「河村さん!」
怒声といっても差し支えないその大きな声は足元から響いてきた。驚いてその声がした方向――二階へと降りる階段に目を向けると、踊り場にこちらを睨み付けている生徒の姿があった。男子のように髪が短く、りりしい眉をしているものの、わたしと同じセーラー服を着ていることから女子であることがわかる。――クラスメイトで、学級副委員長で、掃除当番の班長でもある沢田みさきさんだ。
沢田さんは勢いよく一段飛ばしで階段を駆け上がってくると、ずかずかとわたしと松永先輩の間に割り込んできた。
「河村さん、いったい今までどこをほっつき歩いていたのよ! みんな待っていたんだからね!」
ハスキーボイスを怒りで震わせて沢田さんは言った。その剣幕にわたしはたまらずたじろいでしまう。
「ごめんなさい。ちょっといろいろあったものだから……」
「何よ、いろいろって?」
「えっと……それは……」
わたしは言葉を濁す。まさか、出入りが禁止されている屋上に行っていたとは言えないし……。
「そんなことより、みんなはまだ教室で待っているの?」
追求の矛先を逸らそうとしたのと、もとよりわたしが戻ってこないせいで掃除当番のみんなが迷惑してはいないか気になっていたこともあり尋ねたところ、沢田さんは呆れたように大きなため息をついて、
「そんなわけないでしょうが。河村さんがゴミを捨てに行ってからどれだけ時間が経ったと思ってるのさ。みんなとっくに家に帰るなり部活に出るなりしているでしょうよ。豊ジイに河村さんが戻ってこないこと告げたら、解散していいって言われたからね」
豊ジイというのはわたしたちのクラスの担任である豊田先生のあだ名だ。そうやって目上の人をあだ名で呼ぶのはあまりいいことだとは思えないのだけど。
「明日のショートホームルームで豊ジイに小言のひとつも言われるかもしれないけど、河村さんが悪いんだから、わたしたちを恨まないでよね」
「うん……」
わたしがうなだれたのは、別に豊田先生に怒られるからじゃない。みんながわたしのせいで待ちぼうけを食らっていなかったことにほっとする一方で、少し悲しくなってしまったのだ。みんなにとって、わたしは待つに値しない存在だと思われているようで……。
しなだれるわたしの肩に軽く手が乗せられた。はっとして頭を上げるとそこには松永先輩の顔があった。先輩は落ち込んでいるわたしを励まそうとするかのように優しく微笑んでいた。
その笑顔によってわたしの心はすっと楽になった。こんなわたしにも笑いかけてくれる人がいる。最初から期待してなどいなかったクラスメイトの形だけの心配よりも、いま目の前にいる出会ったばかりの先輩が向けてくれる温かないたわりの方がずっと大切に思えた。
松永先輩はそっとわたしの肩から手を放すと、
「じゃあ、私は行くね」
わたしに背を向けて階段を降りていった。
あぁ、行っちゃう……。
わたしがその後ろ姿を未練たらたらで見送っていると、先輩は踊り場を曲がったところで立ち止まり、こちらを仰ぎ見て言った。
「またね由佳」
その一言を残して松永先輩は去っていった。でもわたしは、この学校に入ってから初めて下の名前で呼んでくれた人の残像をいつまでも見続けるかのように、しばし踊り場に視線を注ぎ続けていた。
「……あれって三年の松永京子先輩よね?」
沢田さんが訊いた。それは尋ねるというより確認するという感じだった。
「そうだよ。よく知ってるね」
「そりゃそうよ。この学校じゃ知らない者はいない有名人だもの」
そうだったんだ。わたしは今日会うまで松永先輩の存在すら知らなかったけど、たしかにあんな目立つ髪をしていたら噂になるのは当然かもしれない。
「まあ、わたしも実際に会ったのはこれが初めてだけどね。お姉ちゃんから聞かされてはいたけど、想像以上の赤さだわ……」
沢田さんはわたし同様、踊り場を見つめながら呆れとも感嘆ともつかないため息をついた。しかしすぐに気を取り直すと、わたしに厳しい眼差しを向ける。
「河村さん、いったいどういうことなの?!」
「ゴミを捨ててくるのが遅れたこと? だから、それにはいろいろあって――」
「そうじゃなくて!」沢田さんはわたしの言葉を遮った。「どうして松永先輩と一緒にいるのよ! もしかして何かされたの? カツアゲされたりとか、タバコの火を押し付けられたりとかさ!」
「そ、そんなことされてないよ!?」
わたしは首を振って答える。
「何もないわけないでしょ! だってあの人、不良だよ!」
「…………」
沢田さんはわたしが〝不良の〟松永先輩に絡まれていたと思い、心配してくれているようだ。その気持ちはありがたくはあるけど、先輩のことをさも悪人であるかのように断ずるその物言いには正直反感を覚えずにはいられなかった。
