演奏が終わり、僕は彼女のもとへ駆け寄る。
「ありがとう、最後まで聴いてくれて」
「ううん。とっても素敵な曲だった。梨歩の思いを形にしてくれて、こちらこそありがとう」
「これじゃ誰のためのプレゼントかわからなくなったかな」
「そんなことないわ。ずっと梨歩の夢を隣りで見てきたから。少しずつ現実味が増していっているようで私も嬉しい」
「それならよかった。実はこれを君に一番に見せたくてね。スケジュール的には超ゲリラだったけど。フェスまでに何とか間に合いそうでやれやれだよ」
僕はハープをハードケースに戻した。
「それ、すごくきれいなハープね」
「ああ。これはエレキハープだよ」
「エレキ、ハープ?」
「そう。これは僕が15歳の時に、母方の祖父母がプレゼントしてくれたものでね。すごく気に入ってるんだ」
僕は10歳の頃から母さんにハープを教わっていた。初めはエリサと一緒にピアノを習っていたのだが、ハープとの相性が良かったのか、こちらの方が飲み込みが良くてすぐに上達した。
「綺麗……初めて見たわ」
「こんな代物なかなか持ってる人いないからね。俺も初めて見たときはびっくりだったよ」
帰り支度をするアサ君がすれ違いざまに言った。
「あ、アサ君。今日は来てくれてありがとう」
「ああ。明日はテストがあるからお先」
「あ、ありがとうございました。アサトさん、ベースだけじゃなくてヴァイオリンまで弾けるなんて……すごい、ですね」
アサ君は弦楽器のプロだ。特にヴァイオリンの腕は、国際大会で何度も入賞する腕前。実際に音大でもヴァイオリンを専攻しているし、ソロでも十分活躍できるくらいの実力を兼ね備えている。だからこそ、本当に尊敬に値する僕たちの兄貴分だ。
「俺はこっちが本業だからな。続きはエディにちゃんと祝ってもらえよ」
アサ君は「はぴば」と小さく呟くと、そのままスタジオを後にした。
「若葉ちゃん」
「え?」
「改めて誕生日、おめでとう」
「あ、ありがとう」
「……」
僕はスタジオの中をちらっと見、彼女の腕を引いて音響機材の置かれたテーブル下に屈んだ。
「え、エディさん……」
「ちょっと失礼」
僕は彼女を抱き寄せる。
「――ッ」
両手で彼女の頬を包み込むと、少し強張った――柔らかな唇から、時折甘い吐息が僕の中に流れてくる。
「若葉ちゃん……」
「エディ、さん……」
一度箍が外れてしまうと、僕はどうにも自制が利かない性分らしい。
もっと、もっと欲しくなる。
それでも、まだ足りない。
もっと、もっと。
彼女を感じていたい。
「好きだよ」
「私も……好き」
甘いひと時。
束の間だったが、これ以上は危険だ。
少々場所が悪かった。
「今夜、一緒に過ごさない?」
「……うん」
☆
スタジオを出てから、僕は彼女を連れて芹山駅近くのスカイホテルへ向かった。
「あ、ここって……展望レストランの」
バースデーディナー。
学生の身分で来るのは、少々生意気だろうか。今になって「これで本当によかったのだろうか」とか、「スベったらどうしよう」とか。そんな不安が過ってくる。
僕自身も場馴れしていないせいか、もっとカジュアルな雰囲気の店の方がよかっただろうかと内心思った。でも、もう遅い。
「そう、何か気合い入っちゃってさ。実は今日の音合わせより、寧ろこっちが本番だったっていうね」
彼女ならきっとどんな場所でも喜んでくれる。そんな安心感があったからだろう。僕が僕でいられるのは、彼女が優しいから。それに違いはなかった。
「え、そうなの? ありがとう。こんなふうにしてもらったの初めてだから、嬉しいわ」
ああ、やっぱり連れてきてよかった。そういう気持ちにさせてくれる彼女だからこそ、大切にしたいと思える。彼女の前で格好つけたい男の性というか、たとえ彼女に自覚はなくとも理解してくれているのだろうという安心感が、先程の不安を払拭してくれる。
展望レストラン直通のエレベーターの中には僕と彼女の二人きり。ガラス張りの壁面からは見渡す限りの夜景が広がっている。
地上何メートルといった表示が、ガラス越しに反転して映って見えた。上昇するスピードが思いの外速くて、腰が抜けそうになる僕。
(うわ、結構高いな……)
わかっちゃいたけど、あまりの高さにクラクラしてきた。
実は、僕は高所恐怖症だったりする。
でも、若葉ちゃんのためなら何のその。
そういえば、彼女は平気なのだろうか。
さっきから扉の方を向いている。
