椎名君が結婚をする。
グループトークの画面にぽんっと浮かんだメッセージ。
会話はその後も続いていって「あいつもついにか」とか「マジか~嫁さんどんな子だろ」とか「誰か知っている?」とか参加者たちの言葉が湧き水のようにこぽこぽと浮いて出てくる。
わたしはというと。おめでとうと言う前に足元にぴしりとヒビが入ったのを感じた。薄い氷の上にいつの間にか立っていたような感覚。もしくは、心臓に矢が突き刺さったみたいな。わたしは胸を押さえて短い呼吸を繰り返す。
椎名君が結婚をする。
あの、彼が。人当たりがよくて誰に対しても気さくな椎名君が。
ずっと隣の位置をキープしていたわたしじゃなくて、誰とも知れぬ女のものになってしまう。
わたしと椎名悟君の出会いは大学入学時。あり大抵に言えば大学同学部。三年生からは同じゼミに所属をしていた。
中学高校とずっと勉強ばかりなわたしは上から数えた方が早いランクの私大に合格をして、けれど勉強しかしていなかった人生だったから急に蛹から蝶々に孵化できるわけでもなく、同級生の中でも地味なほうだった。
大学にはいろんな人がいた。わたしのようながり勉タイプに見えない、普通に高校生活を過ごしてきてこの大学に入りました、なんて思わせるようなスマートな人。その最たる例が椎名君だった。
椎名君は同級生の誰よりもきらきらしていた。春、芽吹いたばかりの緑色。水面に踊る陽の光のように。整った顔立ちをしているのに奢ったところが無くてわたしみたいな取り柄のない女にも等しい態度で接してくれた。初心なわたしが彼に落ちてしまったのも必然だった。
だって、彼の周りだけが光って見えたのだ。目の錯覚ではない。こんなこと、本当にあるんだ、とわたしはあのとき何度も瞬いた。
「椎名君てマジにかっこいいよね~」「いいなあ。彼女。羨ましい」などと同級生の女子たちは目をとろんとさせていた。見目麗しく気さくで話しやすい椎名君にわたしが恋に落ちるのも時間の問題、いや必然だった。
こんな好青年現実にいるんだ、だなんて思った。好きな人とどうにかして接点を持ちたい。幸いにしてこつこつと真面目に勉強することが嫌いじゃないわたしは学部内でも上位の成績をキープしていて、彼の友人にレポートや宿題やらで泣きつかれることがあった。
「嫌だったらはっきり断った方がいいよ」なんて、椎名君に優しい言葉を掛けてもらうくらいには頼りにされていた。椎名君のグループのメンバーの都合のいい存在になることによって、わたしのことも飲み会に誘ってくれるようになったりしたから、十分にリターンは得ていた。おとなしいわたしのことを椎名君は時々気にかけてくれたから。
椎名君に彼女ができたときはショックじゃないといえば嘘だった。告白の仕方なんて習わなかった。それに、友達でいれば椎名君の側にいることができる。彼の良き理解者であれば、いつか彼もわたしの存在に気が付いてくれる。わたしはじっと耐えることを選んだ。
卒業後、わたしはそれなりの規模の家電メーカーに就職をした。自分からぐいぐい何かを引っ張るというタイプでもないわたしは総合職ではなく限定職に就いた。新しい環境、同期、先輩。いくつかの出会いはあったが、わたしの中では相変わらず椎名君が一番だった。
自分から彼に連絡を取る勇気もないくせに、大学の仲の良いグループが飲み会を開くとなると率先して参加をし続けた。出席率でいえば皆勤賞ものだったと思う。時折男性だけで飲むこともあって、そういう話を後から聞くと内心ムッとした。社会人になって途端に会う頻度が減っていってわたしは焦っていた。
椎名君の就職先は総合商社。それに椎名君のあの顔だ。絶対に周りが放っておかない。きっと女性社員たちが群がっているんだろうな、と思うのにいざメッセージ画面を立ち上げると、指が石になったかのように動かない。いつも少なくない人数で遊んでいるから、二人きりで会うという口実が見つからない。スマートフォンを見つめて、ため息を吐く日が続いた。せめて勤務地が近ければよかった。もやもやとした想いを抱えたまま時間だけが過ぎていった。
社会人になって三年が過ぎた頃。
同ゼミ内で付き合っていたカップルが結婚することになった。
披露宴とは別に二次会を行うことになって、椎名君が幹事役を買って出た。SNSでそれを知ったわたしはなけなしの勇気を振り絞って手伝いを買って出た。もちろん、手を上げたのはわたし以外にもいたけれど。