髪を真っ赤に染めていたり、合鍵を作って無断で屋上に出入りしていたりと、たしかに松永先輩には不良と呼ばれても仕方がないところがあるのかもしれない。実際、わたしもそう思ったからこそ、先輩に恐怖したわけだし。
だけど、今ではそんな些細なことはどうでもよくなっていた。たとえ不良であったとしても、先輩がわたしにあの空を見せてくれたことに変わりはないのだから。
先輩がわたしに何かしたとすれば、それはあの素敵な場所への出入りを許してくれたことだろう。とはいえ、それを正直に沢田さんに話すわけにはいかない。
これ以上松永先輩の悪口を聞かされたり、ゴミを捨てに行った際の空白の時間について根掘り葉掘り尋問される前に退散することにした。
「松永先輩とは廊下で擦れ違っただけで、本当に何もなかったの。だから心配しないで。そんなことよりわたし、ゴミ箱を教室に置いてこなきゃ。ここでお別れだね。じゃあ、また明日!」
早口で一方的に告げると、わたしは早足に教室へと向かった。
「ちょっと待ちなさいよ!?」
わたしの素早い行動にしばし呆気にとられていた沢田さんだったけど、やがて我に返りあわてて呼び止めようとする。しかしわたしは聞こえないふりを決めこんだ。
ごめんね。松永先輩と屋上で会ったことはわたしたち二人だけの秘密なの。だからお願い。これ以上わたしにかまわないで。
「河村さん!」わたしの心の中の謝罪などお構いなしに沢田さんはわたしの背中に怒鳴りつけた。「豊ジイなら職員室にいるから、今日のうちに釈明しておいた方がいいよ。怒られることに変わりはないだろうけど、少なくともみんなの前で恥を晒すよりはましだろうからさ。それと、掃除当番の班長として言わせてもらうけど、今後はゴミを捨てに行ったまま戻ってこないだなんてことはないようにしてよね!」
そして、ぱたぱたと遠のいていく足音。
振り返ると、すでにそこに沢田さんの姿はなかった。どうやら下の階に降りていったようだ。沢田さんには悪いけど、彼女がいなくなってくれたことにほっと胸をなで下ろした。
それにしても、沢田さんはいったい何をしに三階に来たのだろう? てっきり教室に忘れ物でも取りに来たのかと思ったのだけど、そのまま去っていったところを見るとそうではなさそうだし……。
よくわからないけど、せっかく忠告してもらったこともあるし、わたしは教室にゴミ箱を置いたら職員室の豊田先生のもとに出頭することにした。
怒声といっても差し支えないその大きな声は足元から響いてきた。驚いてその声がした方向――二階へと降りる階段に目を向けると、踊り場にこちらを睨み付けている生徒の姿があった。男子のように髪が短く、りりしい眉をしているものの、わたしと同じセーラー服を着ていることから女子であることがわかる。――クラスメイトで、学級副委員長で、掃除当番の班長でもある沢田みさきさんだ。
沢田さんは勢いよく一段飛ばしで階段を駆け上がってくると、ずかずかとわたしと松永先輩の間に割り込んできた。
「河村さん、いったい今までどこをほっつき歩いていたのよ! みんな待っていたんだからね!」
ハスキーボイスを怒りで震わせて沢田さんは言った。その剣幕にわたしはたまらずたじろいでしまう。
「ごめんなさい。ちょっといろいろあったものだから……」
「何よ、いろいろって?」
「えっと……それは……」
わたしは言葉を濁す。まさか、出入りが禁止されている屋上に行っていたとは言えないし……。
「そんなことより、みんなはまだ教室で待っているの?」
追求の矛先を逸らそうとしたのと、もとよりわたしが戻ってこないせいで掃除当番のみんなが迷惑してはいないか気になっていたこともあり尋ねたところ、沢田さんは呆れたように大きなため息をついて、
「そんなわけないでしょうが。河村さんがゴミを捨てに行ってからどれだけ時間が経ったと思ってるのさ。みんなとっくに家に帰るなり部活に出るなりしているでしょうよ。豊ジイに河村さんが戻ってこないこと告げたら、解散していいって言われたからね」
豊ジイというのはわたしたちのクラスの担任である豊田先生のあだ名だ。そうやって目上の人をあだ名で呼ぶのはあまりいいことだとは思えないのだけど。
「明日のショートホームルームで豊ジイに小言のひとつも言われるかもしれないけど、河村さんが悪いんだから、わたしたちを恨まないでよね」
「うん……」
わたしがうなだれたのは、別に豊田先生に怒られるからじゃない。みんながわたしのせいで待ちぼうけを食らっていなかったことにほっとする一方で、少し悲しくなってしまったのだ。みんなにとって、わたしは待つに値しない存在だと思われているようで……。
しなだれるわたしの肩に軽く手が乗せられた。はっとして頭を上げるとそこには松永先輩の顔があった。先輩は落ち込んでいるわたしを励まそうとするかのように優しく微笑んでいた。
