「相談したいことがあってさ」
「相談したいこと」
 腕を組みながら、いつも以上に真剣な表情。眉間に少し皺を寄せて、己の中にある考えや悩みを思い浮かべている人間の顔だ。
「申し訳ないことに、連帯保証人にはなれませんが……」
「違うよ。俺を何だと思っているんだ」
 片眉を吊り上げて、鋭い眼光で俺を睨んできた。軽いジョークだったのに。
 軽く謝ってから、改まってどうかしたんですか、と問えば、杏哉くんは読書に集中している苺音ちゃんの方へその真剣な表情のまま顔を向けた。
「もう少しで誕生日なんだよ」
「……誰が?」
「苺音が」
 それは大変重要な問題だ。俺もつられて真剣な表情になってしまうのだった。
「それで、いつなんです」
「……来週の日曜日」
「言うのが遅い!」
 突然テーブルを叩きながらの俺の大きな声に、本の世界にのめり込んでいた苺音ちゃんが、びくりと大きく肩を跳ねらせて、勢いよく首をこちらに向けてきた。くりっとした大きな瞳をこれでもかと開いていて、しぱしぱと何度も瞬きをする。少しビクビクしている様子は、大きな音に驚いた猫のように見えた。ぼわっと広がった尻尾と、ぴんと立てられた猫耳が見えたような気がする。
「苺音ちゃんごめんなさい。驚かせました」
「いえ、大丈夫です」
 平然を装いたかったのだろうか。いつものすまし顔になって、首と手を小さく左右に振る。尻尾と耳は未だに隠せていないように見える。本当にごめんね、と再度謝ってから、改めて杏哉くんと向き合う。
 苺音ちゃんがちらりちらりと此方を覗いているのが、見ないでもわかる。視線だけで分かる。
「だから、その」
「うん」
「予定をあけておいてほしいんだ」
「当然です」

 *

 それなら良い店があるな。そう提案をしたのは弥生さんだった。
 どこにあるんだ、と問うた時に、答えが「小さな森の中」と笑顔で返された時点で、普通ではないと察せれば良かったのだ。
「お前より前にこの世界にやって来て、この世界の他の住民からも最近人気がある」
「へえ、そんなに立派なんだ」
「建屋は大きくはない。けど、住民曰く優しい味がするそうだ。ていうか、そこしか多分ケーキ屋は無い」
 ここに来るまでの弥生さんとの会話を思い出した。そもそも、この世界には住民はいるとしても多くは無いのだろう。管理人さん曰く、他にも似たような世界はあるらしいし。更にお店をやっている、となればさらに稀になるわけだ。
 杏哉くんと苺音ちゃんが来た時によくお世話になっている喫茶店の人、いつもありがとうございます。

 まるで入り口のようにそびえ立つ木々のトンネルをくぐれば、一気に緑のにおいが充満する。家の周りでは、まず嗅ぎ慣れないにおいだ。
 土と、葉っぱと、木のにおい。地面を踏みしめる度に、においが零れ出てくるような気分がした。
 変わるのはにおいだけじゃない。電灯の明るさを変えられたかのように、一気に周囲が暗くなる。真っ暗と言う訳ではないが、森の外との差に目が少し驚いたような気分がする。
 温度も、少し下がったように思う。日の光が遮断され、当然地面からの反射光も多くない。街中のように、温度を上げるような、室外機や車なども無い。
「……雰囲気が、ありますね」
「なに、ビビってんの」
「そんなことはない!」
 小馬鹿にされたような言葉に、思わず口を尖らせつつ、森に入ってすぐに止めてしまった足を、再度動かす。
 森に入るとね、道を教えてくれると思うよ。
 それが、弥生さんから貰ったアドバイスである。
 奇妙に非現実的な日の光に照らされた道を辿って雑木林の中に入り、あてもなく歩を運んだ。そんな日の光の下では、いろんな物音が不思議な響き方をする。水の中を、歩いているかのような。人の気配の無いこの森の中は、まるで深海にいるような気分がした。