「若葉ちゃん?」
「……」
「大丈夫? まさかだけど……」
嫌な予感。
「ごめん、なさい……」
「いや、僕の方こそ……何かごめん」
とんだ盲点だった。
「あ、でも……怖いのは外の景色が見えるからで。普段乗ってるエレベーターは平気だから。そう、着いちゃえば大丈夫なの」
「あ、それわかる。ていうか、実は僕も高いとこ苦手でさ」
「え! じゃあどうして展望レストランを?」
「うーん、だって夜景見ながらディナーなんて最高のシチュエーションじゃない?」
「そ、それはそうだけど……」
そのシチュエーションにこだわっていたら、そこにたどり着くまでのプロセスを完全に見落としてしまったという間抜けさ。
「まあ、とりあえずついたからディナー楽しもう」
ふかふかの絨毯を踏みしめ、僕は若葉ちゃんの手を取り案内された席へ向かう。
夜景のよく見える、窓際の席だ。
「夜景が綺麗ね」
「うん。さっきはそれどころじゃなかったしね」
高所恐怖症の二人が、揃いも揃って展望レストランでディナーを楽しむ。
「遠目に見てれば平気だよ」
「足元が透けて見えるようだったら、私無理だったかも」
「ああ、それは僕も無理だわ」
まだまだ知らないお互いのこと。
彼女を知るたびに、ますます惹かれていく。
恋がいつか愛になって……そんな漠然とした未来しか描けずにいたけれど。
恋をするだけで、些細な一瞬がこんなにも色づいて見える世界に変わることを知った。
もし、彼女が僕にとっての運命の相手であってもなくても、今この瞬間、時間を共有できる幸せを噛みしめていたい。
もし、これから何年、何十年かけてもっとお互いを知っていくことができるパートナーになれるなら。
ありのままの僕でいこう。
そして、ありのままの彼女を受け容れよう。
「誕生日、おめでとう」
「ありがとう」
シャンパングラスを交わす。
中身はブドウジュースだけど。
「来年は、お酒デビューかな」
「そうね。でも、私飲めないかも」
「え、何で?」
「ママ、すごく弱いの。すぐ酔っ払って絡み酒してくるから、私もそうならないかって怖くて」
「へえ、面白そうだから飲もうよ」
「やだ、絶対嫌」
「何なら泊まりでさ。そうすれば朝まで一緒にいられるし」
「は? い?」
「ーーああ、来年の話ね。泊まるのは」
「あ……そ、そうよね。びっくりした」
動揺する彼女が可愛くて、つい意地の悪いことを言ってしまう。
「僕は構わないよ、いつ泊まりになっても」
「と、泊まりは……」
「あ、そうだ。僕、卒業したら一人暮らししようと思ってて」
「え、一人暮らし?」
「うん。そうすれば、若葉ちゃんいつでも気兼ねなく泊まりに来れるじゃん」
「だ、だから何で泊まり前提なの?」
「だって、楽しそうじゃない? 実家にいると家族の目とかあるしさ」
「うーん、まあ確かにそうかも」
実家だと絶対邪魔が入るしな。エリサとかエリサとかエリサとか。
「それか、いっそのこと一緒に住んじゃう?」
「え! それはちょっと……」
「まぁまぁ。それはそのうちでいいから」
まずは部屋探しからだ。なるべく防音きく部屋にしないとな。色んな意味で。
前菜とスープが運ばれてきた。
「わあ、綺麗」
「本当だ。この花は、食べるのもったいないね」
「そうね。このまま鑑賞していたいくらい」
身も蓋もない事を言ってしまったとやや後悔したが、彼女はうまい具合にスルーしてくれた。本音はどうだか知らないが。
普段では味わうことのできない料理の数々を堪能する僕と彼女。特別な日には特別なことをする。こうやって少しずつ背伸びをしながら、僕達は今よりもっと大人になっていくのだろうか。
「このスープ、すごくかわいい」
ピンクの小さな薔薇の花弁を浮かべたビスク。オマール海老のだしが効いてて、コクと旨味が存分に味わえる。シンプルだけど、とても深みのある一品だ。
「うん、見た目はもちろんだけど……僕、この味好きだな。メインにも引けを取らないくらいの存在感があるのに、主張しすぎずスープという立場を弁えているような謙虚さも感じる味で……」
「ふふっ」
「え?」
急に彼女が噴き出すように笑って言った。
「ごめんなさい、エディさんの表現が何か独特で面白くて」
「え、独特?」
笑わせるつもりは一切なかったのだが。
「何ていうか……この料理一つ一つに対しても、人にたとえた見方をしているのかなと思って」
これは、スベっていると捉えるべきだろうか。