「……エルゥ泣きそうだね」
「琴子、琴子」
エルゥはそれしか言えなくなったかのように、私の名前を繰り返す。
「ちょっと! 大丈夫!? 更紗ちゃん、あんた嶺井さんを振り払ったやろ! 見とったんやから!」
江村さんがすごい勢いで駆けつけて、いつの間にか川岸に上がっていた更紗ちゃんを睨みつけた。更紗ちゃんは肩をすくめ「見間違えでしょ?」と半笑いで言う。
……今までは甘やかされてるだけの子、と思っていたけれど。
甘やかされすぎて、この子の内側はかなり捻じくれてしまっているのかもしれない。
――優しい親がいても、まっすぐに育つわけじゃないんだな。
そんなことを、先ほどの笑みを思い返しながら考える。
まぁだからって……私にはどうしようもないし、関係ないのだけれど。
社長夫妻や井上君が慌ててこちらに駆けてくるのが見える。幸治さんは双子ちゃんを江村さんの代わりに見ているようだ。
他のバーベキュー客からの注目も浴びていて、なんだかとても居心地が悪いな。
「江村さん、大丈夫です。私が無理に止めたのも悪いんで。エルゥ、タオルある?」
「うん、持ってる。体、拭かないとね。乾いたらタクシーを呼んで、帰ってお風呂に入ろう? このままだと風邪をひくから」
エルゥはそう言うと……私を姫抱きで抱え上げる。
「エルゥ!? 濡れるから!」
「いい、濡れても」
エルゥの白いシャツがぐしょりと濡れる。それに申し訳なさを覚えながらも、体が冷えていたのでエルゥの高めの体温がありがたい。
「エルゥは、あったかいね」
「……琴子の体温が低いの」
テントまで抱えて運ばれ、バッグから出した大きなタオルでわしゃわしゃと少し乱暴に拭かれる。その手つきからは、エルゥの焦りが感じられた。
「嶺井さん、大丈夫?」
井上君が心配そうな表情でテントを覗き込む。私はそれに頷いて見せた。
彼はなぜか汗だくで、激しく息を切らせている。
「はい、これ」
井上君はそう言うと缶の珈琲を差し出した。受け取るとそれはこの季節にはめずらしい、温かいものだ。もしかして……わざわざこれを探してきてくれたんだろうか。
「ありがとう。探すの、大変だったでしょう?」
「スーパーのレジ横にあるの覚えてたから。そこまで大変でも」
……スーパーまではそれなりに距離があるのに。
こんな炎天下の中、本当に申し訳ないな……
「ありがとう、井上君」
重ねてお礼を言うと、井上君は照れたような笑みを浮かべた。
「……ホットか。盲点」
エルゥは私をわしわしと拭きながら、ぶつぶつつぶやいている。
いや、私が川に落ちるなんて予測がつくはずないんだから。持ってきてなくて当然でしょう?
江村さんが社長夫妻に状況の説明をしてくれているようで、社長はふてぶてしい表情の更紗ちゃんに複雑な視線を向けている。ここで叱れないのが、更紗ちゃんが増長する原因なんだろう。
社長と美里さんは江村さんの話をひとしきり聞いた後にこちらにやって来て、二人で勢いよく頭を下げた。
「嶺井さん、本当にごめんなさい!」
「本当に、申し訳ない!」
私に謝ることよりも、先に更紗ちゃんを叱るべきなんじゃないだろうか。そして謝るべきなのは、更紗ちゃん本人だ。
……この夫婦はこうやって、更紗ちゃんがなにかをするたびに彼女の代わりに頭を下げてきたんだろう。
それは娘を愛しているからなのか――それが『楽』だからなのか。
いい悪いは置いておいて、これが彼らの家族の形なんだろうな。
「……大丈夫なので」
井上君からもらった缶珈琲をすすりながら言ってみせると、二人は明らかにほっとした顔になった。
「――大丈夫じゃない。琴子は溺れかけたんですよ」
鋭い声がその場に響く。あまりの鋭さに、それがエルゥの声だと、私はしばらく気がつかなかった。
「貴方たちが……きちんと娘を見ていればこんなことは起きなかったでしょう? それ以前のきちんと躾をしていれば、という問題もありますけれど」
エルゥの声音が空気をどんどん冷やしていき、社長夫妻は言葉を発せず冷や汗を垂らすばかりだ。私はエルゥのシャツをぐいぐいと引っ張った。
「エルゥ。本当に大丈夫だから!」
「琴子……だけど」
ぎゅうと強く抱きしめられ、私は戸惑ってしまう。
――こんなにも人に感情を向けられたのは、はじめてかもしれない。
それをはじめてしてくれたのが、悪魔というのが笑ってしまうけれど。
「……ありがとう、エルゥ」
お礼を言うと、エルゥはくしゃりと泣きそうな顔をする。私はその頭を、何度も撫でた。
☆
「すみません、後片付けとか……」
「いいって、いいって! エルゥ君がやばいくらいに心配そうな顔してるし、早く帰んな」
江村さんが笑いながら、気にするなと言うように手を振って見せる。
呼んだタクシーに乗って、私は一足先に帰ることになった。
夏の炎天下なので服は一応乾いたけれど、下着が生乾きで正直とても気持ち悪い。
タクシーのシートを汚したらどうしよう……とハラハラしていると、乗り込む時にエルゥが新しいタオルを敷いてくれた。
「なにかあったら、連絡して」
そう言ってくれる井上君に「ありがとう」と返してから、私はみんなに頭をぺこりと下げる。更紗ちゃん以外のみんなは会釈を返してくれたけれど……彼女はそっぽを向いたままだった。
一年に一、二度会うか会わないかの子とはいえ、少し気まずいな……
