琴子は、猫みたいだ。
 それも警戒心が強い家猫。野良じゃない。琴子は案外繊細だから、野良ではたぶん生きていけない。

 ……大抵の人間には、胸の中心に欲望の塊がある。

 綺麗になりたい、愛されたい、お金持ちになりたい。欲望の形は皆さまざまだ。 
 それをとろりと甘く蕩かせれば、人間は悪魔の手のひらの上でコロコロと転がされてくれる。そして僕たちインキュバスには、甘い甘い精気を捧げてくれるのだ。

 だけど出会った頃の琴子は――ぜんぶが枯れていた。

 精気も。体力も。人間誰しも持っている……色とりどりの欲望すらも。
 これは、どうしてなのだろう。最初は仕事の忙しさで気力が薄れているせいかと思ったけれど……二ヶ月ほど琴子と過ごした今ではもっと根深いもののように感じている。
 精気や体力は、僕の努力の甲斐もあって少しずつ回復している。
 けれど食欲と睡眠欲という生きるために必要な欲望以外が、琴子は枯れたままなのだ。
 ……キスで気持ちよさそうにしてるから、性欲もギリギリあるのかな。他の人間よりも、かなり薄いけれど。薄いからこそ、人間の性欲を増幅して引き出すインキュバスに口づけをされても理性が保てるのだろう。

 この欲望の異様な枯れ方は……『なに』が原因なのだろうか。
『なに』が彼女に欲望を抱くことを諦めさせた?

 気にはなるけど、根掘り葉掘り琴子の人生の歩みなんてものを訊くわけにもいかないしな――
 僕は常識のあるインキュバスなのだ。心に土足で入るような真似はしない。
 欲というのは持ちすぎても身を滅ぼすけれど、まったく持たないというのも問題だ。なんらかの欲を、僕は琴子に抱いて欲しい。
 それが『人間らしさ』だと思うし、時には生きるための気力にもなるから。
 今の琴子は目を離すと……消えてしまいそうで怖いんだ。

「エルゥ、お腹空いた」

 職場から帰った琴子が、唇を尖らせながら僕に声をかけた。
 琴子は可愛いけれど……地味な見た目である。
 背中にかかるくらいの真っ直ぐな黒髪。つり上がった、大きな黒い瞳。少し不健康なくらいに白い肌。体は驚くほどに華奢で、そのか細さを見ると心配になってしまう。……あれだけ食べてるご飯は、どこに栄養を与えているんだろうなぁ。
 化粧っけがなく、髪もいつも無造作に垂らしているから地味に見えるけれど、彼女が『もっと綺麗になりたい』という欲を抱けばあっという間に見違えるほどに綺麗になるんだろう。

「……琴子は、食欲は旺盛だねぇ」
「なに、悪かと?」

 僕の言葉を聞いて琴子は頬を膨らませる。

「ううん、安心する。琴子、なにが食べたい?」
「んー」

 彼女は少し思案する。なんでも言って欲しいな。可愛い子猫を元気にするためだったら、腕にたくさんよりをかけるよ。

「ビール……」
「それは、ご飯じゃないでしょ? じゃあお魚とお肉、どっちがいい?」

 魚は鮭を冷凍で保存してるし、サバの水煮の缶詰もある。お肉は豚肉と鶏肉を小分けにしてこれも冷凍保存している。

「じゃあ、お魚で」
「わかった。じゃあ鮭の炊き込みご飯と、具だくさんのお味噌汁を作ろうか。あと一品欲しいなぁ。うん、冷奴も出そう」
「美味しそう!」

 メニューを聞いた琴子が嬉しそうに笑う。それを見ていると、僕もなんだか嬉しくなる。

「美味しいと思うよ? さぁ、手を洗って、部屋着に着替えて。洗濯物もぜんぶ出して」
「わかった」

 その場で無防備に服を脱ぎだす琴子を横目に見てから、僕は蹄の音を立てつつ台所へと向かう。警戒心剥き出しなくせに、妙なところで彼女は抜けている。そこがまた家猫っぽいなと思うのだ。
 ……それだけ信用されてるのなら、嬉しいけれど。餌付け成功ってやつかな。

「さて」

 冷凍庫を開けて凍った鮭を取り出す。
 時間があれば冷蔵庫に移して解凍するのだけれど、今日はそんな時間がないのでレンジで解凍することにする。身が煮えないように気をつけないとな。
 鮭を解凍している間に、えのきを荒く刻み、にんじんを丁寧に細かく刻む。そして解凍が済んだ鮭をレンジから取り出してから、バットに移して軽く酒を振った。
 ……臭みを取るために生姜も入れるか。
 そんなことを考えながら琴子の方をちらりと見ると、彼女は腰痛予防のストレッチをしている。デスクワークというものも、なかなか大変そうだ。
 研いだ米を炊飯器にセットし、醤油、酒、みりんを混ぜ合わせたものを炊飯器に投入。さらにめんつゆをひとさじ。めんつゆは神器だよね、うん。
 そして刻んだえのき、にんじん、生姜、鮭を入れてから、炊飯器のスイッチをオンにした。炊き込みご飯は、簡単で美味しくて素晴らしい。

 ……さて、あとは味噌汁だけれど。

 野菜だけでは物足りないから、豚肉も入れちゃうか。結局魚も肉も使うことになるけれど、そんな贅沢もいいだろう。
 琴子には、たくさん栄養を取ってもらわないといけないからね。

「エルゥ、まだぁ?」

 僕の可愛い子猫が、お腹が空いたとにゃあと鳴く。

「まだかかるから、大人しく待ってて!」

 僕はそう返して、味噌汁……から転じて豚汁の材料と向き合った。