白くて何もない空間に立っていた。
 濃いミルクのような白い世界。靄がかかって、それはどこか霧のようにも見える。霧に覆われているのなら、この白い空間というのも納得だ。けれど、その霧の中に居てもふしぎと寒さは感じなかった。白くて濃い霧に覆われて、一粒一粒が小さいそれらの水の粒が、まるで体に吸い込まれていくかのような。しっとりと体に染み込んでいくようなさまを、俺は立ち尽くしたまま、しばらくの間じっとながめていた。
 乳白色を掻きこむようにして腕を回せば、それらは俺の身体にまとわりつく。動かしている自身の手を眺めれば、白くてぽちゃぽちゃとした柔らかそうな紅葉のような手。はて、俺はこんな見た目だったか。そう思って腰を捻れば、タータンチェックのスラックスを履いていた。ちらりと見えた手は、もう白くてぽちゃぽちゃとしていなかった。うーん? と首を傾げてから、腕を天に伸ばし、ぐっと身体を伸ばせば、身体の節々がパキパキと音を鳴らす。急に身体がだるく重くなった気分がする。一つ一つの動作をやるたびに姿が変わるので、俺は己の正体を見定める試みをやめ、顔をあげた。
 空間は静かで、人の声も、風の音もなく、生き物さえ見当たらない。本当に何もない世界に俺は一人だった。
 己が何者か、俺には分からなかった。何故此処にいるのか、どうやって此処まできたのか、己の名前さえなにも覚えていなかった。
 ゆくあてもなく、戻る場所もないので、俺はそこにじっと立っていた。乳白色の霧しかない空間は大層つまらない。だって本当に何もないのだから。出来ることと言えば、ただこの自分の周りにまとっている霧を、ぐるぐると混ぜるだけ。混ぜても、色は白いままだけれど。
 どれほどそうしていたものか。霧を混ぜるのも飽きていたとき、やがて、人がたずねてきた。
「やあ、遠野知唐(とおの ちから)
 己が分からない俺には、かけられた言葉が名前だと判断することはできない。だが、何も無いこの空間に存在しているのは俺だけなので、自然と俺のことなのではないか、という考えに行きついた。
 呼んでも振り返らなかったからだろう。とんとん、と後ろから肩を軽く叩かれる。そこで漸く後ろに目を向ければ、一人の男性が笑みを浮かべながら手を振っていた。
「こんにちは。返事くらいくれたっていいじゃないか。調子はどうだ?」
 垂れ気味の目尻は人がよさそうでもあり、抜け目がなさそうでもある。
 見た年齢は俺と同い年くらい。気さくな性格なようで、第一印象を悪くとらえる人の方が少ないんじゃないか、という好青年……に見える。
「俺は案内人の弥生(やよい)。よろしくな」
「案内人?」
「そう、この世界でお前を手助けして、道に迷わない様にするのが、俺の仕事で……」
「待って待って……なに?」
 ストップかける。つまり、えーっと……何だ?
「この世界……? なんだ、じゃあこの真っ白な空間は、異世界? みたいな感じなのか?」
「異世界……まあそんなところか。『境界』ってわかる?」
「……知らない」
「簡単に言うと、あの世とこの世の狭間」
「あの世!?」
 突然の爆弾発言に、思った以上の大きな声が出た。
 彼の言う『あの世』とは、俺の想像する『あの世』と同じだと考えれば、要は死後の世界になってしまうだろう。
「俺、死にかけてるの!?」
「あれ、もしかして何も覚えてない?」
「覚えてないよ……」
 額に手を添えながら、はあ、と溜息を吐く。そうすると、目の前の彼も同じ様に溜息を吐いて、「マジかよ」と小さく愚痴た。
「まあ、でも覚えてなくも何とかなるか。大丈夫、まだあの世じゃないからさ。安心してくれよ」
「安心できる要素が一つも無い……」
「まあまあ。期間限定の夢だとでも思ってくれよ」
 あまりにも簡単に、あっけらかんと言うもんだから拍子抜けしてしまう。
 『まだあの世じゃない』という表現が恐ろしすぎる。記憶の無い現実の俺の身に、一体何が起こってしまったのか……。
 俺としては、非現実的な言葉とこの世界に、彼の言う夢とう表現が一番しっくりと来る。狭間、と言われても、どうもしっくりとは来ないのだ。
「現実の俺は?」
「ん? 寝てる……かな?」
「じゃあ今すぐ起こしてくれよ!」
「おっと落ち着いて。考えてみろ? あの世とこの世のはざまに君はいる。そして眠っている。今の君の現状はどういう状態なのか、想像しやすいだろう?」
