沖田くんが昨日言った、「明日の朝、話しような!」というのは、登校してきてホームルームが始まるまで話をするのではなく、いつもの通学よりはやく学校に来て話をしようというものだ。真木くんがついて行くと言ったから、心強さを感じると同時に、「朝、真木くん起きられるかな……」と不安も抱いたけど、真木くんはむしろ私を起こしてくれて、特に問題なく学校に来ることが出来た。

 廊下の壁には、すでに文化祭で行われるミスコンや、バンド、告白大会などの参加者を募集する張り紙や、美術部の展示のポスターが貼られていて、ところどころ集めたダンボールも置かれている。お化け屋敷を出し物に選んだクラスかもしれない。去年、隣のクラスが大型のお化け屋敷をするからと、たこ焼きをやるうちのクラスにまでダンボールを回収に来ていたこともあったし、早めに集めているのだろう。

「真木くん、童話喫茶でやりたいモチーフってある?」

「うーん……なんだろう。美味しいのがいい……」

 真木くんは大きな欠伸をしながら、ふらふらした足取りで歩いていく。もう少しで教室に着きそうというところで、何か物々しい声が聞こえ、私と彼は足を止めた。なんだか怒鳴るような声に様子を窺うと、教室の前で、沖田くんが誰かと電話をしているようだった。沖田くんは怒っているらしい。険しい顔付きで語気を荒げている。

「だから……いつになったら帰ってくる気だよ!」

 沖田くんはいつもクラスのムードメーカーで、イライラしている男子がいたら率先して話しかけるような、そんな生徒だ。今まで大声で笑ったり男女問わずふざけたことを言って、先生に怒られている姿は見たことがあるけれど、怒っている姿は見たことがない。びっくりして真木くんの腕を掴む。

「最近、ずっと朝帰りしてるよな。隠してるみたいだけど、全部分かってんだよ」

 沖田くんは悔しそうに「お前、そのうち刺殺されても知らねえから。つうか、お前が犯人なんじゃねえの?」と、吐き捨てるように言って電話を切る。あまりに荒々しい態度で驚いていると、彼はこちらに振り向いた。

「あ、えっと園村と――真木、おはよ」

「おはよう沖田くん」

「おは……」

 沖田くんはばつが悪そうにしながらも、手を上げてこちらに近付いてきた。「早いな」なんて言いながら、頭をかいている。言葉を選んでいると、後ろから「早いなーお前ら!」と、とても大きな声が響いた。

「お? 驚かせたか!? 悪い悪い。なんだ? 文化祭で何か決めるのか?」

「えっと、童話喫茶でどんな絵本をモチーフにするか決めようという話になって――……」

「そーかそーか! ならこんな廊下突っ立ってないで座って話しろよ。教室開いてただろ?」

 だいちゃん先生は不思議そうにしながら、布をかけた薄い箱のようなもの――パネルか何かを抱え、大股で歩いてくる。「先生は……?」と沖田くんが尋ねると、先生は「俺は朝の教室で絵を描くのが好きなんだ!」と、右手で持っていた筆と水入れを揺らした。水入れの中には絵の具もいれているらしく、一つこぼれ落ちた。

 色の名前も書いてない絵の具を、真木くんはさっと拾って先生に渡す。

「せんせ、どうぞ……」

「悪いな真木! ありがとう!」

 だいちゃん先生が教卓にバンッと絵の具や水入れ、筆を置いて、ガタガタと音を立てながら絵を描く準備を始めていく。色とりどりの絵の具たちは、私たちが美術の授業で配られた十二色よりずっと多くて、鮮やかに見える。けれど先生はそれらをパレットに出すこと無く、「で、どうするんだ? 童話喫茶」と、私たちに振り向いた。

「え……」

「生徒が文化祭で案出し合ってんのに、担任の俺がのこのこ絵描いてちゃ駄目だろ。ほら、先生が黒板に書いてってやっから」

 先生は黒板にチョークを立てた。私は慌てて昨日調べていたページと、メモ帳のアプリを開く。昨日は途中で寝てしまっていて、どこまで書いたか記憶がない。おそるおそる確認すると、想像よりずっと案出しが終わっていた。

「赤ずきんで、ぶどうジュースとか、桃太郎できびだんご……ヘンゼルとグレーテルで、パンとか、アリスだとティーパーティーのメニューがあると思って、食べ物の出る童話を選んでいったらいいと思うんですけど……」

