たまらず転倒してしまう。倒れたわたしの脇を行く手を邪魔をしたポリバケツが転がっていく。わたしは擦り剥いた膝の痛みも忘れて立ち上がり、そのポリバケツを手に取る。中にはまだゴミが残っているのか少し重たい。根性で持ち上げると、殺し屋がやって来る方向めがけて投げつけた。床をバウンドしながら転がってくポリバケツ。
 殺し屋はそれを難なく飛び越える。
 それを見て、わたしは再び駆け出す。
 殺し屋が追う。
 わたしは路地を右に曲がる。
 殺し屋も右にまがる。
 ちょっとした段差になっているところをわたしは飛び越えた。
 殺し屋は段差を長い足でひとまたぎする。
 わたしは逃げる。
 殺し屋が追う。
 逃げる。
 追う。
 逃げる。
 追う。
 逃げ――わたしは足を止めた。
 目の前に広がっていたのは、三方をビルの壁に囲まれた袋小路だった。
 振り返ると、こちらに迫ってくる殺し屋の姿が見えた。
 わたしは隠れられる場所がないか探したけど、猫が入り込めるような隙間すら見当たらない。
 殺し屋が迫る。
 わたしはビルをよじ登ろうと試みたものの、何の引っかかりのもない壁には手をかけることすらできない。
 殺し屋が迫る。
「誰か! 誰か助けて!」
 わたしは叫んだ。自分の声があたりに反響する。返事はない。
 殺し屋が迫る。
 わたしはたまらず頭を抱え、固く眼を閉じた。
 嫌だ! こんなところで殺されるだなんて、絶対に嫌だ!
 殺し屋がすぐそこまで迫る。
 死にたくない、死にたくない、死にたくない、死にたくない、死にたくない、死にたくない、死にたくない、死にたくない、死にたくない、死にたくない、死にたくない、死にたくない、死にたくない、死にたくない、死にたくない、死にたくない、死にたくない――

「死にたくない!!」

「あ、そうですか。じゃあ、やめます」
 という殺し屋の声が聞こえた。
「……え?」
 わたしがゆっくりと目を開けると、殺し屋は持っていた銃を懐にしまっているところだった。
「ど……どうして……?」
 わたしはかすれた声で訊く。どうして、ここまで追い詰めたわたしを殺さないの?
「どうしてって、それはあなたが『死にたくない』と言ったからですよ。依頼人が依頼を取り下げた以上、それに従うのは当然じゃないですか。わたしは殺し屋です。むやみに殺しをする殺人鬼とは違うのですよ」
 なにそれ? つまり、わたしが最初から「やっぱり殺されるのはやめた」って言ったら、こんな追いかけっこなんかしなくてもよかったってこと?
「は……あはは……」
 緊張の糸がぷっつりときれ、わたしはその場にへたり込んでしまった。しばし呆然としたまま、ひんやりとした地面の感触をお尻に感じていた。
「でも、どうしてです?」殺し屋は訊いた。「どうして、あなたは殺されたくないと思ったのですか? ご依頼されたときは今すぐにでも殺してほしそうな様子でしたのに」
 わたしは殺し屋を見上げた。さっきまでの冷酷さの様子は微塵もなく、穏やかな笑みを浮かべている。
 その笑顔にほっとしたわたしは、ぽつぽつと語り出した。
「わたしはね、十七年ほど人間やってきたけど、その間あまり生きててよかったと思えたことなんてなかったように思うんだよね。といっても、とりたてて不幸な人生だったわけではまったくないんだけどさ。ただ、毎日が変わらないことの繰り返しのように感じられて、それがつまらなくて、いつも退屈していたんだ。そんな人生に、わたしは絶望していたんだと思う。
 世の中には日々の食べ物にも不自由していたり、戦渦に巻き込まれたりといった不幸な人はいくらでもいて、そんな人たちに比べたら、わたしの絶望なんて安いものにすぎないんだろうね。そんなことは当のわたしが一番よくわかっているよ。……でもね、安かろうがなんだろうが、絶望には違いないんだよ。
 ねえ、わたしって生きているのかな?
