「なーにしよっかなあー」

 学校帰りスピーカーから流れる軽快なメロディに耳を澄ませながら歩きなれた商店街を進んでいくと、お肉屋さんから漂う揚げたてのコロッケが、漬物屋さんからは少しつんとした糠が香る。

 出来立ての食べ物の匂いを嗅ぐたび商店街に来たという実感が湧いた。並んでいる商品に足を止めたり、また目的を思い出して進むことを繰り返していくと、通りの隙間から桃色の花びらが流れてくる。

 商店街の裏手にある桜並木の花びらが風にのって飛んできたらしい。

 手のひらを広げてみると、爽やかな風を含むように舞った桜は手のひらにすとんと収まる。周りでは商品に花弁が落ちたりしないよう慌てて庇ったりシートを被せなおしていた。

 商店街の人たちは桜に、「こんなところまで飛んでくるなんて」と呆れながらも、どこか見惚れるようにしている。そんな人々を通り過ぎていくと目指していた八百屋さんに辿り着いた。通りに沿うようにカラフルな野菜たちが丸い網籠に乗せられていて、瑞々しく鎮座している。

 春だ。春がある。

 春は出会い、別れの季節と言うけれど、私にとってはアスパラ、かぶ、たけのこ、しらす、キャベツの季節だ。

 特に春キャベツは、いつもの季節より甘さも瑞々しさも格段に違う。千切りにしたものを塩で揉みこんだだけでも美味しいし、ごま油を加えて風味を変えたり、ラー油をかけて辛みのアクセントをつけたり、他の季節でも美味しい味付けが春キャベツというだけで格段に美味しくなる。

 本当に、いい季節だと思う。大好き。

 というわけで、私、五十嵐瑞香《いがらしみずか》の春は、出会いや別れより旬の食べ物。典型的な花より団子派。さらには団子の中では草の香りがたっぷりとするよもぎと、とろっとした蜜がかけられたみたらし団子、どっちも美味しい派の高校一年生だ。

 今日も美味しいもの作って食べるべく、新鮮な野菜たちを前に品定めをしていると、八百屋の中から温和な笑みを浮かべたおじさんが編籠と電卓を片手に出てきた。

「おじさんこんにちは」
「瑞香ちゃん、いらっしゃい。今日はかぶが採れたてで安いよ!」

 小さいころはお母さんとこの商店街に来ていた。この八百屋さんには毎回訪れていたから店の主人であるおじさんとは知り合いだ。それにおじさんの娘さんは私とは三つ違いでよく一緒に遊んでいた。

 おじさんの言葉を聞き、かぶに目を向ける。葉は青々としていて根はつやがある。見るからに美味しそうだ。「じゃあ、かぶと……」と他の野菜も見ていくと、おじさんは「そうだ!」と思い出したように手を合わせる。

「あの天高《あまこう》に入学したんだって! すごいねえ!」
「へへ、ありがとうございます! やっと受験終わってせいせいですよー!」

 天高とは、県立天津ヶ丘高校(あまつがおかこうこう)。この春私が入学した高校のことだ。

 自由な校風と新しく改築された新校舎を大々的に謳う有名な学校で、図書館は国立のものと匹敵するらしい。それに普通の学校にある施設だけじゃなく、様々な設備が備わっている。天体観測ができる部屋や、大きなシアタールーム。屋内陸上競技場なんかもある。

 けれど、私はちっとも興味が無い。

 私が天高を受験したのは親や先生の勧めによるものだ。私は美味しいものを作って食べることが出来ればいい。だから高校受験をするにあたり、志望校がなくて、調理系のところがあるなら行きたかったけれど通学に何時間もかかるような……つまり県外だった。

 私は美味しいものを作って食べたいだけだから、調理師になりたいわけでもなくて、担任の先生に勧められるがまま、流されるまま、天高を受験することになった。いわば流された結果だ。

 でもこの高校に受かってよかったと私は心の底から思っている。何故なら受験が終わってくれたからだ。本当にどこでもよかったけど、受かってよかった。そう思うほど、本当に、心の底から、私は受験がきつかった。

 天高の偏差値は新設校とあって本当に平均値を出されていた。死ぬ気で受験勉強をしなければいけないという状況……でもなかったけど、気を抜けば落ちてしまう。偏差値を落としてゆとりある学校を受験すれば、私の性格上、気を抜いて料理を作って食べてしまう。結局どこの高校を受験するとしても私は受験勉強を頑張る必要があった。

 だから受験に臨むにあたり家にある料理本はつい読んでしまうからと金庫に入れて封印した。夕食作りを買って出たり、おやつを作ったり、料理動画を見る生活から料理を抜いて、勉強に切り替えたのである。

 端的に言って心が壊れそうだった。

 自分で決めてやったことだけど、食への関心一直線で生きていた私にとって、長く、苦しい日々だった。

 だから結局辛すぎて図書館に通いつめ、勉強の合間に料理本のコーナーを端から読む!なんて本末転倒なことを繰り返したりもしたけれど、それくらいきつかった。

 でも合格し見事入学を果たした今、受験勉強ともお別れだ。これからは料理を存分に楽しむことが出来る!

 あと二年くらいすれば今度は大学受験だけど、とりあえずこの一年は好きなものを作って食べることが出来る。夕飯を自由に決めることが出来る。

 八百屋さんに並ぶ野菜はどれも瑞々しく新鮮で、もうこのまま食べても絶対美味しいけど春野菜の天ぷら盛り合わせも美味しそうだ。