「たしかに! 一寸法師やかぐや姫は皆が思いつくこれってもの、無いもんな。俺も不思議のアリス良いと思う。女子好きだし。それにほら、昨日見つけてきたんだけど……」

 沖田くんがポケットからスマホを取り出して、何やら打ち込み始めた。そうして差し出されたスマホの画面には、アリスをモチーフにしたゲームのコラボカフェの内装が映っている。

「やっぱり、色んな童話とかにするより、そろえたほうが良いのかなー……」

「世界観はまとめたほうがいいかもしれないな」

 だいちゃん先生もスマホを覗き込んで考え込む。真木くんも「うぅ〜ん」と考え込んだ様子だ。沖田くんはスマホを操作しながら、他の画像もスライドしていく。

「皆童話カフェって決まった時、結構適当な感じだったし、結構多数決なくノリだったじゃん? だから、ガツン! って結構具体的なテーマにしたほうが良いと思うんだよな」

「そうだね、内装の費用とかもあるし、去年劇だったけど、衣装にお金かかるモチーフだと、喫茶店の食べ物代までお金回らなくなっちゃうし……」

 確かに、去年劇をした時、文化祭委員の子が衣装代までお金が回らない! と困っていた記憶がある。劇で使っていただろう大道具や小道具、背景の予算が内装費にあたるとして、切り詰めていかないといけない。いっそモチーフを一つにしてしまえば、内装の布とかと衣装の布を共用に出来たりするだろう。

「じゃあ、皆には、童話喫茶のメインテーマとして不思議の国のアリスカフェを提案するとして、決めなきゃいけないのは調理と、売り子と、内装、衣装係だよね」

「でも、調達は会計担当の委員の役割だから、買い出しは俺らで、皆には作成を中心にやってもらったほうがいいかも。去年買い出ししたきり帰ってこない奴ら出なかった?」

「あー……」

 去年、私のクラスではサッカー部の男子がペンキを買いに行って、そのまま帰ってこず作業が中断……なんてことになった。結局男子たちは「次の日持っていけばいいと思って」と言って、サッカー部の男子とクラスの女子が少しギスギスした記憶がある。「こっちで買ったほうがいいね」と返して、ふと隣にいた真木くんが、だいちゃん先生の絵をじっと眺めていることに気づいた。

 先生も、自分の横からひょっこり顔を出している真木くんに気づいたらしく、「なんだぁ真木ぃ〜絵に興味があるのか?」と、やや照れくさそうに笑った。

「先生の絵、初めて見る……」

「そうかぁ? 俺結構お前らに見せてると思うんだけどなぁ。まぁ、真木は授業中寝てることも多いからな。ははは! どうだ、キラキラして見えるだろう? 絵が上手いとなぁ、こうして絵がキラキラするんだ」

 パネルにはすごく細密な鉛筆画が描かれていた。題材は、現代版モナリザ……だろうか? 50センチほどの正方形のパネルの中央には、清楚な雰囲気の女性が描かれている。

 やや長めの黒髪で、鉛筆で描いているはずなのに実物を見ているように艶めいて、瞳も、まるで生きているみたいだ。もう十分これで完成に思えるけど、背景の部分はうっすらと色が塗っている。そこには綺麗な花々や、楽しそうな人々が描かれていて、楽しそうで明るい、パステルカラーのアクリル画だ。

 でも、朝日を受けて絵自体が輝いている。どうやって描いたのか不思議だ。

「上手い人の絵は、輝きも描けるんですね……」

 私の言葉に、だいちゃん先生が「あっははは!」と吹き出した。戸惑えば「いや、いくら絵が上手くても物理的にキラキラさせて見せるなんて無理だからな。いやぁ、園村は純粋だなぁ」と目に涙すら浮かべる。やがて先生は咳払いをして、パネルのキラキラ部分を指差した。

「メディウムっていう、絵の具の発色を良くしたり、艶を出したりする液があるんだ。それをノリ代わりにして、水晶末ってやつをふりかけたんだ」

「水晶末?」

「鉱石砕いて、粉末にしたやつっていうのが一番わかり易い例えになるのかなぁ? 日本画の画材なんだよ。お前ら修学旅行とか、旅番組の旅館とかで、屏風とか掛け軸に絵が描いてあったりしただろ。ああいう絵だ」