 そりゃあ、生物学的には生きているんでしょうよ、心臓が動いているからね。……でも、なんていうか、自分が生きているという実感がまるで湧かないんだ。
 こんな生きているんだか死んでいるんだかわからない人生に意味なんてあるの? 生きているだかわからないんなら、いっそのこと死んでしまっても別にかまわないんじゃないか――そんなふうに思っていたんだ。
 そんな時、あなたがわたしの前に現れた。誰でも殺してくれるって言った。だから、わたしは頼んだんだ。『わたしを殺してほしい』って……」
「ですが、あなたはその依頼を撤回なされた。それはどうしてです?」
 わたしのとりとめのない告白を黙って聞いていた殺し屋が今一度問いかける。
「それは――」
 なぜわたしは殺し屋を見た瞬間、とっさに逃げ出してしまったのだろう。殺しを依頼した時にはなかった死を恐れるわけができたのだろうか。頭の中をひっくり返してみたものの、特別それらしい理由は見当たらなかった。
 あるとすれば――
「最近ね、なんだかうまくいっている感じがするんだ。親との仲とか、学校での交友関係とかさ。どうせ命が長くないんだからということで、悔いの残らないよう積極的に行動してみたことがどうも功を奏したみたいなんだよね。そうやって日々を過ごしていたら、なんとなく死ぬのが惜しくなっちゃったのかもしれない」
 自分のあまりの単純さにわたしは笑ってしまう。
「宝くじで三億円当たったとか、芸能界にスカウトされたとか、どっかの大富豪に見初められたとかいうのならまだしも、そんな些細な理由でもっと生きていたいと思えちゃうなんてさ。ホント、バカみたいだよ」
 殺し屋さん、あなたもおかしかったら笑ってもいいよ。
 しかし、殺し屋は笑わなかった。だから、わたしも笑うのをやめて話を続ける。
「でもね、そんな些細なことであっても、わたしにとっては希望なっているんだ。こんな日々が続くのなら、人生もまんざら悪いものじゃないかなって気がするんだ。これから先も生きてみてもいいかなって思えたりするんだ。――それっておかしいかな?」
 わたしの問いに殺し屋は首を振り、
「そんなことないですよ。よかったじゃないですか」
 殺し屋は微笑んだ。わたしも笑顔で返す。
 ……でも、その笑みはすぐに萎んでしまう。
 生きることに希望を見いだせたのはいいことだ。人に言われなくてもそれはわかっている。わたしは今まさに、生のありがたみを実感しているところなのだから。
 だけど――
「そんな日々がいつまでも続くとはとても思えない。どうせすぐに親なんてウザいと思うようになるだろうし、田丸や中沢のことだってやがて鬱陶しく感じるに決まっているんだ。些細な幸せなんてものは、やはり些細な嫌なことであっさりと壊れてしまうものなんだよ、きっと。そうなったら、再び人生に絶望してしまうかもしれない。また死んだ方がましだと思うようになるかもしれない」
 ……そうなったとき、わたしはいったいどうしたらいいんだろう?
