居間に飾られているカレンダーは、2個ほどあった。一つは一月ごと捲っていくタイプ。もう一つは、2月分が記されている、縦長のカレンダーだった。
先日お祝いした、苺音ちゃんの誕生日。3月31日には、ちゃんと『苺音誕生日』と記されている。
そして、3月1日の箇所には、『知唐、杏哉誕生日』と記されていた。
「3月1日、誕生花は杏。俺の唐は杏の別名が唐桃だから。杏哉くんも杏からきてる」
「花言葉は?」
「臆病な愛」
「ぴったりじゃん。じゃあ、苺音ちゃんは? 名前からもう察して、誕生花は苺?」
「そう。花言葉は、幸福な家庭」
「あはは、まさしく君達らしいな。幸福な臆病者って感じで」
「皮肉は止めてくれよ」
そして4月。4月18日には、四十九日法要と記されている。
3月1日からずっと、カレンダーには色々と書き込みがされている。誕生日に関して書き記している字とは違う筆跡。見覚えがあるのは、予定を書き記している筆跡だった。これは、杏哉くんの字だ。
「あの日、お前は日付が変わるであろう時間に家に帰った。その後、お前は風呂場で眠って、死んだ。風呂場で寝るのって気絶と一緒なんだぞ。本当に馬鹿だよなお前」
「馬鹿って言うな」
いや、自覚はしているけれど。
けれど、風呂場で寝て? 死ぬ? 要は溺死? マジか、これはちょっと笑えねえわ。
「でも、俺ってあの家に一人暮らしだっただろう? 誰が見つけたの?」
「……杏哉くんだよ」
「え?」
間の抜けた顔をして彼の横顔を見る。
「お前が死ぬ前に、お前等は電話越しで少し喧嘩した。……まあ、杏哉くんも喧嘩して居心地が悪かったのか、謝ろうとしたんだろう。それか、嫌な予感でもしたのか。些細な口喧嘩なら今までやってきたのに、変に胸騒ぎでもしたのか。偶に、凄い敏感な人間っているよな。すぐに家に来たよ。そして、最初に沈んでいるお前を見つけたんだ」
ぐ、と下唇を噛み、拳を握る。
声が脳内で木霊する。いつも落ち着いて喋る彼が、何度も、何度も兄さんと俺を呼ぶ。それに対して俺は、何も言えなかった。
「『忘れてくれ』……お前が電話した時の最後の言葉だ。アイツにとっての、兄に言われた最後の言葉になるな」
口元に両手を添えて、そのまま首を垂れる。
脳裏に浮かぶ、海での彼の言葉。
――違う、俺だ……俺だよ。お前を追い込んだのは、トドメを刺したのは、間違いなく俺なんだ。
――ごめんなさい、ごめんなさい……。
まるで罪人のように跪く姿は、俺に対して許しを乞うていた。けれど、それは、俺も同じだ。
俺が、あの子をここまで追い込んでしまった。責任を感じさせ、心に傷を負わせてしまった。トドメを刺したのは、間違いなく俺の方なんだ。
「葬式を終えての弟くんは、それから暫く抜け殻みたいだった」
「……うん」
「まあ、そう言われても、俺は俺の仕事がありますし。お前と会ったわけですよ。こいつも若かったから未練もあるんだろうと、49日間は好きな事させてやろうって思ったんだ。そうしたら、まさか記憶が無いとは思わなかったけど」
「……玄関先で話しかけられて、初めて会ったんだ」
ぽつり、と声が零れる。
「俺は分からなかったけど、あの子は分かってたのかな。いや、すぐに分かったんだろうなあ」
「……」
「俺は死んでる身だし。なんで居るんだと思ったんだろうなあ。不思議な経験をしてる自覚合ったのかな」
「……」
納骨箱を前に、まるで他人事のように見つめて、ははっと小さく笑ってしまう。
「誰の所為でもないのにな」
「そうだよ。誰も悪くなかったよ。強いて言うならお前が寝たのが悪い」
「違いない」
あの子はどうも、不幸とか責任を率先して引き受けようとする。それが彼自身が己の為にやっていたのだとしても、俺の馬鹿な不幸など、背負い込まないで。馬鹿な奴だったな、で終わらせてくれればよかったのに。
「この中に、俺が入ってるの?」
「そうだよ」
「ふぅん」
不謹慎だが、こつこつと納骨箱を叩こうとする。だが、俺の手はそれをすり抜けた。
ああ、そうか。俺の中見、ここにあるんだった。肉体が無いんだから、こっちのモノ……現実のモノは触れないに決まってるか。