 思えば小学生の頃、旅館に泊まった時、掛け軸を見た覚えがある。それも先生の絵みたいにキラキラ光っていたような……。でも、もう何年も前のことだから記憶も曖昧だ。正直、小学校の頃どこへ行ったのかも、今ぱっと出てこない。

「まぁ、日本画に興味ある高校生は珍しいし、知らなくて当然だ。俺も高校のときは絵なんて描かなかったからな」

「え、そうなんすか? てっきり小さい頃からだとばっかり……」

 沖田くんが意外そうに目を丸くした。私も、先生が高校生の時に絵を描かなかったことに、びっくりした。今まで会った絵の上手い子は、みんな小さい頃から絵が好きで……とか、幼稚園から描いていたという子ばっかりだった。

 たった一人の例外は、真木くん。

 彼は引っ越してすぐの頃、一緒に絵を描いたりしていて、「大人に頼まれる以外で絵を描くのは初めて」と言いながらも、ものすごく細密な紫陽花を描いていた。そして、絵が好きなのか問いかければ「わからない」なんて言ったりした。他にも絵のうまい子達はいたけど、皆、小さい頃から練習してきたと言っていた。
「俺、昔びっくりするくらいヤンキーでさ、あー……今もしかしてヤンキーって死語か? 不良でさ。そんな時に姉貴がバイクとかで暴れるくらいなら、絵でも描いてろって俺のこと更正させてくれて。姉貴のことかっけえなぁって教師になったんだよ。姉貴、委員長の標本みたいなタイプでさぁ。ま、今は俺の方が絵上手いけどな」

 わはは! とだいちゃん先生は豪快に笑った。かと思いきや、「そういやお前兄弟いたなぁ……あれ、いなかったか?」と沖田くんの肩を叩いた。

「弟たちが……」

「どうだ? 元気か?」

「まぁ……そこそこですかね……」

「そーかそーか。兄弟大事にしなきゃ駄目だぞ? ちゃんと、お兄さんのことも」

 だいちゃん先生が付け足すと、沖田くんが「はい……」と複雑そうに返事をした。先生はそのまま、「水汲んでくるわ!」と教室を後にする。なんとなく、さっきの電話を聞いたこともあって、沖田くんとは気まずい。

 かといって真木くんだけに話しかけるのも仲間外れみたいだ。それに、真木くんは先生の絵をじっと見ていて、邪魔をするのも申し訳ない。私は結局、無難な話題を沖田くんに持ちかけた。

「ぶ、文化祭……楽しみだね」

「おう。俺、一番文化祭好きだわ」

 どうやら、大丈夫な話題だったらしい。沖田くんは表情を和らげた。

「つうか、この高校入ったのも、文化祭見ていいなって思ってたからでさ。三回くらい来たことあって、お化け屋敷とか、遊園地とかの本格的なやつより、文化祭の手作り感があるほうが好きで」

 お化け屋敷は、真木くんが嫌うから行ったことがない。真木くんは暗闇が苦手で、特に閉所と暗闇の組み合わせは最悪だ。お化け屋敷は、前を通るだけでも身体を強ばらせているくらいだった。だから中学のころも、高校の時も、お化け屋敷をしているクラスの前は通らないようにしていた。

 でも、行ったことはないまでも、なんとなく遊園地と高校の文化祭のお化け屋敷が違うことも分かる。

「あと……あれ、文化祭終わるとさ、最後に風船飛ばすじゃん。ぶわって。それが好きでさ」

 沖田くんの言う通り、高校の文化祭では最後にみんなで風船を飛ばす、バルーンリリースのイベントがある。生徒会主催で、文化祭の終わりを示すとともに、それまで準備をしていた生徒たちへのねぎらいの意味もあるらしい。沖田くんは目を輝かせながら、青空の広がる窓へと目を向けた。

「もし、文化祭を開く側で、この景色見れたらどう思うんだろう……って思ってて、去年も文化祭委員やってすげぇ良くてさ、だから今年も文化祭委員に立候補してさ」

「そうだったんだ……」

 文化祭は、楽しい行事だと思う。中学校の頃、色々行事があったけど、思い出すのは文化祭だ。でも、ここまで文化祭に思い入れを持つ人がいるなんて考えもしなかった。成功させたいな……と思う。なんだか、文化祭委員になってしまって嫌だなぁと感じたのが、申し訳ないくらいだ。