 だけど、兎に角静かだった。葉を揺らす風も俺達の息づかいも、森を形づくる何百年ぶんもの年輪に吸いこまれていくみたいだ。

「……あ、あれじゃね?」
 暫く歩くと、周りを木に囲まれた空間に出た。陽の光に照らされて、木々に囲まれた間に、ぽっかりと天に向かって開いたような場所だった。どこか歓迎されているような、待ち焦がれられているような。
 そのなかに、ログハウスというジャンルに入るであろう、一軒の木造建ての家が建っている。白雪姫の小人の家、と表現すればいいのか、それとも迷い込んだヘンデルとグレーテルと表現すればいいのか。お菓子の家ではないけれど。
 建物を指し示した杏哉くんが物珍しげに眺めている辺りから、一般的な光景ではないのだろう。苺音ちゃんも周りを物珍しそうにきょろきょろと見渡している。
 家の前までやって来ると、気持ちがしんと落ち着いてきて、穏やかな平和な気分に満たされる。何かとても大事な、温かな、ふわふわとしたものが、このあたりに隠されているような気がした。鳥の胸毛を織り込んで編まれた、居心地のいい小さな巣のような。
「入ってみようか」
 曇り硝子が埋め込まれている木造の扉を引いた。
 ――ちりん。
 引き戸を流せば高く澄んだ音がして、鈴の音を聞いてから、こんにちはと挨拶。
 ふわりと温かい空気が体を包み込み、とろりとした眠気が店内に充ちている。店の中には、小さな煌めきが無数に転がっていた。
 甘くて香ばしい、夢の詰まった香りに満ちている。ショーケースの中には可愛らしい自家製ケーキやチョコレートや焼き菓子たちが、お行儀良く並べられていた。
 天井から下げられているのは、星形のきらきらと瞬く洋灯で、店内を明るくも不思議に幻想的にもライトアップさせていた。
「いらっしゃいませ!」
 元気な声が響いた。幼い子供の声だったと思う。
 きょろきょろと見渡していたが、声のした方へ惹かれるように全員で一斉に顔を向けた。
 想像していた通りに、そこに居たのは一人の少年だった。見た限り、苺音ちゃんと同年代か、幾分か年上くらいのように見える。
 ツンツンと短く切りそろえられた黒髪。少しだけつり上がってはいるけれど、真っ直ぐな瞳には光が宿っているようにも見えた。軽い生地のパーカーとTシャツ、膝丈の短パン。明るい雰囲気も相まって、スポーツ少年のように見えた。だけれど、それと反比例するように身にまとっているのはエプロン。黒地に竜がプリントされている。
「見覚えがあるエプロンだ……」
「杏哉くんも持ってました?」
「いや、誰もが通る道だろ。家庭科の授業で作るエプロンだよ」
 少しだけ眉を寄せて、あまり見たくないと言わんばかりの表情を浮かべているが、目の前の少年には関係の無い話。むしろ、杏哉くんが微妙な表情をしているのを疑問にすら思っていそうだ。
「君はお手伝い?」
「うん。兄ちゃんと一緒にお店やってるんだ」
「へえ」
「おれがアイディアを出して、兄ちゃんが作って、おれも作る時手伝いはするぞ! そしておれが売る! ケーキ屋さんが夢だったからな!」
 ふふん、と胸を張って言う男の子。俺はと言えば仕事をしないで家にずっといるというのに、偉いなあ。ちょっと自分が情けなくもなりつつ、偉いですねえと褒めてみれば、彼はさらに誇らしげに胸を張って腰を後ろに逸らした。
 そんな俺達を気にせずに、苺音ちゃんは目をキラキラと輝かせながら、ショーケース越しに見えるものを熱心に見つめていた。
 普段は大人びて見える彼女でも、こうしてみると年相応の幼い女の子だ。
 まるで宝石のようにきらきらと輝いているいちごのタルトや、ふわふわな真っ白なクリームに包まれているショートケーキ。つやつやに磨き上げられたようなチョコレートタルト。それら一つ一つが主役級であり、華があり、見るのも鮮やかだ。
