「ごめんなさい」
 倒れている男性を残していくのは気が引けたが、東吉の言うように優先しなければならないのは柚子自身。
 玲夜から護衛としてついているなら、その辺りのことは承知しているはず。
 逆にここに留まることで柚子になにかあった方が、彼は後で玲夜からひどいお叱りを受けてしまうだろう。
 後ろ髪を引かれる思いで、そっとその場を離れた。
 向かうのは、曲がったところに止められているという車だ。
 それにしても、気になるのはあの黒いもやのこと。
「ねえ、あのもやはあなたの力でどうにかならないの?」
 きっと護衛が倒れたのは、あのもやが原因ではないかと柚子は思った。
 あれをなんとかできるならば……。
 霊獣である龍ならばその力があるのではと思ったのだ。
 なにせ玲夜どころか当主である千夜ですら手を焼いた霊獣なのだから。
 しかし。
『我の力ではあれは無理だ。あれからは強い負の力を感じる。あれは神子であったサクのように、祓う力を持った者でなくてはできぬ。我に祓う力はないのだよ』
「神子……。私じゃあ無理?」
『そうだな。残念ながら柚子にはサクほどの祓う力は持っておらぬ』
「そっか……」
 自分の力のなさがもどかしい。
 結局護ってもらうことしかできないのだ。
 見えるだけではなんの役にも立たない。
「役立たずだなぁ、私」
『そう自分を責めるものではないぞ。だれにも向き不向きというものがある。それに、あれが見えているだけで柚子は凄いのだ。普通は見えないものだからな』
「見えても、なにもできないんじゃあな……」
 慰めてくれる龍の言葉はありがたいが、柚子の心を晴らしてはくれない。
「あーい?」
「あい」
 なんだか気落ちしている子鬼がよしよしと撫でてくれるのが救いだ。
「おっ、車ってあれだろ」
「まあ、こんな住宅街にあんな高級車普通ないわよね」
 そんな話をしている東吉と透子の視線の先には黒塗りの高級車。
 柚子たちは護衛の人が倒れたことを伝えるためにも、急いで車へ向かって走った。
「おーい」
「おーい、開けてー」
「あーい」
「あいあい」
 必死で反応のない運転席の窓を叩く。
 子鬼たちはフロント硝子の方から、ぴょんぴょん跳んで主張するが、運転席に座っている運転手はピクリとも動かない。
「あーい?」
 子鬼が不思議そうに首を傾げる。
「にゃん吉、寝てるの?」
 じーっと硝子越しに運転手の様子を窺う東吉に透子が問うと、東吉は首を横に振った。
「いや、寝てるのか、さっきの護衛みたいに気絶してるのか分からんが、一応生きてる」
「にゃん吉君、ちょっとどいて」
「お、おう」
 柚子が代わりに硝子越しに運転手を見ると、その体にうっすらともやが見えた。
「この人もだ」
 同じように張り付いて見ていた龍も険しい顔をする。
「ああ、もう。どうなってんのよ!?」
「怒ってもどうにもならねぇだろ。とりあえずうちの車を呼ぶからちょっと待て」
 透子が怒って東吉が抑えている横で、龍は冷静に話す。
『柚子、お主の旦那に電話した方がよい』
「うん、分かった」
 柚子はスマホを出して玲夜に電話をかけようと操作していると……。
「柚子」
 はっと動きを止めた柚子が、ゆっくりと声のした方を見る。
「……優生……」
 柚子の顔が強張った。
「奇遇だね、柚子。あっ、もしかしておばさんの新居のお祝いに行くの?」
 前のことなどなかったかのように話す優生の表情は、柚子がよく知る人好きのする笑顔で、同窓会の時のことがまるで夢だったかのように感じてしまう。
 けれど、あれは現実にあったことだ。
 フロント硝子にいた子鬼たちは、柚子の肩に飛び乗り警戒を露わにする。
 そしてそれは龍も同じで、わずかな動きも見逃すまいとじっと睨み付けていた。
「柚子? 反応ないけどどうかしたの?」
 あんなことをしておきながら悪びれない優生の反応に柚子はカッとなる。
「どうかしたのじゃないでしょう? そっちこそどういうつもりなの?」
「どういうつもりって?」
「この車の運転手……それに護衛の人だってっ。あんなふうにしたのは優生じゃないの!?」
「なんのこと?」
「惚けないで! あのもやはあなたが原因でしょう!?」
 すると、優生は心底驚いたというように目をわずかに見開いた。
「へぇ、あれが見えてるんだ。やっぱり柚子は彼女と同じ魂を持つ者ということかな。まあ、見えるだけで彼女のように祓う力はないようだけど」
 そう言って優生はそれまでと違う不気味さを感じる笑みを浮かべた。
「なに言ってるの?」
「残念ながら記憶はなしか。まあ、そんなこと関係ない」
 ぶつぶつと呟いている優生に気味の悪さを感じる柚子はじりじりと後ろに下がる。