「私、頑張るね」

「おう、がんばろうぜ園村」

 沖田くんがガッツポーズをしながら笑った。すると、それまでじっとだいちゃん先生の絵を見ていた真木くんが沖田くんに顔を向ける。

「沖田……」

「ん? 真木どうした?」

「俺も頑張る……だから、俺からあんまめーちゃん取んないで……」

 ぎゅう、と真木くんが私の裾を握りしめた。沖田くんは「なんか、真木って園村の弟みたいだよな」と笑っているけれど、どことなく真木くんの様子に違和感を覚える。

「文化祭の話……して……」

「はは! 乗り気だな真木! じゃあ、俺らの出し物について考えますかぁ!」

「ん」

 真木くんは先生の絵から離れて、私と沖田くんのそばに立つ。長い前髪をたらしているからその表情は見えないけれど、これまでの経験上、どうにも真木くんが文化祭に乗り気なようには思えなかった。

◆◆◆

「あー終わった……。めーちゃんお疲れ様」

「うん、お疲れさま、真木くん」

 放課後の公園で、二人並んでベンチに座る。真木くんが地面に向かって伸びをしながら、ふぅ、と一息ついた。俯く真木くんは肩にかかる髪の長さも相まって、女の子に見える時もある。彼は髪の長さにこだわりがあるようで、もうかれこれ五、六年はこの髪型だ。

 私は真木くんのふわふわした猫っ毛に触れながら、赤くなっていく夕焼けを眺める。

 朝にした文化祭の打ち合わせの結果、明日の朝、内装係や衣装作成のリーダー決めをすることになった。今朝でも良かったけれど、人身事故があったことであまり人が集まらず、放課後もすぐに委員会があって出来なかった。

 そうして文化祭委員会も終え、私たちは公園で休憩している。

 バスの乗り換えの中継地点であるこの公園は、私と真木くんの家から学校までの中間地点でもある。そして天気のいい日の帰り道はここのベンチに座り、適当な話をしてから帰るのが習慣だ。

 大抵第一声は、お疲れさま。さっきまで一緒に歩いていたけれど、なんとなく染み着いた癖のようなもので真木くんもつい言ってしまうし、私もつい言ってしまう。

「今日も一日だるかった……」

「あ、真木くん。委員会も一緒に来てくれてありがとうね」

「んーん。気にしないで……」

 はじめ、真木くんを文化祭委員会に連れて行っていいのかな……? と不安に思っていたけれど、委員会にはボランティアスタッフという枠があるらしく、彼の存在は受け入れられていた。文化祭委員の友達を手伝いに行く、なんてことも多いみたいだったし、本当に良かった。ただ、失敗をしないか警戒はされていたけど……。

 それにしても、今日は大変だったなぁと伸びをしていると、真木くんがぼそりと「沖田」とつぶやく。

「ん? 沖田くんがどうかしたの?」

「あんま、近く行かないで……めーちゃん朝、近かったよ、沖田と」

 じっとりと、拗ねた目で真木くんは私を見た。「分かった」と頷くと、「分かってない」と唇を尖らせる。

「分かってないよ……なんにも。めーちゃん、次沖田と近い近いしたら、俺、怒っちゃう……」

「えぇ、で、でも、文化祭委員で一緒に仕事するんだよ? それに、言うほど近いかな……」

 思い返してみても、隣の席になった程度にしか沖田くんとは近付いていない。しかし真木くんは「むー」と、抗議するように私の袖を握りしめる。

「もう、おうち帰る。めーちゃん分かってくんない……」

「えっちょっと真木くん!」

 真木くんは立ち上がると、私の手を取りどんどん歩きだした。なんだろう。今日の彼は機嫌が悪いように思う。朝も様子が変だったし……。あやすように「真木くん、ちょっと話しよう? 止まって、ね?」と声をかけていると、「やあだ」と間延びした返事がかえってきた。

「真木くん、なんか沖田くんに対してだけ、ちょっと変だよ」

「変じゃないよ……」

「だって、今までそんなこと一度も言ってこなかったし……」

「沖田が変だからだよ……」

「沖田くんになにかされたの?」

「されてない。めーちゃんに意地悪されてる……いじめられてる……うぅ」

 そう言って、彼は立ち止まる。気づけば公園を出ていて、辺りを見渡すと住宅街が広がっていた。この場所は来たことがない。公園からはそう遠くないはずだけど、石造りの塀や、トタン屋根のアパートのどれもに見覚えがなくて、漠然とした不安を抱いた。

