「ぐしゅっ!」

 頭がガンガンと鈍く痛み、意識がぼんやりしている。
 川に落ちた翌日。私は見事に熱を出していた。

「……三十九度か。結構な熱だね」

 エルゥが体温計を見ながら、渋い顔をしている。

「会社に電話……しなきゃ」

 ふらふらとしながら体を起こそうとすると、エルゥがそっとそれを制した。

「それは僕がするから。琴子は大人しく寝てなさい」

 彼はそう言うと、私のスマホを手にして素早く電話をしてしまう。
 電話に出たのは社長だったらしく、こちらまで謝る声が聞こえてきた。
 あのあと、バーベキューはどうなったんだろうな。食材のお金を払い損ねているので、明日払わないと。それとエルゥが出してくれたタクシー代も返さなきゃ。
 ……そういえば、エルゥのパウンドケーキ食べそこねたなぁ。
 それが非常に心残りだ。お願いをしたら、作ってくれるのだろうけど。

「琴子、なにか食べたいものは?」

 腕まくりをしながらエルゥが訊ねてくる。私は少し考えて……

「桃、アイス、ヨーグルト」

 と、少し枯れた声で言った。
 病気の時に家族の誰かが看病してくれて、冷たいそれらを食べさせてくれる。
 友人から聞くよその家では当たり前らしいその光景は、子供の頃からの私の『夢』だった。

 ……前に付き合った人にも、こんなに甘えたことはなかったな。

 彼とは同居していたわけではなかったし、風邪をひいたことすら言わずに一人で部屋で唸っていただろう。
 エルゥは……私の硬い部分を優しく溶かして甘えさせるのが上手い。

「ふふ、甘いのばっかりだね。買ってくるから少し待ってて」

 エルゥは私の額に乗せていた濡れ布巾を新しいものに変えると、大きな手で頬を何度も撫でてくる。彼の手は、妙に冷たい。悪魔は自在に体温を変えられたりするのかな。

「一人で、平気?」
「……平気。すぐに戻ってくるんやろ?」
「うん、スーパーに行って帰るだけ。すぐ戻る」

 彼はそう言いつつも、私の様子を何度も何度も確認してから、ジャージ姿で部屋を出て行った。
 世話焼きで、心配性で、優しくて。
 ……本当に、エルゥは変わった悪魔だ。

 一人の部屋はとても静かで、蝉の鳴き声や、外ではしゃぐ子どもたちの声がとてもよく聞こえる。

 ――寂しいな。

 喧騒に耳を傾けながら……私はそんなことを考えてしまった。
 エルゥのせいで一人で居ることが、少なくなったせいなのかな。
 だから、こんなことを考えてしまうんだろう。

 いつの間にか、私は眠っていたらしい。
 エルゥが知らない言葉で、歌を歌っている。内容なんてちっともわからないけれど、その音色は子守唄のようだと私は思った。

「……エルゥ」

 枯れて小さな声で名前を呼ぶと、ぴたりと子守唄が止まる。そして優しく、頭を撫でられた。目を開けると、エルゥの美貌が目に入る。それと下半身のもふもふも。
 ……この悪魔、また下を履いてない。しかし今日は怒る気力もないので、私はスルーすることにした。

「琴子、起こしちゃった?」
「……大丈夫」
「ご飯を用意するから、少し待ってね」

 エルゥはそう言うと、蹄を鳴らしながら冷蔵庫に向かう。そして立派なサイズの桃を取り出した。
 ……桃缶を想像していた私は、それを見て少しびっくりする。
 あれ、高かったんじゃないかな。ロックフォールや生ハムの原木のことと言い、エルゥは私を甘やかそうとしすぎだ。

