「ご飯はちゃんと毎日食べてる?」

 男は真剣な表情で私にそう訊ねてきた。彼は山羊の足を器用に折りたたんで正座をしている。男の前で自分も正座しながら、私はこの状況に困惑していた。
 夢のはずなのに体に伝わる感覚は現実のようにリアルで、だけど美貌の男やファンシーな風景は悪夢のようにリアリティがない。
 ……この夢、いつ覚めるんだろう。

「ね、食べてるの?」

 男は重ねて同じことを訊ねてくる。私は仕方なく、ここ一週間の食生活に思いを巡らせた。

「日に……一、ニ食は食べてる、と思う」

 私は朝が弱いので起きたら出勤時間ギリギリのことが多く、朝食をよく食べ損ねる。
 昼は会社の近くのコンビニでパンやおにぎりを買って済ませ、夜は食べたり食べなかったりという食生活だ。
 ……まぁ、あきらかに不規則だよね。
 元が面倒くさがりなのもあり、近頃はずっとこの調子である。

「そんな生活じゃ、いい『精気』が作れないでしょう!」

 男は嘆くような口調でそう叫ぶと、雲を拳で叩いた。叩かれた雲はもふん! と非常に柔らかそうな音を出す。男性に恫喝されているのに、ぜんぜん迫力がないな。

「……そもそも貴方、誰?」

 夢の中で出会った男に訊ねるのもバカバカしいと思いながらも、疑問に思ったことを訊いてみる。すると彼はにこりと極上の笑みを浮かべた。

「僕はエルゥ。インキュバス族だよ。インキュバスってわかる?」
「……わからない」

 聞き覚えのない言葉に、私は首を傾げた。族? どこかの部族なのだろうか。

「んーとね、インキュバスは悪魔の一種で。女の子とえっちなことをすることで得られる『精気』を食べて生きる種族なんだ」
「は?」

 目が点になる。『えっちなことをして』だと? 人のよさそうな顔をしているけれど、この男は危険人物なのだろうか。『精気』の意味はよくわからないけれど、取られたらまずいもののような気がする。
 私が警戒心もあらわに後退りをすると、エルゥは慌てた顔をした。

「そんなには食べないから、安心して! 食べすぎはコンプライアンス違反になるからね。気持ちいい思いをしていただくついでに、ちょこーっとだけいただく程度だから!」

 ……悪魔にもコンプライアンスなんてものがあるのか。
 しかし『気持ちいいこと』なんて言われても困ってしまう。いくら美男だからって、やすやすと体を差し出すつもりはない。まぁ、これはそもそも夢なんだけど。

「えーっと、よそを当たってください」
「んーそれもいいんだけどね。君、食べるところがないし。栄養不足と疲労で『精気』がめちゃくちゃ薄いもん」
「え……」

 栄養不足、疲労。心当たりは大いにある。
 うちはブラック企業ではないが現場の人数が少ないこともあり、割り振られる仕事はそれなりに多く残業もある。その上――これは自業自得だが――ずさんな食生活だ。

「そのうち、倒れるよ?」

 綺麗な手が伸びてきて、頬を何度か撫でた。そして心の底から心配そうな表情で、彼がこちらを覗き込む。

「君の『精気』が満ちるように、僕がご飯を作ってあげようか? こう見えて、料理は得意なんだ」
「エルゥが、どうして?」
「……心配だから」
「嘘。『精気』を食べたいからでしょ」
「『精気』を食べたいだけなら、放置してよそに行くよ。僕から見たら、君はガリガリの子猫みたいに見えるんだ」

 エルゥは私の頭をよしよしと撫でる。その手のひらの感触は、不思議と落ち着くものだ。
 ……ガリガリの子猫か。そう言われると放っておけない気持ちも少しわかる気がする。

「君も過労で倒れたりはしたくないでしょ? 僕は君の『精気』を高めるために、栄養満点のご飯を作る。それで、時々キスで『精気』を分けてくれると嬉しいかな? それ以上のことは、ひとまず我慢する」

 ――キス。
 その言葉を聞いて、反射的にエルゥの唇を見つめる。それは綺麗な薄紅色をしていて、芸術品のように整っていた。
 この唇と唇を合わせるのは……少し気持ちがよさそうだ。
 そんな不埒なことを考えてしまい、私はぶんぶんと首を横に振った。