「真木くん、おうち帰ろう?」

「ここ泊まる」

「真木くん……」

「泊まるの……」

「とにかく一度公園に戻ろう?」

 彼の手をしっかり握り、踵を返そうとすると、ふいに握っていた手が引っ張られた。

「芽依菜」

 ぼそっと、いつもより低い真木くんの声が耳をかすめる。それと同時に私たちの後ろからパーカーを着た男の人が通り過ぎて、すぐに「待て!」と、こちらに向かって警察官の人が駆けてきた。状況も把握できぬまま、邪魔にならぬよう立ち止まっていると、警察官は、あろうことか真木くんの腕を掴んで取り押さえてしまった。
「公務執行妨害で現行犯逮捕! ったく、手間かけさせやがって」

 警察官の手によって、真木くんの腕にがちゃりと手錠がかけられる。私は一気に血の気が引いた。

「え? ま、待ってください、なにかの間違いです! 真木くんが一体なにを?」

「は? あれ、人質……?」

 警察官の人が、眉間にシワを寄せた。なんで真木くんが逮捕なんて……? どこかに突っ込んで器物破損とか、線路の中に間違って入っちゃったとか、逮捕されるとしてもそういうことのはずだ。公務執行妨害なんて絶対しない。絶対に誤解している。

「君、こいつとどういう関係?」

「お、幼馴染です。高校が一緒で……それで、あの、真木くん、真木くん何もしてないはずです。絶対、誤解で――」

 なんとか真木くんを離してもらう為、説得を試みようとすると、警察官の人は「ひとまず君も事情を聞くから」と、全く取り合ってくれないまま、私たちは警察署へ連れられてしまったのだった。

◇◇◇

「犯人逃しただけじゃなく見間違えて市民に手錠までかけた挙げ句、警察署に連行するなんて何やってんだお前は!」

 そう言って、私の前に座るスーツの女の人が机を叩き、物々しい音が応接室に響く。女の刑事さんの隣には、先程真木くんを捕まえた警察官の人が立っていて、じっと頭を下げていた。

「本当に、申し訳ございませんでした。迷惑をかけてしまって……」

 あれから私と真木くんは警察官によって警察署に連れてこられた。けれど到着して早々に、今目の前で申し訳なさそうにする女の人の手によって、真木くんの手錠は外され、私たちは応接室に通された。状況から察するに、真木くんの逮捕は間違いらしい。彼は自分の腕をじっと見つめ、手錠をかけられていたところをさすっている。

「東条も謝りなさい」

「ご、ごめんな、きみたち」

「馬鹿じゃないの? 貴方それ、自分より年上の相手を間違えて取り押さえて! 手錠をかけて警察署に無理やり引っ張り込んだ時も同じように謝るの?」

「それは……」

 さっき真木くんを捕まえた警察官は、東条さんというらしい。東条さんはばつが悪そうに「この度は、申し訳ございませんでした」と頭を下げる。

「気にしなくて、いーです。痛かったけど……」

 真木くんは私の袖をきゅっと握りしめた。そして窺うように東条さんを見ている。一方、東条さんの上司らしい女の人は、「もし、学校で今日のことが他のお友達に見られて困ったことがあったら、すぐ言ってね。ここに連絡先が書いてあるから」と、名刺を差し出してきた。

 女の人は、乃木さんというらしい。真木くんは乃木さんの名刺を受け取ると、「失くしちゃうからめーちゃん持ってて」と渡してきた。そのやり取りに、目の前の二人は怪訝な顔をする。私は慌てて、「失くし物が多くて、他意はないんです」と付け足した。
「そうなの……? でも彼、高校生よね……?」

「はい。真木くんはあんまりそういこと、得意ではなくて」

 乃木さんは「なるほどね……」と、それ以上追求することなく口を閉じた。改めて応接室のまわりを見渡し、もう帰っていいか切り出そうか悩んでいると、何人かの足音がこちらに向かってくる音がして、バンッと扉が開かれた。

「大変です! 東条が逃した沖田、捕まりました!」

「今行きます!」

 東条さんは、音を立てて椅子から立ち上がると、足早に部屋を後にしようとする。しかしすぐに乃木さんに、「貴方はその子達を見送って」と命じ、部屋を出ていった。さっき、外にいる刑事さんは「沖田」と言った……?

