「あづい……」

 深い眠りから目覚めた私がまず発したのは、そんなうめき声だった。
 明らかに男性のものである二の腕がしっかりと体に巻き付いていて、金色の頭は私の肩口あたりに押し当てられている。
 薬が効いたようで、頭痛や倦怠感はずいぶんと軽くなっている。
 私はそのことにほっとしながら、エルゥの体をぐいぐいと押した。彼はよく寝ているらしく、押した分だけまた抱きしめられ、ぎゅうぎゅうと強くしがみつかれる。
 そんな子供みたいな仕草のエルゥを見るのがめずらしかったので、私は少し彼の様子を観察することにした。
 体をずりずりと動かして、彼の顔が目に入るようにする。
 すると子供のように無垢な寝顔をした、絶世の美貌が目に入った。
 金よりも白に近い睫毛、アプリの補正なんて目じゃないくらいに、その肌は白くきめ細やかだ。顔立ちは芸術品のように整っていて、『神』の恩恵を受けていると言われても納得できそう。……こいつは、悪魔だけど。

 本当に顔がいいな、このインキュバスは。

 インキュバスという種族の特性上、不美人はいないのかもしれないけれど。この美貌は女性を惹きつける罠のようなものなのだから。
 なんだか腹が立ってきてその高い鼻を指でつまむ。すると「ふぬっ」と小さな声を上げて、エルゥが瞼を開けた。
 エルゥは私の姿を確認すると、世の女性たちがうっとりとするような笑みを浮かべる。女を落とすために生まれてきた容貌ってすごい。

「琴子、起きたんだ」
「……うん」

 ひたりと額に手が当てられる。私の熱が引いたことを確認すると、エルゥはほっとしたように息を吐いた。そして、汗まみれだろう私の頭を一撫でする。

「熱、下がってるね。晩ご飯作ろうか」
「食べる!」

 熱が下がったからなのか、私のお腹は急激に空腹を訴えている。
 起き上がって食いつくように私が言うと、エルゥはくすりと笑った。

「食欲が出てきたみたいだし、お粥じゃ足りないかもね。リゾットにして少し具を多めにしようか。食べられそう?」
「食べられる! チーズもいっぱい入れて欲しい。あと、ビー……」
「ビールは、ダメ」

 エルゥはぶすりと釘を刺してからベッドを出て行く。うう、私の日々の癒やしが……
 ぽふりとベッドに転がると、私ではない体温の名残りがある。それは私を少し落ち着かない気分にさせた。
 ぼんやりと白い天井を見上げていると、心地良い包丁が刻むリズムが聞こえてくる。それとエルゥの鼻歌も。

 ……まるで、『家族』といるみたい。

 そう思った瞬間。胸の奥からなにかが溢れようとして、私はそれを無理やり押し込めようとする。だけどそれはどうしてか、上手く押し込められてくれない。

 今までは――上手く押し込められていたのに。

 瞳には涙がせり上がる。ぐすりと鼻を鳴らすと、すぐに蹄の音が近づいてきた。そして気遣うように覗き込まれて、頭を優しく撫でられた。

「琴子、まだ泣くほどつらい?」
「つ、つらくない」
「そっか。つらくないなら、いいんだけど」

 エルゥはそう言って私をしばらく見つめたあとに――私の胸のあたりに目を留めて、大きくその青の瞳を瞠った。

「それが琴子の『欲』なんだね」

 そして小さく、彼はそうつぶやいた。
 ……私の欲? 一体なんのことだろう。

「……欲?」
「ふふ、いいの。こっちの話だから」

 髪を大きな手に何度も梳かれ、額に柔らかな唇を押し当てられる。
 ……待て。今、どうしてキスをした。

「エルゥ! なんでキ……げほっ!」

 いつものように怒ろうとして、私は激しくむせてしまう。

「ああ、ダメだよ。無理にしゃべらないで。記念日だなーと思って、ついね」

 彼は嬉しそうに笑うとまた私の頭を軽く撫でてから、なんだか浮かれた調子の蹄の音を立ててキッチンへ再び向かった。

「……記念日?」
「琴子の『欲望』記念日!」

 つぶやくと、キッチンからそう返ってくる。
 エルゥの言うことは時々よくわからない。これが異文化同士の齟齬というやつなのか。
 だけどエルゥがとても嬉しそうだから……
 まぁいいか、なんて私は思ってしまったのだ。

 ……あの悪魔に、すっかり絆されてるなぁ。