「……来週のケーキの予約の前に、どれか買っていきます?」
 俺の提案を聞いて、ぐいんっと勢いよく苺音ちゃんが俺の方を向いた。どう? と問いかければ、彼女はこれまた勢いよく首を縦に振る。正直で宜しい。
「ねえ君。この店はバースデーケーキの予約は大丈夫?」
「大丈夫だぜ! 3日前には言ってくれれば」
「そう、それは良かった。丁度来週の……」
 ショーケース越しに男の子と杏哉くんが会話している横で、少ししゃがみ込んで、苺音ちゃんと隣り合って一緒にケーキを眺める。
「誕生日ケーキはどういうのがいい?」
「えっと、えっと……」
「慌てないでいいよ。自分の食べたいモノをお願いしよう?」
 どれもおいしそうだもんねえ。なんて言ってみれば、彼女がジッととある一点を見つめていることに気付く。その視線の先を追ってみれば、つやつやと一粒一粒が鮮やかに主張をしている苺タルトだった。
「苺がいっぱいなのがいい?」
「っ! はい!」
 彼女はパッと華やいだ表情をして、こくりと首を縦に振った。ふむ、成程、苺が好き。そういえば、この間のパンケーキでも、飾り程度に乗っていた苺だけは残さずに食べていたのを思い出した。
「それじゃあ誕生日はこれにしよう。杏哉くん、苺のタルトが良いみたいです」
「やっぱりね。じゃあ、苺のタルト、1ホールで……3人分だからあまり大きくなくて良いかな」
 二人の会話を聞きながらも、男の子のしっかりとした対応には惚れ惚れとする。
「来週誕生日なのか?」
「そう、うちの子がね」
 杏哉くんが苺音ちゃんに声を掛ければ、彼女は曲げていた膝を伸ばし、男の子の居る方へ顔を向けた。
 男の子は彼女と目が合うと、びっくりしたように目を開き、そのまま顔を真っ赤にさせた。
 ん?
 どうかしたのか、と思えば、彼は少しだけ視線を泳がせて、顔を少し伏せ、頬を少しだけ赤く染めて、手先をもじもじといじり出す。そんな彼の動作に、見覚えがあった。
 隣に居る少女が脳裏に過って、これは言葉を遮らない方が良いだろうと悟って、そっと隣から離れた。二人が向き合うようにしてみれば、彼は顔を真っ赤にさせながら、苺音ちゃんの顔を見るために、ガバッと伏せていた顔を勢い良く上げた。
「来週も、来てくれるか!?」
「……おっと」
 これはこれは、面白いことになったものだ。思わずにやけそうになるのを隠すために、口元に手を添えた。
 顔を真っ赤にして、拳を握って緊張を誤魔化しているその様は、彼がとある感情を抱えているのを丸分かりにさせている。ちらりと杏哉くんを見れば、驚きながらも少しだけ血の気が引いたような、簡単に言えばショックも受けているような、そんな表情をして口元に手を添えていた。
 案外分かりやすい人だ。口元が更ににやけてしまったのは不可抗力というやつだろう。
 他人の恋事情程、見ていて面白いものはない。
 とんとん、と肘で軽く彼の脇腹をつつく。そこで漸く意識を取り戻したようだ。父親という立場は大変だな。
「来ます、けど」
「そっか、そっか……!」
 男の子は心底安堵したような表情をして溜息を吐く。甘酸っぱい。食べてないはずなのに、口の中に苺の甘みと酸味がいっぱいに広がっていくような気分がした。
 隣の彼は、パセリかパクチーでもそのまま食べたような表情をしているが。
「あ、えっと、おれ、日向(ひなた)! きみは?」
「……苺音です」
 名前を聞かれた苺音ちゃんは、少しだけ彼から距離を取る様にして、俺の傍に少しだけ近寄ってきた。彼女は少しだけ人見知りな一面もある。興味のあるもの、好意の物にはぐいぐいといくが、逆に寄られることにはあまり得意ではないのだろう。日向くんの真っ直ぐで純粋な好意は、彼女には少し眩しいのかもしれない。
