「さて、マッサージはおしまい!」
トントンと腰を何度か叩いてから、エルゥのマッサージは終了した。
……マッサージは気持ちよかったけれど、『おとぎ話』はドロドロとしてたな。面白かったから、いいんだけれど。
「ありがとう、エルゥ。すごく気持ちよかった。……おとぎ話も面白かったよ。ドロドロしてたけど」
頭がふわふわする。血の巡りがだいぶよくなったみたいだ。
腰痛もかなり薄れてるな……悪魔のマッサージ、すごい。
「じゃあまた、どっちもするね」
エルゥはくすりと笑うと台所へと向かう。そして冷たい麦茶を手にして戻ってきた。
彼が来てからうちの冷蔵庫には、冷えた麦茶が常備されるようになった。エルゥいわく「水分補給は健康の要」らしい。
私はエルゥから麦茶を受け取ると、乾いた喉を潤した。夏はやっぱり、麦茶だな。
「琴子、僕はそろそろ帰るけど。ちゃんと湯船にゆっくり浸かってから寝てね? あ、でも今血行がよくなってるから、少し時間は置いて」
「うん、わかった」
「それと……今日のがまだだから」
エルゥはそう囁くと、私の頬に手を添えた。その瞳は『いいでしょう?』とねだるように、いたずらっぽく煌めいている。
うう、そうでした。エルゥとのキスが残っていた。
毎日のようにしているこの行為には、いまだに慣れない。
彼氏がいたことくらいはあるのだけれど、平凡な自分の身の丈にあった男性だったわけで。
こんな絶世の美形にキスをされる想定で、今まで生きていなかったのだ。
――それに。
エルゥとのキスは……唇を触れ合わせるだけなのに、異様なくらいに気持ちがいいから困る。
「……そういう、約束だもんね」
「ふふ。そうだね」
絶世の美貌が近づいてきて……そっと唇を塞がれた。
柔らかな唇が数度私の唇に触れて、また優しく重なる。それだけなのに、体からは力がふにゃりと抜けてしまった。
エルゥは唇を離すと、すっかりふらふらになってしまった私を抱きしめ、背中をぽんぽんと叩く。
「やっぱり体力が持たないね。まだまだ、食べさせないとな。琴子、朝ご飯はなにがいい?」
「美味しいやつ」
「もー! それ、作る方が言われて一番困るやつ! 琴子は朝はあまり入らないからなぁ。卵焼きとお味噌汁にしようか。お弁当は、なにを食べたい?」
「……おにぎり。あと、お肉」
「りょーかい。そうだ、明日琴子がいない間に洗濯機を回して洗濯物を干そうと思うんだけど。洗濯物の出し忘れはない?」
「たぶん、ないと思う」
面倒見のいい悪魔は明日の確認をいくつかすると、抱きしめる腕を解いて額に一つキスをする。
「琴子、いい夢を見てね」
そしてつい見惚れてしまうような美しい笑みを浮かべてから、幻のように姿を消した。
☆
「あ、お弁当」
エルゥが作ってくれたお弁当がカバンにないことに気づいたのは、お昼休みの休憩室でのことだった。ふだんは垂らしている髪を邪魔にならないようにゴムでくくって。いざご飯、とカバンを開けたら……お弁当がなかったのである。
「お弁当、忘れたん?」
向かいに座って自分のお弁当を食べようとしていた江村さんが、首を傾げながら訊いてくる。江村さんは少しギャルっぽい見た目の、今年三十歳の事務員さんだ。そして三歳の双子の母である。
「うっかり、入れ忘れたみたいで」
「最近ちゃんと作ってきてたのにねぇ。もったいない」
「はは……」
『悪魔が作ってます』とも『付き合ってない男が作っています』とも言えないので、私のお弁当は自分で作っていることになっている。
コンビニのおにぎりやサンドイッチばかり食べていた私が、梅雨の頃から急にお弁当を作るようになったので、社長からは『彼氏できたと?』と訊かれたけれど。それに対して答えあぐねていると、江村さんが『社長、それセクハラですよ』と社長をバッサリと斬り捨てた。
……そんなつもりは一切なかったらしい社長は三日くらい元気がなくて、少し可哀想だったな。
「仕方ないからコンビニでなにか……」
「ちょちょちょ、嶺井君!」
私の名前を呼びながら、騒々しく休憩室に来たのは社長だ。大きなお腹がたぽんと揺れて、額には玉のような汗が浮いている。
「……社長?」
「なんかキラキラしたのが、君のお昼を届けに来たんやけど! あれ、彼氏ね!?」
……キラキラしたの。エルゥだ……確実にエルゥだな!?