その笑顔によってわたしの心はすっと楽になった。こんなわたしにも笑いかけてくれる人がいる。最初から期待してなどいなかったクラスメイトの形だけの心配よりも、いま目の前にいる出会ったばかりの先輩が向けてくれる温かないたわりの方がずっと大切に思えた。
松永先輩はそっとわたしの肩から手を放すと、
「じゃあ、私は行くね」
わたしに背を向けて階段を降りていった。
あぁ、行っちゃう……。
わたしがその後ろ姿を未練たらたらで見送っていると、先輩は踊り場を曲がったところで立ち止まり、こちらを仰ぎ見て言った。
「またね由佳」
その一言を残して松永先輩は去っていった。でもわたしは、この学校に入ってから初めて下の名前で呼んでくれた人の残像をいつまでも見続けるかのように、しばし踊り場に視線を注ぎ続けていた。
「……あれって三年の松永京子先輩よね?」
沢田さんが訊いた。それは尋ねるというより確認するという感じだった。
「そうだよ。よく知ってるね」
「そりゃそうよ。この学校じゃ知らない者はいない有名人だもの」
そうだったんだ。わたしは今日会うまで松永先輩の存在すら知らなかったけど、たしかにあんな目立つ髪をしていたら噂になるのは当然かもしれない。
「まあ、わたしも実際に会ったのはこれが初めてだけどね。お姉ちゃんから聞かされてはいたけど、想像以上の赤さだわ……」
沢田さんはわたし同様、踊り場を見つめながら呆れとも感嘆ともつかないため息をついた。しかしすぐに気を取り直すと、わたしに厳しい眼差しを向ける。
「河村さん、いったいどういうことなの?!」
「ゴミを捨ててくるのが遅れたこと? だから、それにはいろいろあって――」
「そうじゃなくて!」沢田さんはわたしの言葉を遮った。「どうして松永先輩と一緒にいるのよ! もしかして何かされたの? カツアゲされたりとか、タバコの火を押し付けられたりとかさ!」
「そ、そんなことされてないよ!?」
わたしは首を振って答える。
「何もないわけないでしょ! だってあの人、不良だよ!」
「…………」
沢田さんはわたしが〝不良の〟松永先輩に絡まれていたと思い、心配してくれているようだ。その気持ちはありがたくはあるけど、先輩のことをさも悪人であるかのように断ずるその物言いには正直反感を覚えずにはいられなかった。
髪を真っ赤に染めていたり、合鍵を作って無断で屋上に出入りしていたりと、たしかに松永先輩には不良と呼ばれても仕方がないところがあるのかもしれない。実際、わたしもそう思ったからこそ、先輩に恐怖したわけだし。
だけど、今ではそんな些細なことはどうでもよくなっていた。たとえ不良であったとしても、先輩がわたしにあの空を見せてくれたことに変わりはないのだから。
先輩がわたしに何かしたとすれば、それはあの素敵な場所への出入りを許してくれたことだろう。とはいえ、それを正直に沢田さんに話すわけにはいかない。
これ以上松永先輩の悪口を聞かされたり、ゴミを捨てに行った際の空白の時間について根掘り葉掘り尋問される前に退散することにした。
「松永先輩とは廊下で擦れ違っただけで、本当に何もなかったの。だから心配しないで。そんなことよりわたし、ゴミ箱を教室に置いてこなきゃ。ここでお別れだね。じゃあ、また明日!」
早口で一方的に告げると、わたしは早足に教室へと向かった。
「ちょっと待ちなさいよ!?」
わたしの素早い行動にしばし呆気にとられていた沢田さんだったけど、やがて我に返りあわてて呼び止めようとする。しかしわたしは聞こえないふりを決めこんだ。
ごめんね。松永先輩と屋上で会ったことはわたしたち二人だけの秘密なの。だからお願い。これ以上わたしにかまわないで。
「河村さん!」わたしの心の中の謝罪などお構いなしに沢田さんはわたしの背中に怒鳴りつけた。「豊ジイなら職員室にいるから、今日のうちに釈明しておいた方がいいよ。怒られることに変わりはないだろうけど、少なくともみんなの前で恥を晒すよりはましだろうからさ。それと、掃除当番の班長として言わせてもらうけど、今後はゴミを捨てに行ったまま戻ってこないだなんてことはないようにしてよね!」
そして、ぱたぱたと遠のいていく足音。
振り返ると、すでにそこに沢田さんの姿はなかった。どうやら下の階に降りていったようだ。沢田さんには悪いけど、彼女がいなくなってくれたことにほっと胸をなで下ろした。
それにしても、沢田さんはいったい何をしに三階に来たのだろう? てっきり教室に忘れ物でも取りに来たのかと思ったのだけど、そのまま去っていったところを見るとそうではなさそうだし……。
よくわからないけど、せっかく忠告してもらったこともあるし、わたしは教室にゴミ箱を置いたら職員室の豊田先生のもとに出頭することにした。