私、春日更紗は夢を見ていた。
 深い、昏い、水の底に沈んでいく夢。周囲は真っ暗で、手を伸ばしてもどこにも届かない。
 恐怖で悲鳴を上げようとすると、黒い水が口から侵入して――容赦なく、呼吸を奪った。

 どうしてこんな夢を見るのだろう。
 あの女が溺れる様を目の前で見たからだろうか。ああ、あれは本当に――

 ……いい気味だった。

『君は、本当に醜い子だね』

 綺麗な声が耳に入る。ここは水中のはずなのに、おかしな話だ。
 呼吸は苦しいのに、意識は明瞭で、死が訪れる気配がない。この時点で、おかしいのだけれど。まぁ、夢だもんね。
 そんなことを考えながら声の方へと視線を向けると――エルゥさんのような『なにか』がいた。
 山羊のような大きな角。白い体毛に包まれた半獣の下半身。その足先は、人の足ではなく蹄になっている。上半身は人間の裸体で、それはごくりと唾を飲みそうになるくらいに艶めかしい。
 夢だからこんな格好なんだろうか。人外の姿をしていても、エルゥさんは綺麗だ。

 こんなに美しいのに、この人はあの冴えない女のものだなんて。

 そんなのっておかしいじゃない。
 私の方が絶対似合う。そして誰もが、羨ましがってくれる。

『エルゥ、さん』

 彼の名前を口にしてみる。
 するとさっきは悲鳴を上げられなかったのに、今度はすんなりと声が出た。呼吸もちゃんとできる。私は大きく息を吸うと、乱れた呼吸を整えた。
 エルゥさんは青い瞳を潤ませながら妖艶に笑うと、私に向かって手を伸ばす。

 ――助けて、くれるのだろうか。

 そう思いながら伸ばした手は優しく掴まれ――そのまま一気に、さらに深いところへと引きずり込まれた。
 再び息ができなくなる。苦しい、嫌だ、どうして!

『なん、で』
『なんで? おかしいな。今日、君が琴子にしたのと同じことでしょう?』

 彼はそう言って、整った顔に凄絶なくらいに美しい笑みを浮かべる。

『苦しい? 醜い顔がさらに醜く歪んでるよ? 大丈夫、死にはしないから。だってここは夢なんだから』

 鈴の鳴るような美しい声で笑って、彼は私を引きずりながらくるくると水の中を回遊する。

『嫌! なんでなんで!! なんでこんなことするの!!』

 叫ぼうとした声は、すべて泡になって消えていく。周囲は深い闇で一寸先も見えない。
 怖い、苦しい、助けて、助けて。

『……苦しい?』

 訊かれて、私は必死に何度も首を縦に振った。

『助けて欲しい?』

 さらに何度も、激しく振る。

『――琴子もね、こんなふうに苦しかったんだよ』

 そんな彼の言葉を聞いているうちに、私の意識は途切れていく。
 そして私は……ベッドの上で、息を切らせながら目を覚ました。

「――ッ」

 夢の内容はすでに薄らぼんやりとして、彼方の記憶になろうとしている。
 だけど苦しくて、不快な夢だったことだけは――深く心に刻まれていた。

『君が悔いるまで、何度でも来るから』

 ――聞き覚えのある美しい声が、耳元が聞こえた気がして。
 後ろを振り返ったけれど……そこには誰も居なかった。