「……ここか」

 母との待ち合わせ場所に着き、私はごくりと唾を飲んだ。
 今日の待ち合わせは最寄り駅から電車で十五分の、そこそこ大きな駅近くの飲食店である。エルゥの言葉で『安全』は確信できたものの、自分のテリトリーに母を呼ぶ気は起きなかった。

「琴子、落ち着いてね」

 優しくエルゥに背中を撫でられ、私は何度も頷いた。正直言うと、とても怖い。
 だけど……会うと決めたのは私だ。
 飲食店の扉を開けると、数組の客がくつろいでいるのが見えた。
 誰が母なのだろうと店内に視線をさまよわせていると、エルゥが誰かに手を振った。
 そちらに目を向け――私は思わず息を呑む。

 そこには、驚くくらいに痩せこけた女が居たから。

 エルゥに優しく背中を押され、私は震える足を踏み出した。
 女の視線が私に向けられ、その眼球の濁った黄色に私は怯えを感じてしまう。

 ――そこにあったのは、濃厚な『死』の気配だった。

 怖い。怖くてたまらない。
 エルゥの言っていた『ある意味では会った方がいい』とは、こういう意味だったんだ。
 会わないと、次にはきっと『会えない』から。

「久しぶりね、琴子」

 体を震わせながらテーブルに着くと、静かな声をかけられた。
 顔を上げると、女は穏やかな笑みを浮かべ私を見つめている。
 ……目の前の『女』が『母』だと上手く認識できない。薄っすらとした思い出の中の、派手な化粧をして生き生きと生命の輝きを放っていた『母』と、病疲れからか白髪も多く老女にも見える『女』が上手く結びつかないのだ。
 温かなものに手が包まれる。……それはエルゥの手だった。

「……エルゥ」

 救いを求めるように名前を呼ぶと、優しい笑みが返ってくる。
 ああ、エルゥがここに居る。それは私に、勇気をくれた。

「お久し、ぶりです」

 固く強張った唇を開け、私はようやく言葉を口にした。

「昔より大人びたわね。あんなに小さかったのに、素敵な恋人までできて」
「……十二年も、経ちましたから」

 何言か言葉を交わしたあとに、重い沈黙が訪れる。
 ……この女は本当に、なにをしに来たのだろうか。

「どうして、会いに来たんですか」

 私がその問いを発すると、女は苦しそうに顔を歪めた。そして煙草を取り出そうとして「ああ、ここは禁煙だったわね」と、懐に戻す。
 そういえば母は煙草を吸っていたな、と。遠い記憶の母と眼の前の女が、ようやく少し重なった気がした。

「見ての通り、私はもう長くないの。たぶん冬までは生きられない。父と母が亡くなっていたのも、病気になってから知ったわ」

 祖父母が亡くなったのは、私が大学生の頃だ。自分が病に倒れるまで、母は祖父母に連絡を取っていなかったのだろう。

「親戚とは縁が薄いし、残った私の『家族』は貴女だけだから……死ぬ前に顔が見たいと思ったの」

 ――勝手な理由だ。

 心の底からそう思う。
 悪意はない。だけどそこには善意も謝意もない。
 自分本位の勝手な理由で、十二年も前に捨てた娘の『顔が見たい』なんて言えてしまう母なのだ。

 ああ、この人はたしかに母だ。昔から変わっていない。

 ファミレスで母と男が話すのを聞きながら飲んだ、氷で薄まったドリンクバーのジュース。
 その味が舌に蘇る。

「勝手なことばかり。私を捨てたくせに今さら『家族』?」

 怒りが胸をじわりと浸す。
 私の母親だったことなんて、産んだ瞬間から欠片もなかったくせに。
 ――そう、母を怒鳴りつけようとした瞬間。

「さて、目的はもう果たしたよね。琴子、帰ろうか」

 ぴしゃりと空気を打ったのは、そんなエルゥの声だった。

「待って、もう少し話しを……」

 母が椅子から立ち上がろうとする。それをエルゥは、手で制した。

「あんな連絡の後に貴女が死んだと聞いたら、琴子が後悔すると思ったから。だから琴子が貴女に会うのを、僕は止めなかったんです。貴女の自己満足に琴子を付き合わせるためじゃない」

 それを聞いて、ハッとする。
 たしかに『会いたい』という連絡を無視し、その後に母が死んだことを知ったら……私は後悔していただろう。
『どうして会わなかったのだろう』、『母はなにを言いたかったのだろう』そんな気持ちに苛まれたに違いない。
 エルゥは、それを見越していたのだ。

 会ってみて、わかった。
 母は、昔のままの母だった。
 私を捨てた、母になりきれなかった『女』のままだ。
 それがわかって、良かったのだ。きっと。

「帰ろう、エルゥ」

 ぎゅっとエルゥの手を握ると、優しく微笑んで頷いてくれる。私はそんなエルゥに微笑み返した。

『お母さん』。
 この面談の中で私がその言葉を口にすることは……一度もなかった。