帰宅する、買ってきた酒と食材を冷蔵庫に入れる、スーツを脱ぐ。
 それが俺、井上颯人の帰宅してからの日々の変わらぬルーチンだ。
 マンションの部屋の空気は蒸し暑く熱されており、俺は眉を顰めながらクーラーをつけた。空気を震わせるような音の後に、クーラーが冷えた空気を吐き出しはじめる。俺はぺたんと床に腰を下ろして、スマホでソシャゲをしながら部屋の空気が冷えるのを待った。

 ……晩ご飯はなにを食べようかな。

 たしか冷やし中華の麺が残っていた気がする。すぐにできるし、それでいいか。
 今日も仕事は忙しかった。いわゆるブラック企業と比べてみれば、俺の仕事先なんて大したことはないのだろうが。社長も江村さんも、なんだかんだでいい人らだし。

 ――それに、嶺井さんがいるから頑張れる。

「は~。今日も嶺井さん、可愛かったなぁ……」

 俺は同い年の会社の同僚、嶺井さんの姿を思い浮かべた。
 綺麗な黒髪、大きな猫目。抜けるように白い肌。小さくて、華奢で、いい香りがする。
 ……別に自発的に嗅いだわけではない。席が近いから、いい香りが漂ってくるだけで。

「ああいう子を、守ってあげたくなるような……って言うんやろうなぁ。俺みたいなオタクにも優しいし、ほんと女神」

 もっと上手く、彼女としゃべることができればいいのに。
 中高一貫の男子校に通い、大学ではオタクグループの男たちとばかりつるんでいた俺は、女性慣れしていない。……当然、彼女もいたことがない。
 嶺井さんの様子を観察するに彼氏はいないようだし……どうにか、お近づきになれないものか。
 嶺井さんの儚げな姿を思い浮かべて集中力が切れた瞬間、ゲームをする手元が狂ってゲームオーバーになってしまった。部屋も冷えた頃合いでちょうどよかったので、俺はソシャゲを閉じて台所へと向かう。

「面倒だけど。飯、作らないとな」

 うんと一つ伸びをすると、冷蔵庫から冷やし中華の麺、きゅうり、ハム、トマト、卵を取り出す。錦糸卵なんて上等なものは作れないから、卵は茹で卵にしてしまおう。
 一人暮らしも、大学の頃を含めたら六年以上だ。日々の簡単な料理くらいは問題なくできる。
 お湯を沸かして卵を入れる。俺の好みは長めの茹で時間の、黄身までちゃんと固いものだ。きゅうりとハムを刻んで、トマトは大きめの輪切りにする。冷やし中華のタレは、スーパーで買った瓶のものがあるので作る必要はない。
 もう一つの鍋にお湯を沸かして、麺をさっと茹で上げる。水にさらして笊で水気を切ってから皿に盛り、その上からきゅうり、ハム、トマトをそれなりに見えるように盛り付けた。茹で上がった卵を輪切りにして、冷やし中華のタレをかけて完成だ。
 片手にビール、片手に冷やし中華を持って部屋に戻ると……

「よー!」

 褐色の肌に、ビキニスタイルの露出の多い服。はちきれんばかりの大きな胸。緑の髪に、赤い瞳。背中には大きな蝙蝠の羽根。そんな女が、ベッドの上に寝転んでいた。

 ……また来たのか。

 俺は大きなため息を吐いて、ローテーブルに冷やし中華とビールを置く。そして女に近づくと……その柔らかな頬を思い切り引っ張った。

「いひゃいひゃい! なにすんにゃよ!」
「二度と来るなと言ったよな?」
「らってぇえ!!」
「だって、じゃないだろ」

 頬を離すと、女――ライアは不服げな顔をする。
 そして赤く腫れた頬をさすりながら俺を睨んだ。

 ――この女は、サキュバスだ。

 男の精気をエロいことをすることで搾取し、それを糧とする悪魔。それが俺の部屋に居た。
 気はたしかかと思われそうだが、事実なんだから仕方ない。
 こいつはある夜、なにもない空間から突然現れ――

『私はサキュバスのライア! さぁ、お前の精気をよこせ』

 なんて偉そうな口調で言った。
 俺は……そんなライアをスルーして手元のカップ麺を食べた。
 こういう女は好みではないし、麺が伸びるのも嫌だったのだ。
 そして麺をすすりながらいつ通報するかと思案していると、ライアの目がカップ麺に釘付けになっていることに気づいた。その物欲しそうな視線があまりにもうるさかったので半分分けてやったら、ライアはたびたび家に来るようになったのだ。

「ばーか、へたれ、童貞!」
「うるさい。お前も処女じゃないか」

 ライアは俺が初仕事らしい。だから人間界のことにも不勉強だし、サキュバスのくせに処女だ。とっととよその家に行けばいいのにな。
 俺はドカッと音を立てて床に座る。そしてビールのプルトップを開けた。すると俺の手元に視線が刺さった。

「……今日は、なに飲んでんだ」
「ビール」
「ビール?」
「麦で作った酒」
「へー。ちょうだい!」
「やらん」

 ちびちびとビールを飲みながら冷やし中華を食べていると、物欲しげが視線が痛いくらいに刺さってくる。ちらりとライアを見ると、彼女は餌を目の前にしてよだれを垂らす犬のような顔をしていた。