彼の人気は健在で、同じグループの中で椎名君にほのかな想いを抱いている女子は少なからずいたからだ。わたしとしては、一緒に過ごせる口実があるだけで十分だった。
二次会の幹事は場合によっては面倒らしいが、わたしは何の苦もなかった。相談と称して椎名君に連絡ができるから。グループトークのほかに、思い切って彼と二人きりでのトーク画面を作ったのもこのときだった。
二次会のゲームの景品を買いに行ったあと、幹事役らの足は居酒屋に引き寄せられた。結婚話を肴にお酒も進んで行く。話題は必然的に結婚や恋愛の話になっていった。
「そういえば椎名君て結婚願望ある方?」
メンバーの一人がそう切り出した。茶色の髪の毛を緩く巻いた彼女もまた椎名君のことを憎からず思ってることをわたしは知っている。
「うーんどうだろう。まだ仕事を覚えることで手がいっぱいかな」
椎名君は本気でそう思っているみたいで、からりと笑っていた。
「とか言っているけど、単に振られたばかりだからだろ」
と、椎名君を軽く小突いたのは彼と仲の良い男友達の内の一人。
わたしは初めて知った事実に一瞬頭の奥が痛くなった。そっか。彼女、いたんだ。そりゃそうだよね。かっこいいもんね。それに椎名君も優しいし。ああでもよかった。彼女とは駄目だったんだ。わたしの中に女の嫌な部分が湧いて出る。
「うわ。それ今言うか? せっかく人が格好良く決めたのに」
「おまえついこの間まで落ち込んでいたじゃん。重いって何が……って。俺のどこかが重いのかがわからないって」
モテる椎名君だが、付き合った女性とはあまり長続くことはあまりなかった。学生時代も同じ言葉で彼は悩んでいた。曰く、重いっていうのが分からないと。どうやら彼の愛情表現は少し過剰らしい。わたしは別に束縛されても、椎名君なら一向に構わないんだけど。心の中ではそう断言できるのに、お酒が入っている今時分でも口に出す勇気はなかった。
隣に座る友人は、髪の毛の一房を指でくるくるともてあそびながら、椎名君の様子を伺っている。
「メールの量が多いとか、所在確認がうざいとか。心配したらいけないのか? それとも毎月記念日を祝うのがいけないのか?」
「あー、うーん。俺からしても面倒だわ。それ」
「そうか……」
グループトークの画面にぽんっと浮かんだメッセージ。
会話はその後も続いていって「あいつもついにか」とか「マジか~嫁さんどんな子だろ」とか「誰か知っている?」とか参加者たちの言葉が湧き水のようにこぽこぽと浮いて出てくる。
わたしはというと。おめでとうと言う前に足元にぴしりとヒビが入ったのを感じた。薄い氷の上にいつの間にか立っていたような感覚。もしくは、心臓に矢が突き刺さったみたいな。わたしは胸を押さえて短い呼吸を繰り返す。
椎名君が結婚をする。
あの、彼が。人当たりがよくて誰に対しても気さくな椎名君が。
ずっと隣の位置をキープしていたわたしじゃなくて、誰とも知れぬ女のものになってしまう。
わたしと椎名悟君の出会いは大学入学時。あり大抵に言えば大学同学部。三年生からは同じゼミに所属をしていた。
中学高校とずっと勉強ばかりなわたしは上から数えた方が早いランクの私大に合格をして、けれど勉強しかしていなかった人生だったから急に蛹から蝶々に孵化できるわけでもなく、同級生の中でも地味なほうだった。
大学にはいろんな人がいた。わたしのようながり勉タイプに見えない、普通に高校生活を過ごしてきてこの大学に入りました、なんて思わせるようなスマートな人。その最たる例が椎名君だった。
椎名君は同級生の誰よりもきらきらしていた。春、芽吹いたばかりの緑色。水面に踊る陽の光のように。整った顔立ちをしているのに奢ったところが無くてわたしみたいな取り柄のない女にも等しい態度で接してくれた。初心なわたしが彼に落ちてしまったのも必然だった。
だって、彼の周りだけが光って見えたのだ。目の錯覚ではない。こんなこと、本当にあるんだ、とわたしはあのとき何度も瞬いた。
「椎名君てマジにかっこいいよね~」「いいなあ。彼女。羨ましい」などと同級生の女子たちは目をとろんとさせていた。見目麗しく気さくで話しやすい椎名君にわたしが恋に落ちるのも時間の問題、いや必然だった。
こんな好青年現実にいるんだ、だなんて思った。好きな人とどうにかして接点を持ちたい。幸いにしてこつこつと真面目に勉強することが嫌いじゃないわたしは学部内でも上位の成績をキープしていて、彼の友人にレポートや宿題やらで泣きつかれることがあった。
