テントとコンロを行ったり来たりしつつでお肉をたらふく食べて満足感に浸っていると、エルゥがバッグからパウンドケーキを取り出した。
 お腹はいっぱいのはずなのに、ラップに包まれたそれを見てごくりと喉が鳴る。甘いものは別腹だしね、うん。

「琴子。ケーキは食べられる?」
「食べる!」

 勢いよく答える私の頭を、菩薩のような笑顔のエルゥがよしよしと撫でる。
 ……くそぅ。手懐けたと思ったら、大間違いだからな。

「ケーキ?」
「ケーキ??」

『ケーキ』いう言葉を聞きつけた、江村さん宅の双子たちがとてとてとやって来る。
 どっちが美雨ちゃんで、どっちか咲良ちゃんなんだろう。ピンク色とレモン色のワンピースをそれぞれ着て、おそろいの二つ結びに髪を結んだ姉妹の見分けが、私にはまったくつかない。

「美雨ちゃん、咲良ちゃん。ケーキ、好き?」
「好きぃ!」
「好き!」

 エルゥの質問を聞いて双子はぴん! と元気よく手を挙げる。その微笑ましい様子に、私は頬をゆるませた。

「江村さん。この子たちアレルギーは?」

 同じくテントでくつろいでいた江村さんにエルゥが声をかける。すると江村さんからは「なんないよー。そんで私も食べる~!」とのんびりした返事が帰ってきた。

「他の皆さんは食べるのかな」

 私はみんなの姿を探して周囲を見回した。社長と美里さんは肩を寄せ合いながら木陰で談笑している。……相変わらず仲がいいご夫婦だ。
 井上君は、幸治さんとバトミントン中だ。たぶんあれは、断れなかったんだろうなぁ。ふらふらになりながらシャトルを追いかける井上君と対照的に、幸治さんははつらつとしている。幸治さんのシャトルの打ち方が上手だから、ラリーが続いてしまうのが井上君にとっては不幸だな。

 更紗ちゃんは……

 エルゥにあれだけまとわりついていた、更紗ちゃんが見当たらない。
 彼女が物をはっきりと言う江村さんが苦手のようだから、エルゥがその側にいるので寄って来ないのだろう。

「あ……」

 機嫌が悪そうな顔で、川にざぶざぶと踏み入る更紗ちゃんが目に入る。
 川は浅瀬が続いて急に深くなることが多い。その落差に足を取られて溺れてしまう人の話は、ニュースなどで時々聞く話だ。この川でも十年くらい前に、同じくバーベキューに来た女性が亡くなっている。

「危ないから、注意してきます」
「ええー。子供じゃないんだから大丈夫やろ」

 江村さんがエルゥからパウンドケーキを家族分受け取りながら、つまらなそうな顔で更紗ちゃんを見遣る。

「子供ですよ、十七なんですし」

 私はそう言いつつ、更紗ちゃんの方へ向かおうと腰を上げた。「じゃ、僕も」と言ってエルゥも一緒に立ち上がる。
 ……更紗ちゃんとは相性が悪いので、正直ちょっと助かる。
 私たちが近づくと、彼女はエルゥを見て目を輝かせ、私を見ると苦い顔をした。なんともわかりやすい子だ。

「更紗ちゃん、川に入るのは危ないから。上がった方がいいよ」

 素足で浅瀬でちゃぷちゃぷしている更紗ちゃんに話しかけると、目つり上げてさらに川の中に進もうとする。

 ……これは逆効果だったかもしれない。

 私は慌ててスニーカーを脱ぎ捨て、更紗ちゃんを追って川に入った。
 水流は想像していたよりも強く、つるつるとした小石との相乗効果は足元のバランスをあやうくする。

「琴子、危ないよ!」

 エルゥも水に入ってきたけれど……彼は心配しなくてもいいだろう。悪魔だし。
 それよりも、更紗ちゃんである。

「更紗ちゃん!」

 私は更紗ちゃんの腕を掴んで引き止めた。すると憎々しげな視線に睨みつけられ、その恐怖に呼吸が止まりそうになる。

「勝ったと思ってるんでしょ? 私を……見下さないで!」

 更紗ちゃんはそう叫ぶと……掴まれた腕を振りほどこうと振り回す。

「……あ」

 腕を振り回されたはずみで流れに足を取られ、気がつけば……私は川に転倒していた。
 人間は浅い水深でも溺れることができると聞いたことがあるけれど、まさか我が身で体感するなんて。そんなことを考える間もなく必死でもがいていると……水の膜の向こうに更紗ちゃんの楽しそうに笑う顔が見えた。

「琴子!」

 強い力で腕を引かれて、体を一気に引き上げられた。

「――っぷは!」

 耳に水が入って聴覚がはっきりとしない。自分の激しい呼吸の音だけが、内側から響いて音として届く。

「琴子、琴子!」

 温かい体が私を抱きしめる。ああ、エルゥだ。
 そんなにぎゅうぎゅう抱きしめないでよ。苦しくて内臓が出てしまいそう。
 何度も咳をして水を吐き出しているうちに、私の意識は明瞭になっていく。
 そして目に入ったのは……

 ――今にも泣き出しそうな、エルゥの顔だった。