キッチンから濃厚なチーズの香りが漂ってくる。それを使ったリゾットの味を想像すると、私の喉はごくりと鳴った。……ついでに、お腹もぎゅるりと派手な音を立てた。

「エルゥ、ご飯まだー?」
「もう、琴子は我慢ができなさすぎ! もう少しだから、待ってて」

 エルゥの呆れたような声がして、カチャカチャとお皿同士の触れ合う音がする。
 そしてしばらくすると、エルゥが湯気の立つ白いお皿を手に戻って来るのが見えた。

「食欲がありそうだから、こってりめに作ったけど。食べられるかな?」

 エルゥはそう言いながら、ベッドで身を起こす私に湯気を立てるお皿を手渡した。それに乗っているのは、とろりとしたチーズが白米に絡まり、上に生ハムが乗ったリゾットだった。
 チーズはロックフォールを使ってるんだろうな。なんて贅沢なリゾットなんだろう!
 見ているだけで食欲が湧き、芳醇な匂いを嗅ぐとさらに空腹感が増した。

「食べきれない時は生ハムを避けて……」
「食べる! デザートに、朝食べたアイスも食べたい!」
「そっかそっか」

 ベッドの真横に座ったエルゥが嬉しそうに笑いながら、私がリゾットを口にするのを見つめてくる。
 ……そんなに見られると、正直食べづらいんだけど。

「エルゥ、あんま見らんで。食べにくいけん」
「……だって、琴子が元気になって嬉しいから」

 目を細めながらそう言うエルゥは、本当に嬉しそうだ。彼は自分の分のリゾットを口に運ぶと「うん、まぁまぁ美味しいねぇ」と言って朗らかに笑った。
 リゾットは、まぁまぁどころじゃなく美味しい。
 胃がぽかぽかして、その温かさは胸のあたりにまで染み渡るような気がした。

 ――エルゥといるのって、幸せだな。

 気持ちが弱っているのだろうか。自然にそんなことを考えてしまう。そんな考えを振り払うべく、私はぶんぶんと頭を振った。

「どうしたの、琴子」

 そんな私の様子を見て、エルゥは不思議そうに首を傾げる。

「エルゥって、人たらしだよね」

 彼が『人たらし』なのは当然のことだ。たらしこんで、蕩けさせて――食べてしまうのがインキュバスなのだから。

「人たらし?」

 エルゥは聞き返しながら、リゾットを頬張る。そしてきょとりとした表情で私を見た。
 ……くそ、可愛い。
 手を伸ばしてエルゥの白い頬に触れる。私はそれをつねりあげ、思い切り引っ張った。

「いひゃい、琴子! なんでつねるの!?」
「エルゥが悪い」
「なんで!?」

 エルゥは困ったように眉尻を下げる。その顔を見て、私は思わず吹き出した。
 くすくすと笑う私をエルゥはさらに困ったような顔で見つめる。そんなエルゥを見て、私はまた笑った。笑って……笑って。
 笑い声はいつの間にか、嗚咽に変わっていた。

「ほんと……エルゥは、ひどい」
「琴子、どうしたの? 具合が悪い?」

 綺麗な手が伸ばされ、大きな胸に抱き寄せられる。そしてよしよしと何度も頭を撫でられた。その優しい手にも、理不尽な怒りを覚えてしまう。

「飼えないくせに気まぐれに優しくして……ひどいよ」

 責任を持って飼えないなら、これ以上優しくしないで欲しい。このままだとエルゥに、心の底から寄りかかってしまう予感がするのだ。
 エルゥも……■みたいに、私を捨てるくせに。
 また傷つくくらいなら『欲しい』だなんて思いたくない。

 いつか聞かせてもらった『おとぎ話』のお姫様の気持ちが少しだけわかった気がして、胸の奥がズキリと痛んだ。

「琴子、大丈夫。僕はずっと側に居るよ」

 エルゥは甘い声音で囁きながら、辛抱強く私の頭や背中を撫でる。

「嘘つき」
「嘘じゃないよ。僕らの寿命は人間の何倍も長いから。子猫の一生に付き合うくらい、平気だよ」
「……本当に?」
「本当。だからそんな悲しそうな顔しないで、ね」

 額や頬に何度もキスが降ってきて、その感触は私をひどく安心させる。
 そうして子供のようにむずがっているうちに、寝落ちてしまっていたようで。……気がついた時には、私はまたエルゥに抱きしめられて眠っていた。

 ……今度は人間の下半身じゃなくて、もふもふの方のエルゥだ。

 暑い、とんでもなく暑い。空調が効いている部屋とはいえ、山羊毛と触れ合って眠るもんじゃないな。
 私を抱え込んで眠っているエルゥに苦情を言おうかと思ったけれど……綺麗で安らかな寝顔を見ているとそんな気持ちも萎んでいく。

「まぁ、いいか」

 小さくつぶやきを漏らしてまた目を閉じて、私はエルゥのぬくもりに身を擦り寄せた。

 ☆

「嶺井君! バーベキューでは、本当にごめん!」

 翌日。
 すっかり元気になったので出社すると、出会い頭に社長に頭を下げられた。
 更紗ちゃんのしたことをもう気にしていない……というのは嘘だ。だけど薄くなった頭頂部を見せながらぺこぺこと何度も頭を下げる社長を見ていると、『もういいか』という気持ちになってくる。

「気にしてませんから」

 笑顔で言ってみせると、社長は安堵の表情になった。だけど、それをまた引き締める。

「ほっとしちゃダメやね。甘やかさんように、これからはもっと気をつけるけん!」

 そう言って、社長はまた頭を下げた。社長の娘のために懸命な様子を見ていると――

 ……更紗ちゃんは家族に愛されていて、羨ましいな。

 そんな、少しの妬みを含んだ気持ちが胸に訪れる。
 だけどエルゥのぬくもりを思い出すと、その気持ちもふわりと薄らいだ。

 私にも側にいてくれる人が……一応いるのだ。

 エルゥは悪魔だし、私を猫扱いしてるし、完全に信用していいかわからないから一応だけれど。そう思いつつも口元はふっと緩んでしまう。

「そうだ、社長。バーベキューのお金……」
「嶺井さんのはこっちで払ったけん、気にせんとって」
「いや、そんなわけには!」

 ちなみに。体調が回復した後にエルゥにタクシー代を渡そうとして、それも断られている。

「気にせんとってって。それとね」

 社長はデスクに置いたカバンを探ると、一つの封筒を取り出した。そして私に手渡してくる。

「これは?」
「なにも言わずにもらって! お詫びやけん」

 社長の様子からは、なにを言っても突っ返せないだろうことが伝わってくる。
 封筒の中身を覗くと……有名デパートの高額商品券が数枚入っていた。

 エルゥと物産展に行く約束していたし、ありがたく使わせてもらおうかな。社長の様子を見ていると返すのは無理なようだし。

「嶺井さん! 大丈夫?」

 声をかけられ振り返ると、心配そうな顔の井上君がいた。
 近頃の井上君は前よりも表情豊かな気がする。この少し気難しそうな同僚との距離が縮まったようで、私はそれが嬉しかった。

「大丈夫だよ。ごめんね、忙しい時に」
「いやいや、体の方が大事!」

 井上君はそう言うと、照れ笑いを浮かべる。井上君や江村さんにも迷惑をかけてしまったし、物産展で彼らにもなにか買って来ようかな。