「嫌だったらはっきり断った方がいいよ」なんて、椎名君に優しい言葉を掛けてもらうくらいには頼りにされていた。椎名君のグループのメンバーの都合のいい存在になることによって、わたしのことも飲み会に誘ってくれるようになったりしたから、十分にリターンは得ていた。おとなしいわたしのことを椎名君は時々気にかけてくれたから。
椎名君に彼女ができたときはショックじゃないといえば嘘だった。告白の仕方なんて習わなかった。それに、友達でいれば椎名君の側にいることができる。彼の良き理解者であれば、いつか彼もわたしの存在に気が付いてくれる。わたしはじっと耐えることを選んだ。
卒業後、わたしはそれなりの規模の家電メーカーに就職をした。自分からぐいぐい何かを引っ張るというタイプでもないわたしは総合職ではなく限定職に就いた。新しい環境、同期、先輩。いくつかの出会いはあったが、わたしの中では相変わらず椎名君が一番だった。
自分から彼に連絡を取る勇気もないくせに、大学の仲の良いグループが飲み会を開くとなると率先して参加をし続けた。出席率でいえば皆勤賞ものだったと思う。時折男性だけで飲むこともあって、そういう話を後から聞くと内心ムッとした。社会人になって途端に会う頻度が減っていってわたしは焦っていた。
椎名君の就職先は総合商社。それに椎名君のあの顔だ。絶対に周りが放っておかない。きっと女性社員たちが群がっているんだろうな、と思うのにいざメッセージ画面を立ち上げると、指が石になったかのように動かない。いつも少なくない人数で遊んでいるから、二人きりで会うという口実が見つからない。スマートフォンを見つめて、ため息を吐く日が続いた。せめて勤務地が近ければよかった。もやもやとした想いを抱えたまま時間だけが過ぎていった。
社会人になって三年が過ぎた頃。
同ゼミ内で付き合っていたカップルが結婚することになった。
披露宴とは別に二次会を行うことになって、椎名君が幹事役を買って出た。SNSでそれを知ったわたしはなけなしの勇気を振り絞って手伝いを買って出た。もちろん、手を上げたのはわたし以外にもいたけれど。
彼の人気は健在で、同じグループの中で椎名君にほのかな想いを抱いている女子は少なからずいたからだ。わたしとしては、一緒に過ごせる口実があるだけで十分だった。
二次会の幹事は場合によっては面倒らしいが、わたしは何の苦もなかった。相談と称して椎名君に連絡ができるから。グループトークのほかに、思い切って彼と二人きりでのトーク画面を作ったのもこのときだった。
二次会のゲームの景品を買いに行ったあと、幹事役らの足は居酒屋に引き寄せられた。結婚話を肴にお酒も進んで行く。話題は必然的に結婚や恋愛の話になっていった。
「そういえば椎名君て結婚願望ある方?」
メンバーの一人がそう切り出した。茶色の髪の毛を緩く巻いた彼女もまた椎名君のことを憎からず思ってることをわたしは知っている。
「うーんどうだろう。まだ仕事を覚えることで手がいっぱいかな」
椎名君は本気でそう思っているみたいで、からりと笑っていた。
「とか言っているけど、単に振られたばかりだからだろ」
と、椎名君を軽く小突いたのは彼と仲の良い男友達の内の一人。
わたしは初めて知った事実に一瞬頭の奥が痛くなった。そっか。彼女、いたんだ。そりゃそうだよね。かっこいいもんね。それに椎名君も優しいし。ああでもよかった。彼女とは駄目だったんだ。わたしの中に女の嫌な部分が湧いて出る。
「うわ。それ今言うか? せっかく人が格好良く決めたのに」
「おまえついこの間まで落ち込んでいたじゃん。重いって何が……って。俺のどこかが重いのかがわからないって」
モテる椎名君だが、付き合った女性とはあまり長続くことはあまりなかった。学生時代も同じ言葉で彼は悩んでいた。曰く、重いっていうのが分からないと。どうやら彼の愛情表現は少し過剰らしい。わたしは別に束縛されても、椎名君なら一向に構わないんだけど。心の中ではそう断言できるのに、お酒が入っている今時分でも口に出す勇気はなかった。
隣に座る友人は、髪の毛の一房を指でくるくるともてあそびながら、椎名君の様子を伺っている。
「メールの量が多いとか、所在確認がうざいとか。心配したらいけないのか? それとも毎月記念日を祝うのがいけないのか?」
「あー、うーん。俺からしても面倒だわ。それ」
「そうか……」