海での出来事があった後、杏哉くんがパタリと来なくなった。理由は、明確なような気がする。あの時の彼は、心底悲しそうな顔をしていた。
 あの時、弥生さんが止めなければ、彼は俺をどうして居たのだろう。彼は、俺をどうしたかったのだろう。俺に、どうなってほしかったんだろう。
 短時間ではあるが、多少は彼と接してきて、大まかな性格くらいは分かってきたつもりだ。
 彼は優しい。優しい人と言ったら彼を思い浮かべるであろうくらいに、優しい人だ。そんな人が、俺の首に手をかけたのだ。そっ、と自分の首元に指先で触れる。
 彼を怒らせたのだろうか。ちょっとのことでは怒らなさそうな彼が? もしそうなら、俺はどれだけの事をしたのだろう。何か、地雷のような物でも踏んでしまったか。それすら分からない程、俺に心が無いのだろうか。
 顔を合わせる気も起きないくらいに怒ったのか、それとも失望でもしたのか。何にせよ、嫌われたかもしれない、という考えに行きついてしまって、気分が沈む。
 椅子にもたれかかって、右肩に頬をくっつけるような体勢で、ずっとそんな事を考え続けている。
 何だかもやもやとする。胸の辺りがじくじくと傷む。心の中の自分が、本当に馬鹿だなと罵倒してくるような感覚がする。ええ、どうせ俺は馬鹿ですよ。
 眉間に皺が寄り、ムッと少しだけ口が尖ったのが分かる。自分で自分に腹が立つなんて救いがない。

「……よし、出かけよう!」
「え?」
 同じ空間に居た弥生さんが、大きな声を上げてそう言った。
 突然の大きな声に身体を跳ねらせ、顔を上げて彼の方を見れば、にこりと笑みを浮かべている。
 確かに空気が重かったのは分かる。同じ空間に居た彼には申し訳ないとは思っていた。だが、急に出掛けようって。
 弥生さんは読んでいた本を閉じて立ち上がり、俺の腕を掴んで立ち上がらせようとする。顔は起き上がらせてはいるが、突然の考えと行為に思考はついて行かない。混乱したまま、されるがままに上半身からぐにゃりと持ち上げられた。
 椅子から立たされ、そんな俺の姿を見て彼は満足するように頷いて、俺の前から移動して部屋の奥に。バタバタと音が聞こえるのを見守っていると、彼は少しだけ荷物を持って笑顔を見せる。
「準備オッケー! じゃあ行くぞ!」
「え、ちょ……」
 彼はノリノリで家を飛び出した。彼を呼び留めようと伸ばした手は、虚しく宙で放置されている。
 その手の行き場が分からなくて、そのまま頭まで持っていって、がしがしと雑に頭を掻いて、深い溜息を吐いた。
 こうなったら、彼に付き合うしかないだろう。

 そもそも、こうして彼と行動するのは初めてだったかもしれない。この世界に来て、彼と共に家に暮らしていたけれど、どこかに出かける事はしなかった。俺はいつも、杏哉くんたちと一緒に居たから。
 ずきん、と頭が痛む。
 鋭くて、それでいて鈍い痛みに眉間に皺を寄せ、痛みの部位に手を添えた。添えたからと言ったって、痛みそのものを撫でる事は出来ないので、所詮気休めに終わってしまうけれど。
 彼の後を追って家から出て、玄関の鍵を閉めた。泥棒など存在しないだろうけれど、念のためだ。
 歩く間に、俺達の間に会話は無い。弥生さんの小さな鼻歌が、風向きの影響からか、こちら側に向かって小さく聞こえるだけだ。周りを見渡せば、見慣れたはずの田舎道が何だか寂しく見えた。
 家はポツン、ポツン、と距離を置いてあるだけ。人が歩く姿は滅多に見えない。道に立つ電柱には偶に落書きがある。電線に止まっている烏の鳴き声が聞こえる。風は弱いからか音はしない。広がる田園には田植えの準備が整っていて、水が張られていた。風がないから、空が田園に逆さに映し出される。海外のウユニ塩湖を思い起こさせた。そんな、静かな世界だった。

 ゆっくりと、周りの景色を見渡すように眺めて歩いていれば、弥生さんが立ち止まって、振り向いて待っていた。
「ここのバスに乗るぞ」
 彼が立ち止まった場所は、日向くんとお別れをしたあのバス停だ。
 ああ、俺達もここのバスに乗るのか。
 彼が指差したのは時刻表。時刻表を見てみれば、バスが来るまで少し時間がかかる。2時間に、行先の違うバスが2本走る。ど田舎という訳ではないが、不便という言葉が脳裏に浮かぶ。
 横に立って並ぶ弥生さんに問う。
「どこ行くの」
「お前を連れて行きたかった場所」
 結局答えになってないな。

