「うっわ、ひどい顔」

 嶺井さんに弁当を届けに来た美しい彼氏を目にして、彼女に嫌味のようなことまで言ってしまって。自己嫌悪に塗れながら帰宅した俺に投げかけられたのは、ライアの非情な言葉だった。

「うるさい。ひどい顔って自覚はある。というかお前、まだ来たのかよ」

 俺は矢継ぎ早に言うと、ベッドに上に鞄を放る。そして大きなため息を吐いた。

「なにがあったか知らね――けど。きっと飯を食ったら元気になるぞ!」

 ライアはそう言うと、にっこりと笑った。
 ……ライア、それはお前が飯を食いたいだけだろう。
 そうは思うが、一理ないこともない。俺が台所に向かうと、ライアが期待する目をこちらに向けた。
 無洗米二合と水を炊飯器に入れ、早炊きボタンを押す。冷蔵庫を開けると、塩サバが二枚に卵が六つ。……納豆もあるな。焼くだけのおかずで簡単に済ませよう。
 魚焼きグリルに塩サバを入れて火を点け、卵を四つ、器に割る。玉子焼の味付けは、塩だ砂糖だ出汁だと論争が起きがちであるが……我が家の味付けは醤油である。これは、譲れない。
 卵をかき混ぜ醤油を垂らしてまた混ぜる。玉子焼用の四角のフライパンを熱し、サラダ油を一たらし。
 そうしているうちに、グリルからは塩サバが焼けるいい香りが漂ってくる。

「おーなかすいたー!」

 匂いに刺激されたらしいライアが部屋で暴れているが、無視だ、無視。
 グリルを開けて塩サバをひっくり返してから、俺は卵液をまずは半分だけフライパンに落とした。そして中身が半熟になるように、菜箸でかき混ぜながら焼いていく。外側が少し固まったところでくるりと巻いて、残りの卵液を足していく。そしてまた、くるり。
 そうしているとふわりとした見た目の、醤油の香ばしい匂いがする玉子焼が焼き上がった。玉子焼を皿に移して、食べやすいように切り分ける。すると中身が固まりきっていない、黄色と白の断面が覗く。うん、なかなかいい感じだ。
 焼けた塩サバも皿に移して納豆を小鉢に入れてかきまぜていると、ちょうどよく炊飯器が炊きあがりを告げた。

「ライア、運ぶの手伝え」
「はーい!」

 ライアは元気な返事をすると勢いよくこちらに来ようとして……蝙蝠の翼を引き戸の外枠に引っ掛け、痛そうな顔をする。

「その翼は畳んでおけ。あちこちに引っかかるから」
「……はーい」

 彼女は翼を小さく畳むと、手渡された塩サバが乗った皿を持って部屋へと戻った。俺玉子焼の乗った皿と、ご飯の茶碗を盆に乗せてから部屋へと行く。

「美味そうだ……」

 座卓の横に正座したライアが瞳を輝かせながら食卓に見入る。
 ……どれも焼いただけなんだし、大したものはないんだが。
 ちなみにライアの分の納豆は用意していない。前に食わせたら『腐っているではないか!!』と大騒ぎだったからな。
 ライアにフォークを渡してから、俺は『いただきます』と口にしてから塩サバに箸を付けた。それを見たライアも見様見真似の『いただきます』をしてから、玉子焼にフォークを刺す。

「おっと、忘れてた」

 冷蔵庫に行って……発泡酒を二缶手にする。
 ……自分の分がないと拗ねられても、面倒だしな。
 俺は、あの淫魔を甘やかしすぎなんじゃないだろうか。

「ビールだ!」

 発泡酒を渡されたライアは、嬉しそうな顔をした。

「これは発泡酒」
「発泡酒?」
「……ビールより、ちょっと安い」
「ほー。そんなものがあるんだな!」

 ライアはふんふんと頷いてから、カシュッと音を立てながら蓋を開ける。そして一口飲んでから『少し薄いが、これも美味い!』と言って笑った。
 俺も塩サバを口にしてから、発泡酒を喉に流し込む。美味いな。疲れた体と心に染み渡る味だ。

「――で。今日はどうして、冴えない顔をしてるんだ?」

 玉子焼を頬張りながら、ライアがそう訊ねてくる。
 俺は少し沈黙してから……口を開いた。

「……好きな子に、彼氏がいた。しかもとんでもない美形」
「ほー」

 今日あったことを話すとライアは「それは手強いな」などの、邪魔にならない程度の相槌を打ちつつ俺の話を聞く。こいつはがさつに見えて、案外聞き上手なのかもしれない。
 俺が話を終えると、ライアは頬いっぱいにハムスターのように詰め込んだ米を飲み込んだ。そしてこちらに、視線を向ける。

「諦めるのか?」
「……彼氏がいるんじゃ、仕方ないだろ」

 そう言ってちびりと口にした発泡酒は、ふだんよりも苦い味のような気がする。

「別に婚姻してるわけではないだろう。奪ってしまえ! 愛は戦いだ!」
「……バカか、お前は」
「戦う前から諦めて撤退する方がバカなのだ! お前はずっとその女を好いていたのだろう? ぽっと出の男に奪われて、泣き寝入りか?」

 ……これは、俺の倫理観ではいけないことだ。
 だから『それはダメだ』とすぐにでも言わなければいけないのに。諦めの悪い俺の恋心が、『嶺井さんが好きだ』とうるさく喚く。

「……手伝ってやるぞ? この悪魔の力を使ってな」

 ライアはささやくと、にっと口角を上げて笑う。そして俺へ手を伸ばした。
 彼女のめずらしく『悪魔的な』雰囲気に飲まれてしまい、その美しい形の手が近づいてくるのをなにもできずに見守ってしまう。

 ――悪魔の力? 一体なにをされてしまうんだ。

「まずはこの、邪魔な髪を切ってしまわんとな。ハサミはあるか?」
「……は?」

 長い前髪に触れながらのライアの言葉に、俺はあっけに取られてしまった。

「ハサミだ、ハサミ。この野暮な髪型では想い人の気を引けんぞ。その眼鏡もどうにかしないとな。コンタクトはあるか?」
「……コンタクトは、ない」
「では、視力が上がる魔術をかけてやろう。あれは、ちと疲れるんだがなー」

 そんな魔術があるのか。悪魔、便利だな。
 彼女は俺の筆立てから勝手にハサミを見つけ、シャキシャキを音を鳴らす。

「ライア、これはどういう……」
「諦める前に今より格好よくなって、少しだけ頑張ってみたらどうだ? その方が、絶対にいいぞ!」

 ライアはそう言うと、夏の太陽のように眩しい笑顔を浮かべ……俺の前髪を思い切りよく切り落とした。