ピタパンサンドを食べ終え、エルゥが淹れてくれたアイス珈琲を飲みながら並んでテレビを見る。エルゥは人間界のことに興味津々で、テレビ番組が大好きだ。

「ね、琴子。このケーキ食べてみたいね!」

 テレビで紹介されているケーキ屋の映像を見ながら、エルゥがはしゃいだ声を出す。
 現在移っているのは、チョコレートがふんだんに使われたチョコケーキだ。『このお店のパティシエは、ショコラティエとして大会で優勝したことが』なんて説明を可愛いレポーターの女の子がしている。
 たしかに美味しそうだなぁ。だけど……

「そこ、東京の店やんか。こっちのお店じゃないと無理」

 ここは九州、福岡だ。快速が通っているから博多駅まで十五分で着くので利便性がいい地域ではあるのだけれど、家の周辺は田んぼと山と住宅街ばかり。駅前に行けば多少はお店はあるけど……おしゃれなケーキ屋なんてものは存在しない。

「むぅ、そっか。……今度作ろうかな」

 ……エルゥはケーキまで作れるのか。
 そしてそのケーキは、文句がつけようのないくらいに美味しいのだろう。

「エルゥって、なんでもできるよね」
「まぁね。女の子が喜びそうなことなら、大抵できるよ。ほら、せっかくだったらいろいろなことで喜んで欲しいし」

 これはある意味では、努力家というやつなのかな。
 ここまで美形に尽くされたら、体の一つや二つ……と思う女の子もきっと多いはずだ。
 エルゥの顔面偏差値だったら、そんなことをしなくてもいくらでも女の子が釣れそうだけど。

「インキュバスって、みんなエルゥみたいになんでもしてくれるの?」
「んー。自分に絶対の自信があるタイプは、もっと強気な営業をしてるかなぁ。俺様系って言うの? 壁ドン! とかして『俺のこと好きになれよ』みたいなやつ」

 ……なんだかホストみたいな話だなぁ。
 俺様系なんぞがやって来てたら、きっと私は蹴り飛ばしていただろう。偉そうな男は嫌いなのだ。

「でも僕、そういうの苦手なんだよねぇ。ちゃんと互いに『いいよ~』って雰囲気になってからがいいじゃない?」

 そう言ってエルゥはへらりと笑う。その笑顔は子供みたいに無邪気で可愛い……悪魔だけど。

「あっ! 僕、マッサージもできるよ。してあげよっか? もちろん、いかがわしくないやつ」

 エルゥはそう言うなり、私をころりと床に転がす。

「エルゥ!?」
「琴子、うつ伏せになって。腰、痛いって言ってたでしょ?」
「うー……。ほんとに、変なことはせんでよ!」
「しない、しない」

 エルゥは甘い声で言うと、私の腰に両手をかけた。女性のものとはあきらかに違う、大きな男の人の手。それが優しい圧をかけてくる。

「……ふっ」
「ほら、気持ちいいでしょう」
「気持ちいい……」

 エルゥのマッサージは街のリラクゼーションにありがちな、ただ押すだけの施術ではなかった。筋肉の張りを無理やり押さずに丁寧にほぐし、じゅうぶんにほぐれたあとに頑固な凝りを少しずつ押していく。エルゥはそれを根気強く繰り返した。
 デスクワークでカチカチになっていた腰が、エルゥの魔法の手によって癒やされていく。
 ……エルゥは、天才か。これ、絶対にお金が取れるでしょう。
 体がポカポカと温まって、なんだかウトウトする。

「こら、寝ちゃダメだよ。まだお風呂にも入ってないんだから」

 楽しそうなエルゥの声さえ、子守唄に聞こえてしまいそうだ。

「じゃあ寝ないように、なにか面白い話をして」
「うわ。琴子それ、無茶ぶり」

 うん、知ってる。自分だって言われたら困るもん。

「そうだねぇ。じゃあ、インキュバス族に伝わるおとぎ話でもしようか」
「なんそれ、正直興味ある」

 悪魔の世界にも『おとぎ話』があるなんて。エルゥが人間のテレビ番組に夢中になるのと同じように、私もエルゥの世界には当然興味があるのだ。

「ふふ、じゃあ話すね。昔々――」

 今から、三百年ほど前の話。
 ある国のお姫様の寝床に忍び込んだインキュバスがいた。
 逢瀬を重ねるうちに、お姫様はインキュバスに思いを寄せるようになる。
 だけど人を食べ物としか見ていないインキュバスには、そのつもりはない。
 だからお姫様は――彼を檻に閉じ込めた。

「え。インキュバスって閉じ込められるの?」

 私は思わず、話に水を差してしまった。けれどエルゥは不快な様子を見せない。

「無神論者が多いこの国の人々には実感のない話なんだろうけれど。悪魔がいるなら、当然天使も神もいる。お姫様は教会の力を借りたんだ」

 何年か前にエクソシストが出てくる映画を見たことがあるけれど。あんなふうに神父がやって来て、悪魔を閉じ込めたんだろうか。なんともお気の毒様な話だ。
 エルゥは話を続ける。

 閉じ込められたインキュバスは嘆いた。
『ここから出してくれ、なんでもする。君に愛だって捧げよう』
 けれどお姫様は気づいていた。檻から出せば、彼は逃げてしまうだろうと。
 だからインキュバスを檻から出さず、檻の外から聖水をかけていたぶった。彼のことが愛おしく……それ以上に憎かったのだ。
 彼の美しい顔が聖水で焼けただれても、お姫様は彼を嬲った。それどころか『これで他の女に手を出せない』と喜んだ。
 そうしているうちにインキュバスはどんどん弱っていく。
 そしてある夜――お姫様の前で一輪の薔薇に姿を変じてそれっきりなにも言わなくなった。
 お姫様はその薔薇を手に取り、その花弁を一枚ずつ丁寧に食べてから言った――

「これで貴方は、私だけのもの」

 エルゥはそう話を締めてから、ぎゅっと強めに腰を押した。

「……おとぎ話じゃなくて怪談みたい」

 私は正直な感想を述べた。
 エルゥから聞いた話は『清姫伝説』のような風情に感じる。ちなみに『清姫伝説』は蛇に変じたお姫様が、愛しい僧侶を焼き殺してしまう有名な昔話だ。

「怪談というよりも戒めみたいな話かな。悪魔は人を手のひらの上で転がしてると思いがちだけれど、油断してると手痛いしっぺ返しを食うぞっていうね」
「なるほどね……」
「ここまでのことはなくても、やっぱりトラブルはありがちだしね。夢の中でも『精気』は取れるけれど、やっぱり実体同士で交わった方が美味しく味わえるんだ。そしてお気に入りの子のところには、続けて通っちゃうわけでしょ。そうなると、本気で恋されちゃったりもあるよね」
「そんで、刺されたりするの?」
「そ、刺されたり。焼かれたり」

 ……なんとも物騒な話だ。
 だけど人間世界での男女トラブルでも、まれに聞く話でもあるな。

「面白かった。他にもなにか話して」
「もー琴子はワガママだなぁ」

 エルゥはそれからも、マッサージをしながらいくつかのお話をしてくれたけれど。
 それはどれもインキュバスに夢中になった女が破滅したり、逆にインキュバスがひどい目に遭ったりというお話だった。
 インキュバスという生き物の特性上仕方ないのかもしれないけれど、もっとほのぼのする話はないのだろうか。