嬉しそうに煮物を頬張る様子に、ただただ幸せな気持ちになった。私も筑前煮から食べようと箸をとると、彼は「ねえ」と上目遣いで見つめてきた。

「……これ作ってる時、俺のこと考えてくれた?」

 投げかけられた言葉に箸が止まる。食べようとしていた人参は奇跡的に弁当の中に転がり落ちて、出汁まき卵の上に着地した。

「え、え?」

「煮物、俺の為に詰めたって言ってたから、違った?」


 こちらを見つめる日野くんは、妙に艶っぽくて心臓に悪い。手が震え、体温がどんどん上がっていくのを感じながら頷くと彼がさらに目を細める。

 昨晩、爽やかな笑顔で人気とテレビに出ていたはずの彼笑みは、どこか湿った雰囲気を感じた。

「嬉しい。俺も最近、撮影で使う食べ物とか料理見ると、五十嵐さんの顔が浮かぶから」

「私の顔?」

「うん。五十嵐さんの料理だったらな……って。五十嵐さんの料理、好きなんだよね。なんか力が抜けるって言うか、落ち着く」


「ありがとう……」

 凛と心に響くような日野くんの言葉が、じわじわと心に浸透するみたいに沈んでいく。彼は「美味しい」と言いながら煮物を頬張っていて、私の視線に気づく気配はない。

 この表情、ずっと、ずっと見ていたいなぁ。

 出来れば、なるべく、ずっと。

 ぬるい風が窓から吹き抜けていく中、私はそんなあり得ないことを願ってしまうのだった。

「なんか最近野菜買う量増えたけどどうしたの?」

 日野くんに夕食を作るようになって一か月が経過した休日。八百屋さんで会計をしてもらっていると、店番をしていた美耶ちゃんが首を傾げた。

 確かに、野菜を買う量……というか食材を買う量は倍になった。

 一人分が二人分に、要するに日野くんの量が増えたからだけど、「クラスの男子に昼食と夕食を作ってるんだ」とは少し話し辛い。どうしてと聞かれても答えられないし。

 それに、あともう少しで夏休みだ。日野くん、休みの間お昼や夕食はどうするんだろうと思うけどまだその話を彼としていない。

 普段彼には土日用に、氷漬けにした自家製冷凍食品を渡したり、電話をしながら作り方を説明したりして食べてもらっているけれど毎日は厳しいだろう。気温ももっと高くなるし。
 
 かといって夏休み中にお弁当を渡しに行こうか尋ねて、休みの日に会いたがっていると思わせてしまったら申し訳なくて私は言い出せずにいた。

「うん、研究かな?」

「そっかあ、何か最近野菜めっちゃ売れるんだよね。スムージーにしたりとかするんだって」

「スムージーかぁ……」

 食べるより飲むことのほうが手軽だし、栄養不足を補うのには最適だ。


 でも、スムージーってどちらかといえば、普段の食事の足りない栄養素を補ったりが目的だからそもそも食事が出来てない彼にはどうなのだろう……。

 モデルをしている人はわりと量を食べない印象だったけど日野くんはよく食べる。

 すらっとしていて腕も足も細身だから、どこに入っていくのか疑問なくらいだ。自分のことを「燃費が最悪でさ、すぐお腹減るんだよ」と言っていたから、消化の速い液体と日野くんの相性には疑問が残る。

「あっそういえば瑞香ちゃん聞いてよ」

「ん?」

「珱介がさあ、雑誌のインタビューで理想の彼女像について語ってたんだけど、見てよこれ、好きなタイプのところ!」

 お客さんがいない時に読んでいたらしく、美耶ちゃんはお会計をする机の下から雑誌を取り出して広げた。ピンクや黄色など可愛い色味で統一されたページを読んでみると、『日野珱介の恋愛観』とポップ体で載っていて、下には一問一答形式で彼が答えている記事だった。

「好きなタイプは、世界で一番可愛い女の子です……だって! 珱介、絶対彼女いるよね? あの顔でいないわけないし。これ完全に雑誌使って惚気てるよね。ほら見てよここ、好きな人としたいことの所、何気ない食事だって。同棲してるみたいじゃない? 超羨ましいよねえ! 珱介夏にキスシーンの撮影あるらしいみたいなインタビューも載っててさあ、うわーとか思ってたんだけどこれ見てたらもう余計にうわーだよ!」