「なに、作るの?」
「琴子が寝てる間に、実は作り終わってるんだ。桃とヨーグルトのジェラートだよ。これは上から乗せる用」

 掠れた声でも、エルゥはちゃんと聞き取ってくれる。
 エルゥの返事を聞いて、私はこくんと唾を飲んだ。なにそれ、美味しそう。

「晩ご飯は、梅のお粥。甘いものばかりもよくないからね」

 彼はそう言ってウインクすると、冷凍庫からタッパーを取り出した。それにはぎっしりとアイスが詰まっているようだ。その味を想像すると、お腹がきゅるると鳴った。

「少しだけ待ってて」

 優しい声で言われて、こくりと頷く。そして熱で呼吸を乱しながら天井を見ていると、しばらくして蹄の音が近づいてきた。
 覗き込まれ、そっと額に手を当てられる。そして彼は困ったように眉尻を下げた。

「……明日まで熱が下がらなければ、一緒に病院に行こうね」
「……ん」

 エルゥと病院になんて注目の的になるだろう。できれば、熱が下がっていて欲しい。

「少しだけ、体を起こせる?」
「うん」

 支えられながら起こされ、背中にクッションを当てられる。そして口元にアイスを乗せたスプーンが差し出された。

 ……ふだんなら『自分で食べられる』と言うところだ。

 だけど今日は……甘えたいような気持ちだったので、私は素直にそれを口にした。
 するとエルゥの表情が嬉しそうに綻ぶ。この悪魔は、私なんかを餌付けして、なにが楽しいんだろうな。
 氷菓は口の中でするりと溶け、桃の芳醇な甘さとヨーグルトの爽やかな風味を残す。贅沢に入った果肉を噛みしめると、それは甘い果汁を口中に広げた。

「……美味しい」

 そう言ってふぅ、と息を漏らすとエルゥに優しく頭を撫でられる。そしてアイスをまた、口に入れられた。

「小さく切ったつもりだけれど、食べづらかったら言ってね?」

 エルゥは今度は、小さめに切った桃をスプーンに乗せた。鳥の雛のようにぱかっと口を開けると、笑みを浮かべた彼が瑞々しい果実を優しく口に運んでくれる。
 少し柔らかめの桃はよく熟していてとても甘い。
 私はあっという間に、桃とアイスを平らげてしまった。

「良かった、食欲があるみたいで」

 アイスのお皿を片付けてから、エルゥは水の入ったグラスを持って戻って来る。そして市販薬と一緒にこちらに渡した。

「これで、熱が下るといいね」
「ありがとう。……ごめん、迷惑かけて」
「ううん。気にしないで」

 エルゥは微笑むと、くしゃくしゃと私の頭を撫でる。
 熱で発汗して汗まみれだから、やめて欲しいんだけどな。

「エルゥ」
「ん?」
「……お薬の前に。アイス、もっと食べたい」
「そっか、わかった。待ってて」

 お皿を下げたばかりなのに、エルゥは嫌な顔一つせずまた台所へと行く。
 ……子供みたいなワガママを言ってしまった。
 そして子供みたいなワガママを言えるのって、こんなに嬉しいことなんだ。
 そんなことを思いながら、私は台所に立つエルゥの姿を見つめた。
 エルゥの山羊の尻尾は機嫌良さげにぴるぷると振られている。もふもふとした足は毛並みが良くて、触れると気持ちいいんだろう。足だけ見てると、家の中でペットを飼ってるみたいだ。……蹄でうろうろしてるのに、フローリングに不思議と傷が付かないんだよなぁ。

「琴子、おかわりだよ」

 上機嫌なエルゥが、アイスを手にして戻って来る。

「エルゥ。なんだか、機嫌良すぎない?」
「ごめんね。でも琴子が甘えてくれるから……少し嬉しくて」

 エルゥはそう言って微笑むと、私の頭をまた撫でた。
 アイスの二皿目を食べてから、市販薬を水で喉に流し込む。そして私はベッドに再び転がった。熱を測ると三十八度。まだまだ回復には程遠い。
 おそらく明日も休ませてもらえるだろうけれど、仕事が溜まるのは嫌なのでできれば出社したいな……
 うとうととしていると、大きな手に右手を握られる。その優しい感触を感じながら、私の意識は眠りへと落ちていった。