嶺井琴子、二十四歳。
 大卒で小さな印刷デザイン会社の社員になってそろそろニ年。
 日々は変わりなくつつがないけれど……私はちょっぴりお疲れだ。
 毎日毎日パソコンと向き合い、スーパーの特売チラシをデザインしたり、企業のご依頼の小冊子を作ったり、観光用ポスターの打ち合わせで他県まで行ったり。……小さな会社といっても、毎日はそれなりに忙しい。その積み重ねは、体に疲労を蓄積させる。

「社長。篠田饅頭店さんの名刺デザインできました」

 篠田饅頭店は通りを挟んで斜め向かいにある、昔ながらの和菓子屋だ。六十代のご夫婦が仲良く経営している。
 テンプレートで誰でも名刺デザイン……なんてことができる昨今だけれど、地元店舗の高齢者がそれを使いこなせることは稀だ。だからこういう細かな依頼が、ありがたいことに弊社にはよく舞い込んでくる。

「ん、ありがとう。あとはやっとくけん、帰ってよかよ」

 禿頭でまんまるな体をしている老年男性――この会社の社長の春日さんに声をかけると、彼は人のよさげな顔をにこにこと笑ませながら地元訛りの強い返事をする。
 ……まぁ、私も訛ってるんだけど。春日さんと接するようになって、さらに訛りが強くなった気がするなぁ。
 春日デザイン会社の社員は、社長、私、事務の女性社員江村さん、同い年の男性社員井上君の計四人だ。子供のお迎えがある江村さんは二時間ほど前に退勤しており、井上君は珈琲片手にまだ作業をしている。

「井上君、お先に失礼しても大丈夫かな。なにか手伝うこととかあったら、遠慮なく言って?」

 声をかけると井上君はパソコンから視線を外した。ディスプレイにはwebサイトから申込みの、チラシ用のデータが表示されている。あ、ブラウザを小さくしてソシャゲしてるな。仕事はいつもちゃんとしてるから、見逃してあげるけど。

「えーと……」

 井上君の少しつり上がった細い目が眼鏡のレンズ越しにこちらに向けられ、薄い唇がゆっくりと開く。

「こっちもあと少しだから、平気、です」

 彼は人見知りで、いつも言葉少なだ。それだけ言うと、またディスプレイに視線を戻してしまった。……井上君のこんなところにも、もう慣れちゃったな。

「そっか、よかった。じゃあ、お先に失礼します」

 軽い調子で声をかけて会社を出ると、空は綺麗な夕暮れだった。空気は夏らしく熱を帯び、湿気を伴って肌に張り付き微かな不快感を訴える。
 さて、スーパーに寄って、食材を買って帰るか。

 ……『あの男』はまた家に来てるのかな。

 私は『来るな』と言ってもやって来る男の顔を思い浮かべて、一つ息を吐いた。
 自宅アパートの近所にある小さなスーパーに寄って、玉ねぎ、人参、じゃがいも、ナス……野菜を適当に買い物カゴに放り込む。
 調味料で足りていないものはあったかな。……コンソメがなかった気がする。『あの男』は『無添加のものじゃないと体に悪い』だなんていつもうるさいから、気をつけて買わないと。
 成分表示を確認しながら、調味料もカゴに入れていく。最後に酒類のコーナーでたっぷり悩んで、ちょっと贅沢なビールを六缶カゴに追加。
 そして会計を済ませると、重いビニール袋をぶら下げて私は帰途に就いたのだった。

「おかえり! 今日は早かったね」

 アパートの薄い扉を開けると、一人の男が私を出迎えた。

 ――美形だ。いつ見てもまぶしい絶世の美形だ。

 ゆるやかなウエーブを描く腰までの艶やかな金髪、空の色の大きな瞳。物語の王子様のように整った絶世の美貌。……そして頭には山羊のような大きな角が二本。青のジャージを着ている上半身は人間のものだけれど、なにも着ていない下半身はもふもふの白い毛に包まれた山羊のものだ。ちなみにケンタウロスのように四足ではなく、二足歩行である。

「エルゥ、また来たの? そして下は履け!」
「履かなきゃダメ? 窮屈で……」
「いいから、履け!」

 男性のシンボルはもふもふに包まれて見えないけれど、下半身裸の男が部屋にいるのは落ち着かない。しかもエルゥは気分で下半身を人間のものにするから……その。考えてみたら脱いでいいわけがないな!?

「蹄でジャージ破いちゃうかも……」
「せからしか! くらすぞ! 早く履け!」

 方言もあらわに強めに怒ると、エルゥはしぶしぶという表情でボクサーパンツとジャージを履いた。毛がもふもふとしていて、非常に履き心地が悪そうだ。人間の下半身になればいいのにと思うけれど、それも微妙に窮屈らしい。
 ちなみにジャージは、通販で私が買ってやったものだ。こいつは人の世界の金銭を持ち合わせていない。

 ――この見た目でわかるとおり、エルゥは人間ではない。

 彼は『インキュバス』とかいう、女の精気……つまりはえっちな気持ちだかなんだかを、糧にして生きる悪魔だそうだ。

 今から少し前の、梅雨の蒸し暑い日の夜。私は夢でエルゥと出会った。
 その日、私は夢の中でふわふわとしたピンク色の雲に乗っていた。周囲を見回しても、一面の雲、雲、雲。空の色は淡い紫で、ピンクの星々が輝いている。
 夢の中なのに意識は明瞭で、お尻の下の雲の感触もなんだかリアルだ。こんな光景なのに、まるで現実みたいだな。それにしても……

「なんこれ。ファンシーな夢……」

 ピンクの流れ星を眺めながら、私はぽつりとつぶやいた。女児向けのキャラクターにでもなった気分。

「可愛いでしょう? 雰囲気作りも大事だと思って」

 ――透明感のある声が耳に届いた。そちらに目を向けると、ふわふわの雲の上を絶世の美形が歩いてくる。その豪奢な姿に私はつい見惚れてしまった。
 男の造形が人のものではないことも、夢の中だということであれば納得できる。

「雰囲気作りって、なんの?」
「ん……こういうことの」

 金髪をさらりとなびかせ、浮世離れした美貌に穏やかな笑みを浮かべ。
 男は私にキスをしようとして……

「うわ。この子、精気も体力も枯れっ枯れだ」

 眉間に皺を寄せて、小さな声でそう言ったのだった。