 美耶ちゃんは「本当にうわー!」と繰り返しながら雑誌をばさばさ閉じたり開いたりを繰り返す。


 日野くんに、彼女がいるのだろうか。

 彼は引く手あまただろうけど、恋人がいるならいくらクラスメイト同士とはいえ、買い出しに私を誘うことはしない気がする。

 それに、マグカップだって好きな色がなく、私の好きな色を選ぶくらいだ。彼女がいるならその子の好きな色にするだろう。

 でも、彼女はいないと思うよと伝えようにも根拠は言えない根拠なわけで、口を噤んでいると美耶ちゃんの後ろから八百屋のおじさんが現れた。

「お前この間野球坊主と同じ傘で帰ってたじゃねえか」

「え、お父さん見てたの!?」

「当たり前だろうが! 店番してたら! こそこそこそこそ端のところで別れやがって。親に会わせられねえような奴なら、俺は認めねえからな!」

「そんなんじゃないってば! ただの同級生だから」

 顔を真っ赤にして怒る美耶ちゃんを見て、おじさんは拗ねた声色で複雑そうに声を荒げた。

「んなこと言ったって、あっちはどうか分かんねえだろ! 相合傘してお前傘ん中入れてやって、自分の肩ずぶ濡れにしてたんだからな! お前に気がねえわけねえだろうが」

「ああああ! もう! お父さんはあっち行ってて! 私は瑞香ちゃんとお話してるの!」


 彼女は八百屋のおじさんを強制的に店の奥へ押し込んでいく。そして顔をぱたぱた仰ぎながらこっちへ戻ってきた。

「さっきのお父さんの言ったこと、本当気にしないで! 忘れて! 全然そんなんじゃないから」

「うん。分かったよ」

「あ、そ、そういえばねえ! 商店街の曲! 暮れ盆の時期にスピーカー修理出して新しくするから、曲が変わるらしいよ。一週間は寂しくなるけど、ニューソングで旋風を巻き起こす! なんて自治会長が言ってたから、変な曲になりそうなんだけど」

 美耶ちゃんは話を変えるようにして商店街で流れる曲について話を始めた。でも、話の半分も頭の中に入ってこなくて、つい返事がおざなりになってしまう。

「瑞香ちゃん、どうしたの?」

「ううん、何でもないよ」

 ずっと黙ったままの私を見て、美耶ちゃんが不安そうにしていた。私は慌てて首を横に振り、笑みを浮かべる。

 日野くんに、彼女。いないとは思うけど、二人分の食器を買っているところから見ても好きな人はいるのかもしれない。

 ……日野くんに、好きな人。


「じゃあ、私帰るね」
「うん、気を付けてね瑞香ちゃん」

 美耶ちゃんに手を振って、八百屋さんから離れる。私は、どこか胸のあたりがもやもやしていくのを感じながら商店街を後にしたのだった。







 商店街に向かった翌日私は部屋のカレンダーをじっと見つめていた。縁に描かれた絵は先月の紫陽花から変わり、向日葵が描かれている。明後日からは夏休みだ。

 休みの間は当然日野くんとは会えない。授業が無くて嬉しいはずなのに、どこか気が重い。明日は終業式で午前授業で、彼は何も言ってこなかったから、多分昼食も夕食も必要としていない……と思う。

 というか日野くん。夏休みが入ったら夕食と昼食、どうするんだろう。土日の食事は仕事があるから、マネージャーさんに買いに行ってもらってると言っていたけれど心配だ。なんとなく、この夏レパートリーを増やそうと揚げない揚げ物の練習をしたりはしているけど……。

「……でも、日野くんの、彼女……」

 変な思考を止める為に事実を呟くと、より胸がずしりと重たく感じた。いるかいないかは決まった訳じゃない。


 彼女がいるのに、私なんか……と言っても一応女子な訳で。二人きりでお昼を食べていい訳ない……はず。

 だからやはり彼女はいないかもしれない。彼は光熱費を払おうとした時自分のことを「泥棒」なんて言っていたくらいだし、きっちりした人のはずだ。

「よし」

 夕食作りに取り掛かるべくエプロンに着替えるとスマホが震えた。画面を確認すると送り主は日野くんだった。

『明日って暇?』

『俺の家に、夕食を作りに来てくれないかな?』

 連なるように並ぶ二つのメッセージに目が釘付けになっていると、またぽんと浮かび上がるように新しいメッセージが表示された。

『夏休み、暑くなるし、そろそろ家で夕食作って欲しくて』

『だめかな?』

 それらを目で追って、呆然とする。

 日野くんの家で、私が作る――? 届けるじゃなくて?

 確かに、夏だし食材の痛みも早い。でも、どうやって返信しよう。なんて返そう。後で返そうにも今まさに見てしまっているせいで、日野くんのメッセージの隣には既読がついてしまっている。