キラキラした知り合いなんて、私にはエルゥしかいない。
「彼氏かどうかは置いておいて、私の知り合いですね」
ふーっと大きく息を吐いてから、私は言葉を口にした。
この街がもっと田舎にある私の地元じゃなくてよかったな。エルゥの存在が知られたら大騒ぎになり、どんな陰口を言われたものかわからない。
「えっ、キラキラ? 見たい!」
瞳を輝かせた江村さんと、オロオロとした社長と一緒にエルゥを待たせている会社の玄関へと向かうと……
「琴子、お弁当忘れたでしょ!」
ジャージの上下を身に着けたエルゥが、ニコニコとしながら立っていた。
彼は人間に完璧に化けていて、頭に生えた山羊の角はしまわれ、下腹部も人間の足になっている。その姿を見て、私は少しほっとした。
……まぁ。悪魔の姿じゃなくても、エルゥが目立つこと自体に変わりはないんだけど。
「エルゥ、どうして勝手に来たんよ」
「だってほっとくと、またコンビニのおにぎりとか食べるでしょ? 琴子の健康管理が僕のお仕事だからね」
エルゥはそう言うと、お弁当箱を手渡してくる。それと朝には見当たらなかったもう一つの包みも。
「野菜ジュースも作ってきたから、一緒に飲んで? デザートに手作りのプリンも……」
「エ、エルゥ! わかった、ありがとう!」
背中に江村さんと社長の視線が刺さっている。それと、騒ぎを聞きつけていつの間にかやって来ていた井上君の視線も。
「ねねね、お兄さん! 嶺井さんとどういう関係なん?」
好奇心に負けたらしい江村さんが、勢いよくエルゥに話しかける。
江村さんに目を向けたエルゥがにこりと愛想よく笑うと、彼女はがくりと膝から崩れ落ちた。
「やば、なんこれ。ハリウッド級……いや、それ以上」
江村さんは顔を真っ赤にして、崩れ落ちたまま震えている。し、しっかりして! 二児の母! ちょっとヤンキーっぽいけど、めちゃくちゃ優しい旦那さんが泣いちゃうから!
「どういう関係か……」
エルゥは少し考えてから私の肩を抱くと……頬にちゅっと音を立ててキスをした。
彼の思わぬ行動に、私はその場で固まってしまう。な、なんすっとか! このインキュバスは!
「こういう関係ですかね」
そう言ってエルゥは、ぽかんとするみんなに邪気のない笑顔を浮かべた。
トントンと腰を何度か叩いてから、エルゥのマッサージは終了した。
……マッサージは気持ちよかったけれど、『おとぎ話』はドロドロとしてたな。面白かったから、いいんだけれど。
「ありがとう、エルゥ。すごく気持ちよかった。……おとぎ話も面白かったよ。ドロドロしてたけど」
頭がふわふわする。血の巡りがだいぶよくなったみたいだ。
腰痛もかなり薄れてるな……悪魔のマッサージ、すごい。
「じゃあまた、どっちもするね」
エルゥはくすりと笑うと台所へと向かう。そして冷たい麦茶を手にして戻ってきた。
彼が来てからうちの冷蔵庫には、冷えた麦茶が常備されるようになった。エルゥいわく「水分補給は健康の要」らしい。
私はエルゥから麦茶を受け取ると、乾いた喉を潤した。夏はやっぱり、麦茶だな。
「琴子、僕はそろそろ帰るけど。ちゃんと湯船にゆっくり浸かってから寝てね? あ、でも今血行がよくなってるから、少し時間は置いて」
「うん、わかった」
「それと……今日のがまだだから」
エルゥはそう囁くと、私の頬に手を添えた。その瞳は『いいでしょう?』とねだるように、いたずらっぽく煌めいている。
うう、そうでした。エルゥとのキスが残っていた。
毎日のようにしているこの行為には、いまだに慣れない。
彼氏がいたことくらいはあるのだけれど、平凡な自分の身の丈にあった男性だったわけで。
こんな絶世の美形にキスをされる想定で、今まで生きていなかったのだ。
――それに。
エルゥとのキスは……唇を触れ合わせるだけなのに、異様なくらいに気持ちがいいから困る。
「……そういう、約束だもんね」
「ふふ。そうだね」
絶世の美貌が近づいてきて……そっと唇を塞がれた。
柔らかな唇が数度私の唇に触れて、また優しく重なる。それだけなのに、体からは力がふにゃりと抜けてしまった。
エルゥは唇を離すと、すっかりふらふらになってしまった私を抱きしめ、背中をぽんぽんと叩く。
「やっぱり体力が持たないね。まだまだ、食べさせないとな。琴子、朝ご飯はなにがいい?」
「美味しいやつ」