 こうして考える限り、苺音ちゃんは年頃の女の子よりも大人びて見える。彼女と同世代の女の子と接する機会は大して無かったから、正解というものはハッキリと分からないのだけれど。
「おれも頑張って作るから! だから、楽しみにしててよ!」
「分かりました」
 男の子の真っ赤な顔を見ても全く動じず、苺音ちゃんはこくりと首を縦に振った。
 男の子は、ヤッタ! と拳を小さく握ってガッツポーズをしている。
 幼くても、男の子は男の子なんだなあ。可愛い女の子を目の前にすれば、こうして必死に頑張ろうって思えるんだな。
 がんばれ、と心の中で小さくエールを送った。

「今日の分はどれが良い?」
 苺音ちゃんの背丈と合わせるようにしゃがみ込み、ショーケースを眺めながら問えば、彼女はハッと俺の方に顔を向けて、ええと……と必死に悩み始める。
 きらきらと一つ一つが輝いていて、沢山並んでいる。私を選んで、と主張してくるようで、どれもが美味しそうで美しく見える。この中から経った一つを選ぶ、というのは、彼女にとっては勉強よりも難しいのかもしれない。
「どれで悩んでる?」
「……いちごも良いけど、チョコも、ブルーベリーもすてがたい」
 ショートケーキ、チョコレートタルト、ブルーベリーのチーズケーキ。それぞれを指さしながら、彼女はそれはもう真剣な表情と声で口にする。
「……よし、それじゃあその3つにしよう」
「え?」
「それで、3人でちょっとずつ食べよう」
 シェアをすれば楽しさも倍増するだろう。
 良いよね? と杏哉くんに問いかければ、彼女は少しだけ呆れたようにため息を吐きながらも、小さく笑みを浮かべた。
「アンタは本当に、苺音に甘いよなあ。良いよ、そうしようか」
 特別だぞ。そう言って、彼は苺音ちゃんの頭をくしゃりと撫でた。さらさらでふわふわな黒髪が少しだけ乱れたけれど、彼女は撫でられた部位に小さな手を添えて、ほんのりと頬を染めて嬉しそうに口元が緩んだ。
「じゃあ、ショートケーキ、チョコレートタルト、レアチーズケーキも一つずつください」
「分かった!」
 杏哉くんが日向くんにお願いすれば、彼は丁寧にショーケースから一つずつ取り出していく。真っ白な箱の中に3切れのケーキを入れて、真っ白な蓋をして、お店のロゴ入りシールで止めた。
「それじゃあお会計お願いします」
「はーい」
 日向くんは慣れない手つきで、電卓をゆっくりと、一つ一つの数字を押していく。
 それがなんだか、子供のお店ごっこ、おままごとのように見えて、不思議な違和感のような物を感じる。
「全部で1200円、だな!」
「おお、分かりやすい」
 お金をちょうど1200円出せば、日向くんは満面の笑みで、ありがとうと礼を言ってくれた。
「誕生日のケーキのお金は、貰いに来る時で大丈夫ですかね?」
「おう、そうだな!」
 白い箱に入ったケーキを受け取りながら問えば、彼ははっきりと頷いた。

「けれど、よかった。おれ、もうちょっとでここを出て行かなきゃいけないんだ」
「え?」
 日向くんの言葉に、俺だけではなくて、杏哉くんも苺音ちゃんも彼の方へ顔を向けた。
「……お店を畳む、ってこと?」
「畳む?」
「ああ、終わりにするって事」
「うん、そう。兄ちゃんとのそういう約束なんだ」
 少しだけ寂しそうな笑みを浮かべて、しょうがないのだと言わんばかりの声色で口にする。彼は幼い子供で、お兄さんと一緒にお店をやっている。お兄さんに終わりだと言われたら、彼にはどうすることも出来ないのだ。
 彼の言葉を聞いて、ふと思い出す。この世界には、期限というものが存在する。時間が決められていて、終わりがやって来るのだと。
「兄ちゃんもそうだろ?」
 目の前の男の子に問われて、杏哉くんと苺音ちゃんが俺の方を見る。
 すぐに返事を返すことは出来なかったけれど、少しだけ口角を上げて、不格好な笑みがこぼれた。
「ああ、そうだったね」