その日の私は、会社で上の空だった。
 今の時間、エルゥが母と会っている。そう思うだけで気もそぞろになってしまう。
 予定に変更がなければ、エルゥと母は数駅離れたファミレスで会っているはずだ。近くはないけれど、遠くもない場所。そこに母が居ると思うだけで、落ち着かない。

 ――もう、顔もしっかりと思い出せないな。

 母が綺麗な人だったという記憶はある。だけどのその顔は記憶の中で揺らめいて姿が掴めず、ひどく曖昧になってしまう。
 それだけ長い間、母に会っていないのだ。
 そしてもう二度と、会うことがないと思っていた。
 大きく息を吐き出すと、ことりとデスクに何かが置かれる。顔を上げると、そこには井上君が立っていた。

「珈琲どうかな? うちで水出ししたやつだけど」

 井上君がデスクに置いたものは、珈琲だったらしい。そういえば、毎日ステンレスの水筒になにか入れて持ってきてるよね。水出し珈琲だったんだ。案外おしゃれだなぁ。

「いいの? ありがとう!」

 そう言って笑って受け取ると、井上君もはにかんだような笑みを浮かべる。

「……元気がなさそうだけど、大丈夫?」

 そして小声で、そう訊ねてきた。

「長い間会ってなかった身内に急に会うかもしれなくて、ちょっと憂鬱なだけだよ」

 事実を少しだけ濁して伝えると、井上君は「そっか」と言って自分のデスクに戻って行く。優しく声はかけるけれど深入りしようとしない彼の気遣いが、今はとても助かる。
 もらった珈琲を口に含むと、それはコクが深くて香り高い。井上君は、きっと丁寧な生活をしてるんだろうな。

「さて、頑張るか」

 美味しい珈琲を飲んで気分を一新した私は、気合を入れてパソコンと向き合った。

『詳細は琴子が帰ってから話すけれど、ある意味では会った方がいいかもしれない』

 エルゥからそんなメールが届いたのは、退勤時間近くになった時だった。
 帰宅まで時間がある時にこんなメールを受け取ったら、仕事どころではなくなってしまう。そんな私を想像してエルゥはこの時間に送ってくれたのだろう。
 ちなみにエルゥはスマホを持っていないので、これは自宅PCからのメールである。
 スマホを二台契約して、一台エルゥに持たせた方がいいのかな。
 ……そんなことを考えてしまったのは……一種の現実逃避だろう。
 深呼吸をして、仕事の残りと向かい合う。心臓が大きな鼓動を刻んで、少し痛いくらいだ。
『母に会う』……その短い一文は私の心を暗澹としたものにしていった。

「悪意は見えなかったし、金の無心でもない。それは間違いないよ。僕の悪魔の力に誓って」

 帰宅して顔を合わせるなり、エルゥはそう言った。
 ――正直、金の無心かと思ってたんだけどな。じゃあどうして私に会いたがるんだろう。

「お母さんが会いたがった理由……聞きたい?」
「いいや、いい。……会うって決めたから、自分でちゃんと聞くよ。だけど、エルゥも一緒に来て欲しいな」

 会社でぐるぐる考えて、『会う』ことはもう決めていた。私に会いたい理由なんてものは、その場で聞けばいいだろう。

「そっか、わかった」

 エルゥは微笑むと額に優しくキスをする。そして「よし! 晩ご飯を食べよう!」と明るい声で言った。

「晩ご飯、なに?」

 晩ご飯というワードを聞くと、即座にお腹が空いてくる。
 ……こんな時でも、私の食欲は減らないらしい。

「今日は美味しいシチューです。それとね、パンを焼いたんだよ! はじめて焼いたけど、結構美味しくできたんだ」

 エルゥはそう言うと、誰しも見惚れるような笑顔を浮かべた。
 ……パンを自分で焼いたって……女子力の塊か。
 いつものごとくそう思い、私はつい笑ってしまった。

 ――そしてメッセージを交わして、一週間後に母と会うことが決まった。