「じゃあ、署の出口まで送って――送りますので、こちらどうぞ」

 東条さんが嫌そうに私たちを廊下へ出るよう促した。真木くんは今日情緒が安定しないし、早めに帰ろうと彼を気遣いながら廊下に出た。すると、「暴れるな!」「押さえろ!」と、騒動が起きたような声とともに、ばたばたと人が駆けてきた。

 こちらに走ってくるのは、どこか見覚えのある男の人だった。もしかして昨日真木くんとぶつかって、舌打ちをした人かもしれない。今日は昨日と違う作業着姿で、背中に工場かなにかの名前が書かれている。男の人は逃げようとして、一直線にこちらに走ってきて――すぐに警察官の人たちに取り押さえられてしまった。

「離せっ、俺はなにもしてねえって言ってんだろ!」

「じゃあ何でお前三回も逃げてるんだよ。職務質問で逃げるってことはなんかやってるよなぁ? 何もしてないやつはなぁ、警官突き飛ばして逃げたりしねえんだよ!」

 そう言って押さえつける警察官に、男の人は「どけよ!」と怒鳴り、反抗している。抵抗する男の人の作業着の下には、今日真木くんが着ていたのと同じような、真っ黒いパーカーが見えた。もしかして、真木くんはこの人と間違えられて逮捕されたのでは……?

「兄貴!?」

 観察するのもつかの間、私は警察署の出入り口に立つ人影に唖然とした。そこには、制服姿で顔面蒼白にした沖田くんがいたのだ。彼が「何してるんだよ」と怒鳴ると、男の人は先程まで抵抗していた力を緩めたように見えた。すると警察官の人たちは男の人を取り押さえてしまった。そのまま彼が連行される一方で、沖田くんは目を見開き、私もどうしていいか分からず動きを止める。真木くんは、ぼーっと床を見ていたかと思えば、「めーちゃんのおかあさん、こんにちは」と、場違いなほどのんびりした声で手を上げた。

「芽依菜、真木くん……え、いったいどうしたの?」

「園村警部?」

 お母さんが廊下の先からやってきて、東条さんが私とお母さんを見比べる。「母です」と私は伝えた後、お母さんに近寄った。

「実は、真木くんが間違えて逮捕されちゃって……」

「真木くんが?」

 お母さんは怪訝な顔で真木くんを見た後、東条さんに「何があったの?」と問いかける。東条さんが「自分が、間違えて署に連行してしまい……申し訳ございません」と頭を下げた。

「事情は後から聞くけど……、えっと、あの子は芽依菜の知り合い?」

「沖田くん、同じクラスの……文化祭委員一緒にするって言ってた……」

「ああ、容疑者の弟が……」

 私が沖田くんについて説明すると、お母さんはそう呟いて、彼へと近付いていく。

「ごめんなさい。お兄さんには今捜査中の事件の話が聞きたくて、しばらく署にいてもらうことになると思う。お兄さん以外の大人のひとの連絡先は分かる?」

「じいちゃんと、ばぁちゃん……でも、新幹線で来なきゃいけないから、迎えには……」

「分かった。とりあえず、君の帰宅には責任をもつから、こっちに来てもらってもいい?」

「はい……」

 沖田くんはがっくりと肩を落としながら、お母さんについていく。お母さんは東条さんに、「二人を家まで送り届けてもらえる?」とお願いして、沖田くんを伴い署の奥へと歩いていった。

「では、パトカーで家まで送るので……」

 東条さんが、バツが悪そうにこちらへ振り返る。そうして私たちは、警察署から家へと帰ることになったのだった。
◆◆◆

「今日は大変だったね真木くん……」

 あれから、私たちは家の前まで送ってもらって、いつもより三時間ほど遅れて帰ってきた。いつもは暗闇が嫌いな真木くんの為、暗くなる前に帰るようにしているけれど、もう空はすっかり群青色に染まっている。頼りなさげな外灯と、ぽつりぽつり点いている住宅街の光だけが、物の輪郭をはっきりさせていた。

「うん。手錠やられたとこ、いたい……」

 真木くんはさっきからずっと腕をさすっている。後で保冷剤とかで冷やして、クリームも塗っておかないと。あと、治った後は掻いたりしないよう、包帯を巻いたほうが……。あれこれ真木くんの手当てに就いて考えていると、彼は「めーちゃん」と、甘えるみたいに名前を呼んできた。