 少しだけ待っていれば、予定時刻より10分ほど遅れてバスがやってきた。都会だったら苦情が来そうだ。
 バスの後ろ側の扉が開く。
 行き先を表示するはずの電子板は、何も表示されていない。本当にこのバスに乗って大丈夫なんだろうか。あの時も、ちゃんと表示されていたのかな。ちょっと前の出来事だけれど、今更ながら不安になってきた。
 そんな俺の不安をよそに、弥生さんは気にしないでバスに乗り込んだ。乗車券を手に取って、早く来いと、バスの中から俺に呼びかける。
 平地より高い位置にある入り口に足を踏み入れて、彼に倣って乗車券を一枚とってバスに乗り込んだ。
二人で乗って、まとまって座れる一番後ろの席に並んで座った。窓際に弥生さん、その隣に俺、という順番だ。
「少し遠いから、時間かかるよ」
 バスの中には俺達以外に誰もいない。寂しいなと思った。
 距離のあるバス停に次々と通っても、誰も立っていないので、誰も乗ることは無い。
 時間がかかるのなら、初めから言っておいてほしかった。何か暇潰しの物でも、持ってこれたのに。
 ああ、でも、バスの揺れの中で本を読んでいたら酔ってしまうかもしれないな。乗り物酔いはしんどいから、やっぱり持ってこないで正解だったかも。
 窓枠に肘をついている弥生さんを横目に、俺は左手の親指の爪で、左手の爪を其々かしかしと掻いていた。
 換気の為か窓は空いていて、窓の外から室内に向けて風が吹きこんでくる。隣に居る彼の髪の毛が風で揺れていた。
「……ねえ弥生さん」
「ん?」
 名前を呼んでも、彼は此方を見ない。景色を眺めるだけだ。
「明日、世界が終わるならどうする?」
 自分でそう問うた瞬間に、また、ずきんと頭が痛む。一瞬、自分でも険しい顔をしたのが分かる。隣の彼にバレなかっただろうか、と横目で確かめてみるが、彼は此方に目を向けてはおらず、バレずに済んだようだ。
「えー? 知らん」
「だよね」
 前に、少女に問われた質問を、彼にも聞いてみた。まあ、全く参考にはならなかったわけだが。でも、突然問われたって、答えなんて簡単には出ないか。
「だって、俺には関係ないし」
 確かに、そうだった。彼は幽霊のようなものなのだから、関係ない話ではあったか。
「……俺も、聞かれた時に、分からなかったんだ。その答え」
「だろうね」
 彼は変わらず、俺を見ないで窓の向こうを見続けている。
 相も変わらず人は誰も乗らないで、バスは少し揺れながら、道路を走り続ける。
 元々家の数は少なかったけれど、どんどんと山の中を走って行けば、見えるのは畑や田んぼ、ぽつんと建っている老人ホーム、今にも潰れそうな家。そんな物が目に映る。
「ここで降りるよ」
 弥生さんが眺める方とは反対側の窓の向こうを遠目で眺めていれば、彼の声がした。少し遠くに行きそうになっていた意識を呼び戻して、顔を向けてみれば、にこりと笑みを浮かべた。
 バスがゆっくりとスピードを落として、完全に止まってから腰を上げれば、まとめて払うからと弥生さんに言われる。彼に乗車券を手渡した。
「先に行ってて」
 ドアの先を指さして言うので、先にバスから降りる。
 バスから降りれば、風が吹き上げてきた。どこか、覚えがあった。
 ああ、そうだ。海の風だ。この間、あの子たちと行ったあの海と、似た風が吹いて来たのだ。もしかしたら、あの場所からそう遠くない場所なのかもしれない。
 周囲を見渡せば、住宅はぽつりぽつりと見えるが、全然人影が見えない。人も家も、そう多くない。田舎町、ぽつりと呟いてしまった。
 乱れた髪の毛を手櫛で軽く整えていれば、勘定が済んだらしい弥生さんがバスから降りてくる。バスは、俺達が全員降りたのを確認して、続いて誰も乗らないのを確認してから、走り去っていった。
「ここから少し歩くぞ」
「そういえば、前から気になってたけど、幽霊みたいな存在なのに飛べないのか」
「残念ながらセンスが無かったね」
 小さく笑いながら、彼は先導するように歩き始める。
 田舎町、と思えども……逆に、だからこそ、車が走るからだろうか、整備されたアスファルトの道を歩く。すれ違う人はいない。
「本当はもっと早く連れてくるべきだったんだろうけれど、お前が楽しそうにしてたからさあ」
 数歩前を歩いている彼が、いつも通りの声色で突然言うものだから、思わず首を傾げた。
 何が言いたいのだろうか。意図として、何かを含ませて言いたい内容があるように思われたが、どうも察することは出来なかった。
「弥生さん?」
「……なあ、さっき、どうしてアレを聞いたんだ?」
「アレ?」
「バスの中で聞いたやつ」
 バスの中で。そう小さく呟いてから、すぐに思い出した。明日世界が終わるなら~ってやつだ。
「え? 何となく」
「あっそ」
 それ以降、彼は何も言わないで、ただ歩く。
 周りを見渡せば、また、ずきんと頭痛がする。
 ここ最近、酷い頭痛に悩まされている。元々、俺は片頭痛持ちだったのかもしれない。だから、今でも頭痛が続くのかもしれない。けれど、最近の頭痛は無視できないものになっていた。
 薬を飲んでも、休息を得ようとも、それは変わらず、ただ割れるように痛かった。夢のような世界なのに、痛みは存在するのだな。
「知唐?」
 少し遠くの方から声がして、そこで漸く自分の脚が止まっていたこと気付く。
「……今、行く」