 彼の言葉を聞いて、ひえ、と情けない声が零れた。
 簡単に想像できる。俺は、自我で目覚める事のできない状況に陥っているのだ。
 どうするんだ、と頭を抱えていると、弥生と名乗った彼が慰めるように背中を撫でた。
「まあまあ、人間誰しもこの世界から出るものだ。その決められた時間まで、楽しんでしまえば良い」
「……そういう、ものなのかなあ」
「そういうもの。あと説明するとしたら……あ、ゲームって分かる? RPGゲームの一つの村のような世界に、お前は住んでもらうんだ」
 言いたいことは分かった。つまり俺は、境界という名の一つの街の中の住民になれ、ということだな。
「そんな世界を、君は案内してくれるんだ?」
「そうだ。まあ期間はあるけど」
 先程も言っていた期間、時間とも表現できるか。だが、彼の言う通り夢というものはいつか終わるものだ。どうしてこんな世界にいるのかは分からないけれど、夢というものは突拍子のない物だから。考えようとしたって無駄なのだろう。
「分かった、分かったよ。ここは期限付きの夢の世界、そこで俺はゆっくりと好きなことしてればいいんだな」
「話が早くて助かる!」
 それだけ言うと、彼はゆっくりと右腕を伸ばす。手のひらを広げると、その手のひらに向かって光が集まる。綺麗な光の粒子はどんどんと形を表す。時間は一瞬だったかもしれない。光の粒子が集まってできたシルエットを彼は力強く握り、それを身軽に振り回した。するとまとっていた光の粒は消え去り、彼の手元には大きな杖が握られていた。
 何が起こっているのかは分からない。だが、己の記憶が無い俺でもわかる。こんなことは、現実ではありないと。魔法のような、この世の理から離れたような物が存在しているなど。まさしく、異世界、夢のような出来事だ。
 目を開いて出来事を見ていれば、彼はしてやったりと言わんばかりに小さく笑みを浮かべた。
「これから始まるのは、お前の物語。優しいお前にぴったりな、世界に連れて行こう」
 コォン、と音を立てながら、大きな杖を地面に突いた。
 突かれた先から、水の波紋のような物がどんどんと広がっていく。俺達の周りを覆っていた白くて濃い霧も、ぶわりと拡散していく。
 そして広がっていく波紋の先が、きらりきらりと、先程のような光の粒子が舞い始めた。
 身体を捻ったり、その場で足踏みをするようにして周囲を見渡していくと、段々と世界が明るく、輪郭を表していき、色付いてくる。
 どれほどその光景を眺めていただろう。呆けていれば、一瞬眩く世界が光り輝く。まるでフラッシュをたかれたような眩しさに、一瞬目を瞑った。
 閃光により瞼の裏はまだ白い。じわじわ、と白さがひいていく頃、ふっと、鼻に甘く、しかしどこか優美さを含んだ匂いが掠める。次いで、これから日の陽気を吸収するような、ほんの少しだけ冷たいそよ風がびゅう、と頬を凪いだ感触を理解する。
 白から黒へ移り変わった瞼をゆっくりと開けば、其処は先程までの真っ白な空間ではなかった。
 春の花独特の、服に染み込むような甘い香りに覆われ、しかしそれでも清廉な凛とした空気のある不思議な空間、そんな場所に俺はいた。
 まず、御簾垣みすがきを巡らせた大きな屋敷が目に留まった。奥に重厚な玄関が見えていた。庭も存在してるようで、ひらり、と庭から何かの花びらが舞ってきた。思わず両手を伸ばし、ぱちんと音を立てて、花びらを両手で挟み込む。確認のためにゆっくりと手のひらを開けば、そのタイミングで吹いた風で、ふわりと花びらが飛んで行ってしまった。キャッチは成功していたらしい。庭には、杏の木が植えられているのが分かる。キャッチした花びらは、あの杏の花からだったのだろう。がたんがたん、とどこからか電車の音もする。
 それ以外にめぼしいものは見当たらない。けれど、どこか落ち着くような、けれど少し心がざわつくような、難しい居心地を味わっていた。
「この世界へようこそ」
 隣に立っていた彼は、優しく微笑んだ。
 また、柔らかい風が吹いた。現実世界ではないというのに、頬を撫でる風はやけにリアルだ。
 頬を指先で少し掻くように撫でながら、少しだけ引きつったような笑みがこぼれたのが、自分でもわかる。
 どんなに科学が進歩しようとも、『不思議』はまだまだ生きている。
 それは、俺達のすぐ傍に潜んで、絶えずこちらを覗いているのだ。