生まれて初めて眠れない夜を過ごした平良は、午前8時45分に自宅を出た。寝不足で倒れそうだが、今日は誰も助けてくれない。約束は9時だ。15分もあれば紗希の自宅に到着するだろう。たぶん。
土曜日の朝ということもあり、まだ大通りも交通量が少ない。平良は長い横断歩道をゆっくりと渡る。そして自動販売機が並ぶ角を曲がり、一方通行が多い狭い路地を抜ける。ようやく、目指す場所が見えてきた。
「おはよう」
先に声を掛けられ、驚いた平良は本格的に覚醒した。いつもの制服と違い私服姿。法要などで出会う際も常に正装であり、学校の制服以外の姿を平良は初めて目にした。
もともと清楚な美人系ではあったが、無関心を貫く平良でさえも目を奪われてしまう。ショートパンツから伸びるスラリと伸びる長い脚と、袖無しのシャツから見える白い肩は目のやり場に困る。
「おはようございます。待っててくれたんですか?」
「うん、まあ。ウチのことに巻き込んでるし、積極的にお手伝いさせて頂こうかな、と」
そう言って微笑む紗希は、俗に言う「マジ天使」だった。
玄関のカギを握っている紗希が、クマのキーホルダーをブラブラと揺らしながら進んで行く。その後を平良が続いた。
「もう両親には話しておいたから、好きなだけ引っかき回しても良いよ。ただし、私の監視付きだけどね」
「ありがとうございます」
カギ屋に行くと3分でスペアが作れそうな、そんな単純構造のキー。それをカギ穴に挿し込んで回すと、カチャンと軽い音がして玄関の扉が開いた。
主を無くしたことが一目で分かるような空間。突然の侵入者に少しずつ静寂が崩れ、仕方なく音と色を取り戻していく。
玄関のすぐ目の前に階段があるが梯子並みの角度であり、高齢者が登れていたとは到底思えない。既に埃が積もった廊下を、足元に置かれたスリッパを履いて進む。
「こっち、こっち」
「あ、はい」
紗希に手招きされ、すぐ左側の部屋に入る。現代風のリビングダイニングとまではいかないが、そこはキッチンとリビングが混在する空間だった。
紗希が窓際まで移動し、濃いグリーンのカーテンを開ける。その瞬間に室内が一気に明るくなり、沈んでいた部屋の隅々が浮かび上がってきた。
「お祖母ちゃんは、一日の大半をここで過ごしていたの。
ほら、窓を開けたら縁側があって、部屋の中にはすぐテーブルがあって、台所もあって、すぐにお茶の用意もできるでしょ?」
思い出にふけり始めた紗希を尻目に、平良は室内をゆっくりと見回した。本来の目的は紗希を鑑賞することではなく、あくまでもトメの調査だ。
そして、紗希が物思いに没頭し初めて1時間ほどが経過した時、貴重品がまとめられていた食器棚で、平良は気になる物を見付けた。食器棚の一番上にある引き出し、そこに紫色の生地でできた小袋があったのだ。一目見ただけで、何か特別な物であることが分かった。
引き出しから小袋を取り出し、台所のテーブルの上に乗せる。平良の行動に気付いた紗希が、テーブルの反対側から身を乗り出してきた。
「何、それ?」
そう言いながら覗き込む紗希の目の前で、平良が丁寧にヒモを緩めていく。中に入っていた物、それは随分と使い込まれたカードの束だった。
「トランプ? でも、ちょと数が足りないかな・・・」
手を伸ばしてカードを持った紗希が、そこに描かれていた逆さまの男性を目にしてつぶやいた。
「タロットカード?」
「みたいですね」
平良が首を縦に振り、紗希の意見に同意を示す。
引き出しに大切に保管されていた物は、素人の平良からみても特異な雰囲気を漂わせる古いタロットカードだった。明らかに、コレクションとして保管してる物ではない。
「お祖母さんは、タロットカード占いをされていたんですか?」
ごく自然な問いだった。どう見ても、雑貨店やインターネットで簡単に入手できない類のカード。それを持っているということは、これを使って占いをしていたとしか思えなかった。