「ね、エルゥさん。どれがいいと思いますぅ?」

 更紗とかいう子が、僕にまた腕を絡ませる。面倒だとは思うものの、この子は琴子の上司の娘らしい。あまり邪険にすると、琴子の今後に不都合が生じる可能性がある。
 僕は『面倒』というその二文字をおくびにも出さずに、笑みを浮かべながら彼女が指したものを見た。
 それは……立派な霜降りの肉だった。

 ――うわ。グラム千円の肉って。

 今日は割り勘なんでしょう? 他の人たちに悪いと思わないのかな。まだ若いから、お金の価値が身に沁みていないにしても……
 しかも二枚しか入ってないし。この人数で分けたら一瞬でなくなっちゃうよ。そもそも、分ける気もないのかな。
 僕は更紗が指した肉の隣にあった、お手頃な海外産のものを手にした。
 お手頃で量もたくさん入ってて、ちゃんと美味しそうだ。

「こっちでいいんじゃないかな? 僕は赤身が多い方が好き」
「そうなんですね! エルゥさんの好みを知れて嬉しいです!」

 大きな胸がむぎゅりと腕に押し付けられる。この子はなんともわかりやすく、僕らの『食事』に適した子だなと思う。だけど……食欲をそそられないんだよな。
 琴子のお世話をするようになってから、僕はインキュバス業を休業中だ。
 お腹は多少空くけれど、琴子との毎日のキスで補えないこともない。人間のご飯も毎日ちゃんと食べてるしね。
 以前であればこんなに食べやすい子がいたら、すぐに食べてしまったんだろうけど……
 自分でも、この変化は不思議だと思う。

「エルゥさんって本当に素敵ですよね。私、彼女になりたいなぁ」

 両親に聞こえないように小さな声で、腕にまとわりついた更紗が言う。
 僕はちらりと、彼女に目を向けた。
 更紗の胸の真ん中には、大きな欲望と慢心が渦巻いている。『綺麗になりたい』、『友達に自慢できる彼氏が欲しい』、『他のやつらを見下したい』……ここまで欲望まみれの子、久しぶりに見たな。僕のことも『付き合えたら友達に自慢できるアイテム』として見ていることが透けている。この欲を少しだけでも、琴子の空っぽな部分に分けてあげられればいいのに。
 いや……琴子にはこんな子の『欲』なんていらないか。
 琴子には自分の『欲』を琴子自身で見つけて欲しい。

「僕には、可愛いあの子がいるから」

 にこりと笑って言いながら、僕は視線で琴子を探した。すると――
 琴子が同僚の男……井上と言ったっけ……と楽しそうに話しているのが、目に入った。

 ――ああ、嫌だな。

 それを見て、そのシンプルな感情が湧く。
 琴子は僕の子猫なのに。僕が大事に育てている最中なのに。
 まとわりつく鬱陶しい腕をするりと解く。そして琴子へと向かい、その小さな背中を抱きしめた。
 小さい……温かい。日向の香りがする。僕は琴子の綺麗な黒髪に顔を埋めて、その香りを堪能した。
 この光景を見た井上が、強い衝撃を受けた顔をする。
 ……琴子のことが好きなんだね? 君のその『欲』も僕にはよく見えている。

 だけど琴子は――僕の子猫だ。

「……ずっと人間の姿でいるの、ちょっと疲れるから。精気の補給をさせて欲しい」

 嘘だ。人間の姿なんて、補給なしでも何年も保てる。
 ちょっと琴子に甘えたことを、言ってみたくなっただけ。
 悲壮な表情を作った僕の言葉を真に受けた琴子は、困惑を滲ませた表情をした。

「――屈んで」

 小さな声で琴子が言う。僕は琴子が届くだろう距離まで身を屈める。
 すると琴子は僕の肩に小さな手を添えて背伸びをすると……そっと唇を触れ合わせた。
 触れ合った唇は震え、琴子の白い肌は真っ赤に染まっている。こんなところでキスなんかさせられて、恥ずかしいよね。だけど照れている琴子は、とても可愛い。
 申し訳程度に、精気をもらう。その少しの量でも、琴子はすぐにふらふらになってしまう。
 琴子の精気は甘くて美味しい。体が『もっと欲しい』と訴えるけれど、あまり吸いすぎると彼女が倒れてしまう。
 倒れ込んできた小さな体を受け止め、優しく背中を撫でる。
 呆然としてこちらを見る井上と、憎々しげな視線を琴子に向ける更紗に……僕は琴子を抱きしめておっとりと微笑んでみせた。

『ごめんね?』という心のこもらない気持ちを、笑顔に乗せながら。