ここ最近、酷い頭痛に悩まされている。
 元々片頭痛持ちで、雨の日など、気圧が変化する時には締め付けられるような痛みを伴う体質ではあるものの、最近の頭痛は無視できないものになっていた。
 薬を飲んでも、休息を得ようとも、それは変わらず、ただ割れるように痛かった。
 ああ、死ぬのかもしれない。
 安易にそう思った。
 クリーニングから返ってきたばかりの喪服をクローゼットから取り出した。一ヶ月ほど前に使ったのだ。被っていたビニールを剥ぎ取って、つけっぱなしだったタグを手で引きちぎった。
 靴は埃を被っていなかったか。玄関から入ってすぐの突き当りに、壁穴のように設置されている靴入れを覗きこめば、靴も無事であることが確認できた。

 生きている限り、人は死ぬ。だから、周囲の人物が亡くなることは、決しておかしなことじゃない。一人、一人と亡くなるたびに、死は身近なものになっていく。
 幼少期から、どうも死という存在は近かった。
 高齢の身内が多かったのもあるが、今の自分の年齢の割には、人の死というものを何度か経験していた。その時は、まだ死は遠かった。
 だが、俺が祝福されるべき誕生日に、亡くなる人が多い因果があったようだ。その度に葬列に参列した。幼い頃は、その度毎に、新しい喪服を着たものだ。確か、去年の誕生日にも親戚のじいさんが死んだ。認知症が進み、家庭内で少し邪険にされている、寂しい人だった。この日だったら周りも命日を忘れないだろう、と思っていたのかもしれない。勘弁してくれ。
 そうして死が自分の周りで幅を利かせていくほどに、どんどんと死が隣にやって来るように感じた。生者と死者とを隔てる壁が、日増しに脆くなっていくような。
 あと一度でも、同じ日に身近な死に立ち合えば、自分はきっと、この壁を超えるだろう。
「今年は誰も死なないと良いな」
 彼の言葉を思い出すと同時に、キーン、という耳鳴りと鋭い痛みが襲う。
 あの時の自分はふと黙った。相手は冗談を言ったのだ。それは分かっている。
 俺がどんな顔をしたか、相手は分からない。彼の言葉で、ふと自分を顧みた。自分の境遇と過去とが、その言葉に聞き耳を立てた。
 実に自分は、幼少期の頃から、数え切れないほど葬列していた。

 そして、今年の俺の誕生日も、身内が新たに死んだ。
 それが、始まりだった。