蝉がうるさく鳴いている。
 体が火照り、意識はどろりと混濁している。呼気は荒く、まるで死に近づいている者のようだ。
 私は畳に敷いた薄い布団に寝かされて、扇風機の風を感じていた。枕元にあるグラスの中身は、一体いつの水なのだろう。

 ――そう、私は風邪をひいたのだ。

 見上げた天井は古い木で覆われていて、木目がやけにはっきりと見える。横に目をやると、妙にきしむ廊下に繋がっている黄ばんだ障子が目に入った。家人は高熱を出した私にも無関心らしく、食事を取った記憶を思い返すとそれは一昨日まで遡ることになる。

 苦しい……このまま死ぬのかな。

 ふつうなら夏風邪くらいで死なないだろう。だけどこうやって家人に放置されている私では、それはわからない。なんとか台所まで這って行き、食料の調達をしないと。
 カラリ、と障子が乾いた音を立てた。そちらに目を向けると――
 二人の骨に皮を貼り付けたような老人が、黄色く濁った目で私を見つめていた。
 その目に宿るのは、憎しみの感情だ。もうすっかり向けられることに慣れてしまったその感情を、二人は今日も私に向けている。

『……お前は、いらん子やけんねぇ』
『……生まれんかったら、よかったとにね』

 これは、誰だっけ。老人たちの顔には見覚えがあるのに、なぜだか上手く思い出せない。私は懸命に記憶を辿って、やっとその糸を手繰り寄せた。

 ああ……二人は。大学生の頃に亡くなった、祖父と祖母か。

『あの子が置いていったから、仕方なく育てとるんよ』

 わかってる。わかってるよ、おばあちゃん。

『生きてるだけで、ありがたいと思わんとね』

 うん。それも知ってるよ、おじいちゃん。
 なにかが欲しいなんて言わないよ。だってこうして、生かしてもらってる。
 生きているだけでじゅうぶんだから、それ以上の迷惑はかけないよ。
 高校を出たら、ちゃんと家を出るから。大学の学費だって自分でどうにかする。
 そのあとはちゃんと働いて、もう二度と貴方達や■■■■に会ったりしないから。

 だから、だから……

『このまま死んでも、よかやろう』

 ――そんなこと、言わないで。

「――琴子!」

 誰かに呼ばれて、私は目を覚ました。
 体はぐっしょりと濡れていて、まるで水を被ったようだ。周囲を見回すとそこは饐えた香りのする田舎の家ではなく、安心できる我が家……白い壁紙のワンルームだった。
 あれは、高校生の頃の記憶だ。住まわせてもらっていた祖父の家で、風邪をひいた時の……

「琴子、大丈夫? 起こしたら悪いと思ったんだけど、うなされてたから……」

 声の方へ視線を向ける。するとエルゥが申し訳ないという表情でこちらを見ていた。

「エルゥ……」

 すっかり指先が冷たくなった手を彼へと伸ばす。すると大きな手がそれをぎゅっと握った。
 エルゥに手を握られていると、冷えた心に再び血が巡る。私は数度深呼吸をして、息を整えた。
 握られた手が心地良い。
 ……エルゥの体温は、安心できる。

「怖い夢でも見た?」
「……うん」
「僕にできること、ある?」
「……一緒に、寝て」

 私はつい、そんなことを口にしていた。
 エルゥが一緒に寝てくれれば、怖い夢はもう見ないような気がしたから。

「添い寝? 人間の方と、もふもふの方どっちがいい?」
「もふもふは暑いから……人間で」

 夏のこの時期に、天然の山羊毛との添い寝は辛そうだ。しかも山羊毛と言えど裸だし。もふもふなんて言葉にはだまされないぞ。もふもふは裸だ。
 エルゥはにこりと笑うと、そっと私の手を放す。彼は立ち上がるとジャージのズボンをきっちりと履いてから、人間の下半身になった。

「じゃ、失礼するね」

 するりとエルゥがベッドに入ってくる。そして、しなやかな腕がこちらに伸びて私の体を包み込んだ。大きな手が背中を優しく撫で、時々子供にするようにポンポンと叩く。
 固い胸に頬を擦り寄せると、ふっと彼が笑う気配がして頭を優しく撫でられた。

 ……温かい。なにかが、満たされる気がする。

「……悪い夢は、ぜんぶ僕が食べてあげるから。ゆっくり寝てね、可愛い琴子」

 耳元で囁かれる声は、驚くくらいに甘い。
 幼子にされるようにあやされるのは、とても心地良くて蕩けそうになる。

 ――■■■■。

 その言葉を思わず口にしようとして、私がぎゅっと唇を噛んだ。これは■なんかじゃなく、悪魔だ。そして私にとっては、目の前の悪魔よりも■の方がよほど悪魔のような存在だった。

 そして私は悪魔の腕に抱かれ……今度は夢も見ない深い眠りについたのだった。