「は~お肉も美味しかったぁ」
「よかったね、琴子」

 鉄板焼のお店でたんまりお肉や野菜を食べて、私とエルゥは帰りの電車に揺られていた。会社帰りの人々と時間帯が被ったので席には座れなかったけど、さりげなくエルゥが体を支えてくれている。
 今日は大満足な一日だったけれど、食事は結局割り勘になってしまったし……エルゥにふだんのお礼ができたかという点では怪しいところだ。

 ……また、今度エルゥが遠慮しないようなお礼を考えよう。

 このインキュバスは、すごく人に気を使うから。彼が気兼ねしないような、安くて楽しめるプランを練らないとな。

「今日は、楽しかったね」

 エルゥはくすりと笑うと私の頭を撫でた。私は背が低いから、撫でやすい位置に頭がある。だからって気安く撫でるんじゃない。

「うん、楽しかった」

 上目遣いに見上げると、穏やかな青の瞳と目が合う。そしてまた、頭を撫でられた。

「またお出かけしようね。今度はどこに行く?」
「温泉、行きたいな。由布院、別府……そのへん」
「いいね。大分に行くなら本場の柚子胡椒を買いたいなぁ」
「お鍋の薬味に使いたいね」
「うん、そうだね。まだ八月だから、お鍋は少し先の話になるけど」

 冬までエルゥは居てくれるのかな、なんて不安がふと胸を過ぎる。私はそっと、エルゥの服の端を掴んだ。

「……冬も居て、お鍋を作ってくれるんだよね?」
「一緒にいるよ。約束したでしょう」

 エルゥはこともなげに言うと、甘く優しい笑みを浮かべた。
 電車が軋んだ音を立てて止まり、最寄り駅の名前がアナウンスされる。エルゥに手を引かれ、私は電車を降りた。
 空は夕暮れから紺に変わりはじめており、夜の訪れも近い。少し淋しげな蝉の声が空気を震わせ、夏の終わりを感じさせた。

「スーパーに寄って、スイカを買って帰ろうね」
「うん。ビールも買い足さなきゃ」
「もう、琴子は。本当にビールが好きだね」

 私の言葉を聞いてエルゥが苦笑する。ビールが四季の必需品だから、仕方ないじゃない。
 スーパーに寄ってスイカとビール、そして足りない食料品をカゴに入れる。

「明日はなにを作ろうかな。冷蔵庫の残った野菜を片付けたいし……夜は炒めものかな」

 食料品の棚を見ながら真剣な顔をしているエルゥを見ると、ふっと笑みが零れてしまう。『明日』の話が自然にできる相手がいるのが、少し嬉しくなってしまったのだ。
 ……相手は悪魔で、私のことは『猫』扱いしているけれど。
 責任を持って飼ってくれるのなら、それでもいい。

「朝は……パンケーキが食べたい」
「パンケーキ? いいよ。スクランブルエッグも付けようね。お弁当はなにがいい?」
「サンドイッチが食べたい。ハムときゅうりの。あとの具材はお任せで」
「了解。美味しいのを作るね」

 ずしりとした袋を抱えて家に着く頃には、すっかり夜になっていた。
 部屋に入り買った荷物を整理したあとに、エルゥが華やかな笑みをこちらに向ける。
 ……華やかな笑みなんだけれど。なぜか餌を目の前にした犬みたいに見える。

「……エルゥ?」
「琴子! キス!」

 そうだ……そんな約束もしてたな。
 エルゥはこちらに近づくと、ぎゅうと私を抱きしめた。

「たくさん、してくれるんだよね?」
「……約束したもんね。明日会社に行く元気は残しておいて」
「わかった」

 外を歩き回って汗臭いだろうから、お風呂に入ったあとが嬉しいんだけどな。
 だけどエルゥはやる気満々だ。……いや、食べる気満々か。
 ふだんは一日一回きりのキスで、そんなに『精気』を食べさせてあげられてないだろうからな。
 ……もしかして、すごくひもじい思いをさせてたんだろうか。

「お腹、空いてる? ごめんね、いつもあまり食べさせてあげられなくて」

 手を伸ばして、白い頬をさわりと撫でる。その手触りは滑らかで心地良い。
 エルゥは目を瞠ったあとに、ふっと口元を緩ませた。

「大丈夫。ふつうのご飯はたくさん食べてるしね」

 そう言いつつも、エルゥは唇を性急に合わせてくる。
 ……やっぱり、お腹が空いてるんじゃないか。
 くらりと頭の中が痺れるような感覚がして、背筋がぞくりと粟立つ。背中をそっと撫でられると、そこからも甘い酩酊感が溢れた。

 エルゥとのキスは内側から自分を作り変えられるような……そんな恐ろしい甘さがある。

「……ふっ」

 何度が唇を合わせられ、息を切らせると頭を優しく撫でられる。長い指が髪を梳いて、それは首筋へと流れていった。

「つらい? 琴子」

 唇を離され、気遣うような声音で囁かれる。
 私は考えるよりも先に、ふるふると首を横に振っていた。

 ☆

「エルゥ、食べすぎ」

 エルゥに精気を奪われた私は、ぐったりと床に転がっていた。そんな私の頭をエルゥが撫でる。

「ごめんね、琴子。だけど自家栽培っていいね。味わいが違う気がする」
「人を野菜みたいに言うな!」

 大きな声を出すとまた疲れる。私は大きく息を吐いて体の力を抜いた。
 駅から近い場所なので、耳を澄ますと電車の音が微かに聞こえる。その音は優しい心音のようで、耳に心地いい。

「琴子、ココアでも飲む?」
「……飲む」
「生クリーム浮かべてあげよっか。それともマシュマロがいい?」
「エルゥは魔法みたいになんでも出すね。生クリームがいいな」
「魔法じゃなくて、ふつうに買い物したんだよ」

 ふっと笑って、エルゥは台所へと向かう。その姿をぼんやりと見つめていると、床の上に置いたスマートフォンがなにかを受信しバイブの音を立てた。