「俺ってこんなに小さくなるんだね」
「そりゃあ砕かれるから」
「粉々に?」
「粉々って程ではないけど。入る程度に」
「あー……そういえばそうだったね」
過去の葬式の事を思い出す。長い箸をもって、一つ一つ丁寧に白い骨を骨壺入れる。ご飯を食べる時と大して変わらない動作に、拍子抜けしたことを思いだした。
ガンガンとくだかれて、あんなに小さくまとめられて。少し粉々にされる部位もあったかもな。死んでて良かった。生きていたら、それこそ死にそうになるほど痛かっただろうな。
俺の地元は、限られた人数で、全ての骨を拾う。全て、粉になったものまで、全部。
あの子は、俺の骨も拾ったんだろうか。
「俺達は、昔から葬式に縁があったからなあ。あの子も、手慣れたものだっただろうな」
「てきぱき動いていたぞ」
「素晴らしいな」
ふふ、と小さく笑みを浮かべた。飾られている俺の写真も笑っている。俺、こんな顔をして笑っているのか。いつの写真だろう。
「元々お前等は、身内の葬式が多かっただろう」
「うん、そう。しかも、俺等の誕生日に亡くなる人も多かった」
「そう。だから、元々お前等は死が近い存在だったんだ。世界の境界線が、あやふやになりそうな、そんな状態だったんだ」
「そして、俺が俺達の誕生日に死んだから、杏哉も、一緒に居た苺音ちゃんも境界に入りやすくなってしまった……と」
「そういうこと」
ぽつり、ぽつりと呟く言葉に、弥生さんの目は真剣なものになる。
小さく息を吸ってから吐きだして、心を少し落ち着かせる。
「……お前が死んで、48日だ」
彼がポツリとつぶやいた言葉を聞いて、彼の方へ顔を向けた。
「まだ、それだけなんだよ。知唐。お前、生きてたら、まだ30歳だったんだよ。なったばかりだったんだぞ。まだまだこれからだったんだ」
「あー……そうか。まだ、って歳だったのか。俺」
自分ではまあまあ生きたなと思ったのに、数字で表されたら、半世紀も生きていなかったことに驚いた。
「弟君は、お前が亡くなったことは分かっている。理解している。けど、お前を見て懐かしさを感じている。あの顔は、そんな顔だ」
幼い頃、何をする時も一緒に居た兄は、命を終えた。その喪失感はどれだけだったのだろう。
全てを忘れ去ることはできない。
新たな家族を持っても、忘れられない。
記憶が無くても、懐かしさを感じてしまった。
自惚れでなければ、血の繋がった兄弟とは、そういうものなのだろうか。
「なあ知唐。お前に残された時間は、あと1日だよ」
「……うん」
「1日経ったら、お前を連れて行く」
ああ、だから卒業ね。
管理人さんの言葉の意味をようやく理解した。この世からの卒業。来世へ向かうために、あえての前向きな言葉であの人は言ったわけだ。
「……君も、一緒に逝くのか」
「それが、俺の仕事だから」
仕事ならしょうがないな。
親指と人差し指の爪先をこすり合わせる。カシカシ、と引っ掻く。
「明日、お前の世界が終わるならどうする?」
顔を上げて、問うて来た彼の方へ顔を向けた。そして、少女の顔が過る。ああ、彼女もどこか分かってたのかもしれないなあ。だから、一緒に居たがってたのかな。置いていくの、申し訳ないなあ。
何のために、俺はまだここに居るのか。49日間、まだあの世に行っていない、残された時間。悔いがあったからに決まっている。
けれど、49日間って思った以上に短い。まあ、記憶が無かったから仕方がないんだろうけれど。
明日、俺の世界が終わる。それならどうする。その問いに、すぐに答えが出せないでいた。
「……まあ、そんなもんだよ」
生前で悔いがあったように、全ての悔いが無く終われるだなんて、そんなわけがない。それが普通なんだ。結局、何もしない。少女への返答と、全く同じことを実行しようとしている。
「……会わない方が、良かったのかなあ」
ぽつり、と呟いた言葉。頬に、温かい雫が垂れていくのが分かった。
「それは、俺が答えられるものじゃない」
「……そう、だね。ごめん」
脳裏に、自身の知っている弟が思い浮かぶ。そんな弟が、もう二度と会えないはずだったのに、目の前に現れた。