「もー! それ、作る方が言われて一番困るやつ! 琴子は朝はあまり入らないからなぁ。卵焼きとお味噌汁にしようか。お弁当は、なにを食べたい?」
「……おにぎり。あと、お肉」
「りょーかい。そうだ、明日琴子がいない間に洗濯機を回して洗濯物を干そうと思うんだけど。洗濯物の出し忘れはない?」
「たぶん、ないと思う」
面倒見のいい悪魔は明日の確認をいくつかすると、抱きしめる腕を解いて額に一つキスをする。
「琴子、いい夢を見てね」
そしてつい見惚れてしまうような美しい笑みを浮かべてから、幻のように姿を消した。
☆
「あ、お弁当」
エルゥが作ってくれたお弁当がカバンにないことに気づいたのは、お昼休みの休憩室でのことだった。ふだんは垂らしている髪を邪魔にならないようにゴムでくくって。いざご飯、とカバンを開けたら……お弁当がなかったのである。
「お弁当、忘れたん?」
向かいに座って自分のお弁当を食べようとしていた江村さんが、首を傾げながら訊いてくる。江村さんは少しギャルっぽい見た目の、今年三十歳の事務員さんだ。そして三歳の双子の母である。
「うっかり、入れ忘れたみたいで」
「最近ちゃんと作ってきてたのにねぇ。もったいない」
「はは……」
『悪魔が作ってます』とも『付き合ってない男が作っています』とも言えないので、私のお弁当は自分で作っていることになっている。
コンビニのおにぎりやサンドイッチばかり食べていた私が、梅雨の頃から急にお弁当を作るようになったので、社長からは『彼氏できたと?』と訊かれたけれど。それに対して答えあぐねていると、江村さんが『社長、それセクハラですよ』と社長をバッサリと斬り捨てた。
……そんなつもりは一切なかったらしい社長は三日くらい元気がなくて、少し可哀想だったな。
「仕方ないからコンビニでなにか……」
「ちょちょちょ、嶺井君!」
私の名前を呼びながら、騒々しく休憩室に来たのは社長だ。大きなお腹がたぽんと揺れて、額には玉のような汗が浮いている。
「……社長?」
「なんかキラキラしたのが、君のお昼を届けに来たんやけど! あれ、彼氏ね!?」
……キラキラしたの。エルゥだ……確実にエルゥだな!?
キラキラした知り合いなんて、私にはエルゥしかいない。
「彼氏かどうかは置いておいて、私の知り合いですね」
ふーっと大きく息を吐いてから、私は言葉を口にした。
この街がもっと田舎にある私の地元じゃなくてよかったな。エルゥの存在が知られたら大騒ぎになり、どんな陰口を言われたものかわからない。
「えっ、キラキラ? 見たい!」
瞳を輝かせた江村さんと、オロオロとした社長と一緒にエルゥを待たせている会社の玄関へと向かうと……
「琴子、お弁当忘れたでしょ!」
ジャージの上下を身に着けたエルゥが、ニコニコとしながら立っていた。
彼は人間に完璧に化けていて、頭に生えた山羊の角はしまわれ、下腹部も人間の足になっている。その姿を見て、私は少しほっとした。
……まぁ。悪魔の姿じゃなくても、エルゥが目立つこと自体に変わりはないんだけど。
「エルゥ、どうして勝手に来たんよ」
「だってほっとくと、またコンビニのおにぎりとか食べるでしょ? 琴子の健康管理が僕のお仕事だからね」
エルゥはそう言うと、お弁当箱を手渡してくる。それと朝には見当たらなかったもう一つの包みも。
「野菜ジュースも作ってきたから、一緒に飲んで? デザートに手作りのプリンも……」
「エ、エルゥ! わかった、ありがとう!」
背中に江村さんと社長の視線が刺さっている。それと、騒ぎを聞きつけていつの間にかやって来ていた井上君の視線も。
「ねねね、お兄さん! 嶺井さんとどういう関係なん?」
好奇心に負けたらしい江村さんが、勢いよくエルゥに話しかける。
江村さんに目を向けたエルゥがにこりと愛想よく笑うと、彼女はがくりと膝から崩れ落ちた。
「やば、なんこれ。ハリウッド級……いや、それ以上」
江村さんは顔を真っ赤にして、崩れ落ちたまま震えている。し、しっかりして! 二児の母! ちょっとヤンキーっぽいけど、めちゃくちゃ優しい旦那さんが泣いちゃうから!
「どういう関係か……」
エルゥは少し考えてから私の肩を抱くと……頬にちゅっと音を立ててキスをした。
彼の思わぬ行動に、私はその場で固まってしまう。な、なんすっとか! このインキュバスは!
「こういう関係ですかね」
そう言ってエルゥは、ぽかんとするみんなに邪気のない笑顔を浮かべた。