「お試しにキスをしてみて、不快感があればこの件はなしでいいよ?」

 エルゥは、くすりと笑う。そして……ゆっくりと顔を近づけてきた。
 これは夢だから。それに、キスくらいなら減るものじゃない。
 美男だからってやすやすと体を差し出すつもりはない、だなんてさっきは思っていたくせに。私の意思は悲しいくらいに薄弱だ。
 目の前の美青年が、魅力的すぎるのが悪いのだ。

「……いい?」

 甘く囁き、エルゥが唇を合わせる。
 その唇の感触は――まったく不快ではなかった。

 まぁ、いいか。夢だし。

 夢だと――思ってたんだけどなぁ。
 目を覚ました私が目にしたのは、エプロンを着けた半人半獣の美青年がにこにことしながら食卓を整えている光景だった。

「エルゥ?」
「おはよう! えーっと、名前は?」
「……琴子」

 現実なのか、夢の続きなのか。寝ぼけた頭では判然とせず、私は呆然としながら自分の名前を彼に教えた。
 その日からエルゥは、我が家に居つくことになったのだ。

 ☆

「琴子、晩ごはんはなにがいい?」

 エルゥの声で、私は過去から現在へと引き戻された。
 いつの間にか彼はジャージの上からエプロンを身に着け、長い髪を輪ゴムで結んでいる。そしてカツカツと蹄を鳴らしながら冷蔵庫に近づき、その中を確認した。

「このしめじとトマトは、使い切った方がよさそうだなぁ……」

 冷蔵庫から出したしめじとトマトを手に取って真剣な目つきで眺める絶世の美青年は、なんともシュールである。
 エルゥは一週間に五日程度我が家にやって来る。そして来ない日の前日にはおかずを作り置きして、冷蔵庫に入れてくれている。彼は本当に世話焼きだ。

「エルゥ、カレーが食べたい」

 夏はカレーだ。カレーを食べながら、冷たいビールを煽るのは本当に最高だ。異論は認めない。私はエルゥに買い物袋を渡すと、大きなクッションにぼふりと腰を下ろした。着替えはあとででいいや。

「わかった、カレーね。あ、こんなにビールを買って! 飲みすぎは体によくないのに……」

 エルゥは買い物袋の中身を見てビールの存在を確認すると、悲しげな声を上げた。

「それに着替えもせずに! 部屋着に着替えなさい。じゃないとご飯作らないよ?」
「ええー……わかった」

 ……エルゥは、世間一般がイメージする母親像そのものだ。
 私はしぶしぶ部屋着に着替えて、またクッションに腰を下ろす。そんな私の姿を確認して、エルゥは満足げにうんうんと頷いた。
 そして私が脱ぎ散らかした衣服を回収すると、洗濯カゴにポイと投げ込む。彼は掃除や洗濯などの、食事以外の家事もしてくれるのだ。
 最初は洗濯物に触れられることに抵抗があったけれど、最近ではすっかり抵抗感がない。
 ……慣れってやつは、本当に怖いな。

「琴子。カレーはドライカレーがいい? インドカレー? それともふつうの?」
「ドライカレーがいい」
「じゃあご飯とピタパンサンドにするの、どっちがいい?」
「うう、悩むなぁ。ピタパンにしようかな……」
「わかった。ピタパンね」

 エルゥは楽しそうに鼻歌を歌いながら、慣れた手つきで料理を開始した。
 我が家は八畳のワンルームだ。玄関を入ってすぐのところに設置されたキッチンが、素通しで見える。私はエルゥがぱたぱたと動く姿を、ぼんやりと眺めていた。
 エルゥのご飯は美味しいし、家事もほとんどしてくれるし、なにより目の保養になる絶世の美形だけれど。悪魔に世話を焼かれる生活に、このまま慣れきってしまっていいものか。あとから『命をよこせ』とか言われないのかな。悪魔だし。
 そんなことを考えているうちに、眠気が意識を浸していき、私はこくりと船を漕いだ。

「ご飯ができたら起こすから、寝てていいよ」

 眠たげな私に気づいてエルゥが、優しい声をかけてくる。

「ん、じゃあちょっと……寝る」

 その言葉に甘えて、私はぱたりと瞼を閉じたのだった。