「琴子、琴子」
エルゥはそれしか言えなくなったかのように、私の名前を繰り返す。
「ちょっと! 大丈夫!? 更紗ちゃん、あんた嶺井さんを振り払ったやろ! 見とったんやから!」
江村さんがすごい勢いで駆けつけて、いつの間にか川岸に上がっていた更紗ちゃんを睨みつけた。更紗ちゃんは肩をすくめ「見間違えでしょ?」と半笑いで言う。
……今までは甘やかされてるだけの子、と思っていたけれど。
甘やかされすぎて、この子の内側はかなり捻じくれてしまっているのかもしれない。
――優しい親がいても、まっすぐに育つわけじゃないんだな。
そんなことを、先ほどの笑みを思い返しながら考える。
まぁだからって……私にはどうしようもないし、関係ないのだけれど。
社長夫妻や井上君が慌ててこちらに駆けてくるのが見える。幸治さんは双子ちゃんを江村さんの代わりに見ているようだ。
他のバーベキュー客からの注目も浴びていて、なんだかとても居心地が悪いな。
「江村さん、大丈夫です。私が無理に止めたのも悪いんで。エルゥ、タオルある?」
「うん、持ってる。体、拭かないとね。乾いたらタクシーを呼んで、帰ってお風呂に入ろう? このままだと風邪をひくから」
エルゥはそう言うと……私を姫抱きで抱え上げる。
「エルゥ!? 濡れるから!」
「いい、濡れても」
エルゥの白いシャツがぐしょりと濡れる。それに申し訳なさを覚えながらも、体が冷えていたのでエルゥの高めの体温がありがたい。
「エルゥは、あったかいね」
「……琴子の体温が低いの」
テントまで抱えて運ばれ、バッグから出した大きなタオルでわしゃわしゃと少し乱暴に拭かれる。その手つきからは、エルゥの焦りが感じられた。
「嶺井さん、大丈夫?」
井上君が心配そうな表情でテントを覗き込む。私はそれに頷いて見せた。
彼はなぜか汗だくで、激しく息を切らせている。
「はい、これ」
井上君はそう言うと缶の珈琲を差し出した。受け取るとそれはこの季節にはめずらしい、温かいものだ。もしかして……わざわざこれを探してきてくれたんだろうか。
「ありがとう。探すの、大変だったでしょう?」
「スーパーのレジ横にあるの覚えてたから。そこまで大変でも」
……スーパーまではそれなりに距離があるのに。
こんな炎天下の中、本当に申し訳ないな……
「ありがとう、井上君」
重ねてお礼を言うと、井上君は照れたような笑みを浮かべた。
「……ホットか。盲点」
エルゥは私をわしわしと拭きながら、ぶつぶつつぶやいている。
いや、私が川に落ちるなんて予測がつくはずないんだから。持ってきてなくて当然でしょう?
江村さんが社長夫妻に状況の説明をしてくれているようで、社長はふてぶてしい表情の更紗ちゃんに複雑な視線を向けている。ここで叱れないのが、更紗ちゃんが増長する原因なんだろう。
社長と美里さんは江村さんの話をひとしきり聞いた後にこちらにやって来て、二人で勢いよく頭を下げた。
「嶺井さん、本当にごめんなさい!」
「本当に、申し訳ない!」
私に謝ることよりも、先に更紗ちゃんを叱るべきなんじゃないだろうか。そして謝るべきなのは、更紗ちゃん本人だ。
……この夫婦はこうやって、更紗ちゃんがなにかをするたびに彼女の代わりに頭を下げてきたんだろう。
それは娘を愛しているからなのか――それが『楽』だからなのか。
いい悪いは置いておいて、これが彼らの家族の形なんだろうな。
「……大丈夫なので」
井上君からもらった缶珈琲をすすりながら言ってみせると、二人は明らかにほっとした顔になった。
「――大丈夫じゃない。琴子は溺れかけたんですよ」
鋭い声がその場に響く。あまりの鋭さに、それがエルゥの声だと、私はしばらく気がつかなかった。
「貴方たちが……きちんと娘を見ていればこんなことは起きなかったでしょう? それ以前のきちんと躾をしていれば、という問題もありますけれど」
エルゥの声音が空気をどんどん冷やしていき、社長夫妻は言葉を発せず冷や汗を垂らすばかりだ。私はエルゥのシャツをぐいぐいと引っ張った。
「エルゥ。本当に大丈夫だから!」
「琴子……だけど」
ぎゅうと強く抱きしめられ、私は戸惑ってしまう。
――こんなにも人に感情を向けられたのは、はじめてかもしれない。
それをはじめてしてくれたのが、悪魔というのが笑ってしまうけれど。
「……ありがとう、エルゥ」
お礼を言うと、エルゥはくしゃりと泣きそうな顔をする。私はその頭を、何度も撫でた。
☆
「すみません、後片付けとか……」
「いいって、いいって! エルゥ君がやばいくらいに心配そうな顔してるし、早く帰んな」
江村さんが笑いながら、気にするなと言うように手を振って見せる。
呼んだタクシーに乗って、私は一足先に帰ることになった。
夏の炎天下なので服は一応乾いたけれど、下着が生乾きで正直とても気持ち悪い。
タクシーのシートを汚したらどうしよう……とハラハラしていると、乗り込む時にエルゥが新しいタオルを敷いてくれた。
「なにかあったら、連絡して」
そう言ってくれる井上君に「ありがとう」と返してから、私はみんなに頭をぺこりと下げる。更紗ちゃん以外のみんなは会釈を返してくれたけれど……彼女はそっぽを向いたままだった。
一年に一、二度会うか会わないかの子とはいえ、少し気まずいな……