「ご安心ください。そのときは私が殺して差し上げますよ」殺し屋は優しい笑顔で言った。「あなたとの契約は一時停止になったものの、破棄されたわけではないのですから」
 恐ろしいことを言われたはずなのに、なぜだかわたしは救われたと感じた。
「麻美ちゃーん! どこー?!」
「麻美さん! 無事なら返事をしてください!」
 わたしを呼ぶ声が聞こえた。やがて路地の向こうから田丸と中沢がやって来るのが見えた。
 マル、ケイ……。二人ともわたしを探しに来てくれたんだ……。
 わたしはすぐさま立ち上がり、
「わたしはここよー!」
 二人に存在を知らせるべく大きく手を振ってみせた。
 わたしの存在に気付き、二人は足を速める。
 それを確認したわたしは、ふと横を向いた。
「……え?」
 そこに殺し屋はいなかった。あたりを見回してみたものの、あるのはひんやりとした路地裏の静寂だけ。目立たない効果を狙っているようでいて、その実、周囲から浮きまくっていた黒ずくめの男は、まるで最初から存在していなかったかのようにこの場から消え去っていた。
「麻美ちゃん!」
 呆然としていたわたしに、走ってきた勢いのまま田丸が抱きついてきた。その強烈なタックルに、わたしは堪らず田丸もろとも倒れ込んでしまった。腰と背中をしたたかに打ち、一瞬息が詰まってしまう。
 痛みに眉を顰めるわたしの顔に雫が一滴落ちてきた。はっとして見ると、すぐ目の前に田丸の泣き顔があった。つぶらな瞳から次から次へと涙がこぼれ、わたしの顔へと降りかかる。
「あさ……麻美……麻美ちゃ……」
 田丸はなにか言おうとするものの、絶えず襲ってくる嗚咽でまともに言葉にならない。
「佳乃さん、落ち着いてください」
 遅れてやって来た中沢が田丸の腕を引っ張ってわたしから引き剥がした。身体にかかっていた重みがなくなると、わたしはぶつけた箇所をさすりながら立ち上がった。
「麻美さん、いったいどうしたんです? 突然、何かかから逃げるように駆け出したりなんかして」
 ぐずる田丸の背中をさすりながら、中沢はわたしに尋ねた。
「こ、殺し屋が……」
 わたしの呟きに、中沢はきょとんとした表情になる。
「……ううん、なんでもない」
 首を振って答える。なんとなく、これは他人に言っても詮無きことなのだろうと思った。
 中沢は小さなため息をつくと、珍しく怒った調子で言った。
「こっちは大変だったんですよ。麻美さんを探して町中駆け回ったあげく、こんな路地裏にまで入り込んでしまうし、田丸さんは田丸さんで『わたし、きっと麻美ちゃんに嫌われちゃったんだ!?』とか言って泣き出すし……。わたしは別かまいませんけど、田丸さんにはちゃんと謝ってください」
「ごめん……」
 二人に迷惑をかけたことを素直に悪いと思い、わたしはぺこりと頭を下げた。
「でもまあ、何事もなかったみたいでよかったです……って麻美さん、どうしたんですか?!」
 頭を上げたわたしを見て、中沢は驚いた顔をした。田丸も赤い目を丸くしている。
 え、どうかしたの?
 困惑するわたしの頬に何か暖かいものが伝うのを感じた。とっさに顔に手を触れてみると、指先に温かな液体の感触がした。
 わたしは泣いていた。涙腺が壊れてしまったのように、瞳から次から次へと涙がこぼれていく。嗚咽がとめどなく漏れる。身体の震えてとまらなくて、たまらず両腕で自分の肩を抱きしめる。
 今頃になって殺し屋に命を狙われた恐怖が襲ってきたのだ。逃げているときは泣いている余裕なんてなかったし、その後は思わぬ展開にただ呆然とするばかりだったから。
 ……まずいなこれは。こんな姿を田丸や中沢に見られたら恥ずかしいじゃないの。こいつらの中ではわたしは強い人ってことになっているのにさ。
 不意に田丸が両腕でわたしの頭を包み込んだ。そして、優しく撫で始める。
「麻美ちゃん、なにがあったのかはわからないけど、きっと大変だったんだね。いいよ、泣いたって。そうすればきっとすっきりするからさ」
 それは、いつもの捨てられた子犬のような田丸からは想像もつかないような包容力に満ちた声だった。
 中沢は何も言わず、田丸にしたのと同じようにわたしの背中をさすってくれた。
 わたしは二人の体温をその身に感じていた。
 あぁ、そうか……。
 わたしは納得した。今になって涙が出てきたのは、きっと二人に再会して安心したせいだったんだな。
 強い人間なんかじゃない、ありのままのわたしという存在を受け入れてもらえたことがこの上なく嬉しくて……。
 なだめられているうちにわたしの涙の質が変様した。恐怖に打ち震える涙から、暖かい気持ちに触れたうれし涙に――。
 この涙は、わたしが今たしかに生きているのだという何よりの証だ。
 二人には迷惑をかけるようだけど、しばらくの間、この心地よさに浸らせてもらうことにした。