「……ご飯」
「…………」
「ビール、いいなぁ」
「ああもう! 鬱陶しい!」

 俺は苛立ちを隠さない口調で言うと台所へと向かう。そして小皿とグラスを持って部屋に戻った。ライアは大人しく正座をして待っている。その様子はご飯を『待て』している犬そのものだ。

「食ったら帰れよ」

 冷やし中華を半分小皿に盛って、ビールをグラスに注ぐ。

「やったー!」

 ライアは喝采を上げると、俺が用意したフォークで冷やし中華を食べはじめた。

「美味しい! 颯人は料理上手だな!」

 翼をバサバサとはためかせながら、ライアが冷やし中華を頬張る。部屋の中で翼を広げるのはやめて欲しいんだが。圧迫感が半端ない。

「切って乗せただけだし」
「謙遜するなって! このビールというのも、なかなか美味い!」

 あぐらをかいて乱暴に冷やし中華をかきこむ目の前の女は、俺の好みの対極である。
 嶺井さんはふだん休憩室で昼食を食べるけれど、忙しい時はデスクで食事を取る時がある。近頃彼女は自分でお弁当を作ってきていて、それは見るからに美味しそうだ。
 頬を緩ませながら綺麗な所作でお弁当を食べる嶺井さんを見ていると……心の底から癒やされる。

 ……いつか、嶺井さんにお弁当を作ってもらえる関係になれればいいんだけど。

 仕事上がりに食事にでも誘えばいいのだろうか。
 美味しい焼き鳥屋ができていたけど、女の子を誘うのに焼き鳥屋ってどうなんだ。
 もっとおしゃれなところ……となると博多駅まで出ないといけないけれど、仕事上がりの疲れている彼女をわざわざ電車に乗せて連れて行くのは……
 いや、その前にOKしてもらえるかという問題がだな。

「なー、眉間に皺が寄ってるぞ。なに考えてんだ?」

 ライアに声に思考を打ち切られる。そちらに目を向けると、やつは俺のビールを遠慮なくゴクゴクと飲んでいた。
 それを見て、俺は大きなため息を吐く。
 これが嶺井さんだったらなぁ……

「恋の悩みか?」
「……うるさい」
「なんだ、図星かぁ!」

 酔っているらしいライアがけたけたと笑うと、たわわな胸がふるりと弾む。こんなにでかいものをぶら下げていて、邪魔ではないのだろうか。

 ――どうせ相談する相手もいないのだ。

 こいつも一応女だし……役に立つかは置いておいて、話してみるのもいいかもな。

「……会社に好きな子がいる。黒髪の、ちっちゃくて、清楚系の子」

 俺が素直に話しはじめたことに驚いたのか、ライアは目を丸くする。俺はそれにはかまわず、話を続けた。

「ご飯とかに誘いたいんやけど勇気が出なくて、ずるずる二年経った」
「へたれだな」
「うるさい」

 からかうように言うライアをひと睨みして、トマトを齧る。
 酸味の強い爽やかな味わいを噛みしめたあとに、俺はビールを口にした。

「誘ってみればいいじゃないか。お前、いい男なんだし」

 ライアはそう言いながら冷蔵庫に向かうと、ビールとプロセスチーズを手にして戻ってきた。人の家の冷蔵庫を我が者顔に漁りやがって。

 ……しかし、いい男?

「俺が、いい男なわけがないだろう」

 オタクで、根暗で、容姿も優れていない。給料もそう高くはない。
 客観的に考えて、いい条件の男とは思えない。

「そうか? 顔も整ってるし、こうやって飯も作れる。男にしては部屋も綺麗だ。口は悪いが物静かだし、私のようなどこの馬の骨かもわからんサキュバスにもなんだかんだで優しいだろう? ゲームばかりしていて相手をしてくれんのは、寂しいがな」

 細い指を折りながら、ライアは俺の美点らしきものを挙げていく。そんなことを言われ慣れていない俺は妙に気恥ずかしい気持ちになり、冷やし中華の残りを乱暴にかき込んだ。

「勇気を出して誘ってみればいいのだ。自信を持て」

 チーズのアルミを不器用に剥がして、ライアは一口それを食べる。そして「うむ、なかなかだな」と小さな声でつぶやいた。

「勇気を……」
「そうだ。誘ってみればなにかが変わるかもしれんぞ? あまり背伸びせず、自分が好きな店にでも連れて行けばいい」

 ライアの言葉が、すとんと綺麗に胸に落ちた。
 そうか……そうだな。
 明日の仕事の後に、嶺井さんを誘ってみよう。別に焼き鳥屋だっていいじゃないか。

「……頑張ってみる」
「おう、頑張れ。失敗しても私が慰めてやるからな」
「それは遠慮する」
「なんでだ!」

 ライアは不満げに頬を膨らませると、ぐびぐびとビールを煽る。
 よりにもよって一番高いやつを……とは思ったが。
 相談料ということで、俺はなにも言わないことにした。

 ――翌日。
 輝かんばかりに美しい嶺井さんの彼氏を見てショックを受けることを、俺は知らないのだ。