また、姿を見れて、一緒の時間を過ごせた自分は、とんでもなく幸せ者なのだ。
「俺は、死んだんだもんな」
先日お祝いした、苺音ちゃんの誕生日。3月31日には、ちゃんと『苺音誕生日』と記されている。
そして、3月1日の箇所には、『知唐、杏哉誕生日』と記されていた。
「3月1日、誕生花は杏。俺の唐は杏の別名が唐桃だから。杏哉くんも杏からきてる」
「花言葉は?」
「臆病な愛」
「ぴったりじゃん。じゃあ、苺音ちゃんは? 名前からもう察して、誕生花は苺?」
「そう。花言葉は、幸福な家庭」
「あはは、まさしく君達らしいな。幸福な臆病者って感じで」
「皮肉は止めてくれよ」
そして4月。4月18日には、四十九日法要と記されている。
3月1日からずっと、カレンダーには色々と書き込みがされている。誕生日に関して書き記している字とは違う筆跡。見覚えがあるのは、予定を書き記している筆跡だった。これは、杏哉くんの字だ。
「あの日、お前は日付が変わるであろう時間に家に帰った。その後、お前は風呂場で眠って、死んだ。風呂場で寝るのって気絶と一緒なんだぞ。本当に馬鹿だよなお前」
「馬鹿って言うな」
いや、自覚はしているけれど。
けれど、風呂場で寝て? 死ぬ? 要は溺死? マジか、これはちょっと笑えねえわ。
「でも、俺ってあの家に一人暮らしだっただろう? 誰が見つけたの?」
「……杏哉くんだよ」
「え?」
間の抜けた顔をして彼の横顔を見る。
「お前が死ぬ前に、お前等は電話越しで少し喧嘩した。……まあ、杏哉くんも喧嘩して居心地が悪かったのか、謝ろうとしたんだろう。それか、嫌な予感でもしたのか。些細な口喧嘩なら今までやってきたのに、変に胸騒ぎでもしたのか。偶に、凄い敏感な人間っているよな。すぐに家に来たよ。そして、最初に沈んでいるお前を見つけたんだ」
ぐ、と下唇を噛み、拳を握る。
声が脳内で木霊する。いつも落ち着いて喋る彼が、何度も、何度も兄さんと俺を呼ぶ。それに対して俺は、何も言えなかった。
「『忘れてくれ』……お前が電話した時の最後の言葉だ。アイツにとっての、兄に言われた最後の言葉になるな」
口元に両手を添えて、そのまま首を垂れる。
脳裏に浮かぶ、海での彼の言葉。
――違う、俺だ……俺だよ。お前を追い込んだのは、トドメを刺したのは、間違いなく俺なんだ。
――ごめんなさい、ごめんなさい……。
まるで罪人のように跪く姿は、俺に対して許しを乞うていた。けれど、それは、俺も同じだ。
俺が、あの子をここまで追い込んでしまった。責任を感じさせ、心に傷を負わせてしまった。トドメを刺したのは、間違いなく俺の方なんだ。
「葬式を終えての弟くんは、それから暫く抜け殻みたいだった」
「……うん」
「まあ、そう言われても、俺は俺の仕事がありますし。お前と会ったわけですよ。こいつも若かったから未練もあるんだろうと、49日間は好きな事させてやろうって思ったんだ。そうしたら、まさか記憶が無いとは思わなかったけど」
「……玄関先で話しかけられて、初めて会ったんだ」
ぽつり、と声が零れる。
「俺は分からなかったけど、あの子は分かってたのかな。いや、すぐに分かったんだろうなあ」
「……」
「俺は死んでる身だし。なんで居るんだと思ったんだろうなあ。不思議な経験をしてる自覚合ったのかな」
「……」
納骨箱を前に、まるで他人事のように見つめて、ははっと小さく笑ってしまう。
「誰の所為でもないのにな」
「そうだよ。誰も悪くなかったよ。強いて言うならお前が寝たのが悪い」
「違いない」
あの子はどうも、不幸とか責任を率先して引き受けようとする。それが彼自身が己の為にやっていたのだとしても、俺の馬鹿な不幸など、背負い込まないで。馬鹿な奴だったな、で終わらせてくれればよかったのに。
「この中に、俺が入ってるの?」
「そうだよ」
「ふぅん」
不謹慎だが、こつこつと納骨箱を叩こうとする。だが、俺の手はそれをすり抜けた。
ああ、そうか。俺の中見、ここにあるんだった。肉体が無いんだから、こっちのモノ……現実のモノは触れないに決まってるか。
「俺ってこんなに小さくなるんだね」
「そりゃあ砕かれるから」
「粉々に?」
「粉々って程ではないけど。入る程度に」
「あー……そういえばそうだったね」
過去の葬式の事を思い出す。長い箸をもって、一つ一つ丁寧に白い骨を骨壺入れる。ご飯を食べる時と大して変わらない動作に、拍子抜けしたことを思いだした。
ガンガンとくだかれて、あんなに小さくまとめられて。少し粉々にされる部位もあったかもな。死んでて良かった。生きていたら、それこそ死にそうになるほど痛かっただろうな。
俺の地元は、限られた人数で、全ての骨を拾う。全て、粉になったものまで、全部。
あの子は、俺の骨も拾ったんだろうか。
「俺達は、昔から葬式に縁があったからなあ。あの子も、手慣れたものだっただろうな」
「てきぱき動いていたぞ」
「素晴らしいな」
ふふ、と小さく笑みを浮かべた。飾られている俺の写真も笑っている。俺、こんな顔をして笑っているのか。いつの写真だろう。
「元々お前等は、身内の葬式が多かっただろう」
「うん、そう。しかも、俺等の誕生日に亡くなる人も多かった」
「そう。だから、元々お前等は死が近い存在だったんだ。世界の境界線が、あやふやになりそうな、そんな状態だったんだ」
「そして、俺が俺達の誕生日に死んだから、杏哉も、一緒に居た苺音ちゃんも境界に入りやすくなってしまった……と」
「そういうこと」
ぽつり、ぽつりと呟く言葉に、弥生さんの目は真剣なものになる。
小さく息を吸ってから吐きだして、心を少し落ち着かせる。
「……お前が死んで、48日だ」
彼がポツリとつぶやいた言葉を聞いて、彼の方へ顔を向けた。
「まだ、それだけなんだよ。知唐。お前、生きてたら、まだ30歳だったんだよ。なったばかりだったんだぞ。まだまだこれからだったんだ」
「あー……そうか。まだ、って歳だったのか。俺」
自分ではまあまあ生きたなと思ったのに、数字で表されたら、半世紀も生きていなかったことに驚いた。
「弟君は、お前が亡くなったことは分かっている。理解している。けど、お前を見て懐かしさを感じている。あの顔は、そんな顔だ」
幼い頃、何をする時も一緒に居た兄は、命を終えた。その喪失感はどれだけだったのだろう。
全てを忘れ去ることはできない。
新たな家族を持っても、忘れられない。
記憶が無くても、懐かしさを感じてしまった。
自惚れでなければ、血の繋がった兄弟とは、そういうものなのだろうか。
「なあ知唐。お前に残された時間は、あと1日だよ」
「……うん」
「1日経ったら、お前を連れて行く」
ああ、だから卒業ね。
管理人さんの言葉の意味をようやく理解した。この世からの卒業。来世へ向かうために、あえての前向きな言葉であの人は言ったわけだ。
「……君も、一緒に逝くのか」
「それが、俺の仕事だから」
仕事ならしょうがないな。
親指と人差し指の爪先をこすり合わせる。カシカシ、と引っ掻く。
「明日、お前の世界が終わるならどうする?」
顔を上げて、問うて来た彼の方へ顔を向けた。そして、少女の顔が過る。ああ、彼女もどこか分かってたのかもしれないなあ。だから、一緒に居たがってたのかな。置いていくの、申し訳ないなあ。
何のために、俺はまだここに居るのか。49日間、まだあの世に行っていない、残された時間。悔いがあったからに決まっている。
けれど、49日間って思った以上に短い。まあ、記憶が無かったから仕方がないんだろうけれど。
明日、俺の世界が終わる。それならどうする。その問いに、すぐに答えが出せないでいた。
「……まあ、そんなもんだよ」
生前で悔いがあったように、全ての悔いが無く終われるだなんて、そんなわけがない。それが普通なんだ。結局、何もしない。少女への返答と、全く同じことを実行しようとしている。
「……会わない方が、良かったのかなあ」
ぽつり、と呟いた言葉。頬に、温かい雫が垂れていくのが分かった。
「それは、俺が答えられるものじゃない」
「……そう、だね。ごめん」
脳裏に、自身の知っている弟が思い浮かぶ。そんな弟が、もう二度と会えないはずだったのに、目の前に現れた。
また、姿を見れて、一緒の時間を過ごせた自分は、とんでもなく幸せ者なのだ。
「俺は、死んだんだもんな」