 それとは反対に透子が前に出た。
「こんのぉ、優生! あんたどの面下げて柚子の前に顔出してきたのよ」
「やあ、透子もいたのか」
「いたのか、じゃないわよ! 柚子を悲しませるようなことしてただじゃおかな……っっ」
 優生の胸倉を捕まん勢いで近付いた透子を、優生はなんの躊躇いもなく透子を力いっぱい振り払った。
 あまりに突然のことで声もなく地面に倒れ込んだ透子に、柚子は息をのみ、東吉が慌てて駆け寄る。
「透子!」
「いてて……」
「怪我は?」
「ちょっと擦りむいただけ。……とに、なにすんのよ、優生!?」
 地面に座り込んだまま、優生をぎろりと睨み付ける透子と、透子を庇うように抱き寄せる東吉。
「俺と柚子の邪魔をする者はだれだろうと許さないよ」
 そう口にする優生のその目はひどく冷たく、思わず透子が勢いをなくしてしまうほどだった。
 優生は柚子に目を向けると、ころりと表情を変えた。
 先程までの背筋を凍らせるような眼差しから、爽やかな好青年のような笑顔に。
 とても同じ人物とは思えないその変わりようが、逆に怖さを強くさせる。
「柚子、俺の所においで」
「なにを言ってるの?」
「君に鬼など相応しくない。あんな醜悪な存在は淘汰されるべきだ。同じ空気を吸うのも虫唾が走る。君には俺こそが相応しい」
 まるで自分の言葉に陶酔するかのように語る優生は、右手を柚子に差し出す。
「ほら、その指につけている忌々しいものを捨てて、こっちに来るんだ」
 柚子は左手の指にはまる指輪を見た。
 玲夜がその霊力を込めて時間をかけて作った指輪。
 それは柚子への深い玲夜の想いが詰まっている。
 それを、そんな大事なものを柚子が自分から外すことなどない。
 そんなことはなにがあってもあり得ない。
「馬鹿言わないで。私は玲夜が好きなの。玲夜以外を選ぶことなんてない。その手を取ったりなんかしない!」
 指輪をした左手を右手で握り締めて、柚子は強い眼差しで優生を見る。
 優生はやれやれというように息を吐く。
「後悔するよ」
「しない。私には玲夜が必要だもの」
「そのために他のだれかが傷付いたとしても同じことが言えるのかな?」
「……どういうこと?」
 不敵に笑う優生に、不安が押し寄せる。
 優生は一瞬視線を透子に向けた。
「透子、最近体調が悪いんだってね?」
「どうしてそれを……」
 柚子は訝しむ。
「柚子、これは警告だ。じゃないと柚子の周りの人が不幸になるよ? そうしたくなければ、早く鬼とは手を切るんだ。君がいるべき場所はそこじゃない。俺と共にあることこそが君に決められた運命なんだよ」
 優しく、まるで恋人に睦言を囁くような優生の声に、柚子はなにも言えなくなる。
「……っ」
 本当は言い返したい。その言葉が喉元まで出かかっていたのだが、なんとも言えない不安が胸の中に渦巻く。
 もし、拒否したらどうなるのだろうか。
 そんな恐れが柚子を動けなくさせた。
 そんな柚子に代わり、龍が本来の姿に戻る。
『ほざくな小僧! 柚子には柚子を愛し愛される存在がいる。その者と共にいることこそが柚子の幸せ。そこにお前の居場所はない!』
 グウゥゥと喉を鳴らすように威嚇する龍に、優生は変わらぬ笑みを浮かべる。
「サクの腰巾着か。せっかく引き離したのに、舞い戻ってくるとは。いっそあの時に消しておくべきだったかな」
 ニィと口角を上げる優生に、龍は怒りを露わにする。
『そのせいでサクがどんな目にあったか知っての言葉か!?』
「仕方ないことだ。俺を選ばないから。柚子はそんな愚かなことはしないよね?」
 視線を向けられた柚子はびくりと体を震わせる。
 先程から優先の言動には引っ掛かることが多々ある。
 柚子では意味の分からないことも口にしていて、戸惑いの方が大きい。
「さあ、柚子、おいで。君は俺のそばにいるんだ」
 分からないことが多いけれど、ひとつだけ分かっている確かなことがある。
「いやよ。私は玲夜のそばにいるから」
 その想いだけは変えられることのない確かなものだ。
 きっぱりと断られた優生は残念そうに溜息を吐く。
「柚子がそこまで愚かだとはね。まあ、いい。今日はこれで退散しよう」
 そう言って柚子の横を通り過ぎる。
「ただし、それなりの覚悟はしておくことだ。じゃあね、柚子。……それに透子も、体には気を付けて」
 ヒラヒラと手を振って優生は行ってしまった。
 残された柚子たちが呆然と動けずにいると、車の中にいた運転手が目を覚ます。
 はっとしたように周囲をきょろきょろして、柚子たちの存在に気が付くと、慌てて車から出てきた。
「柚子様! も、申し訳ありません。いつの間にか寝ていたようで……」
 護衛中に寝るなど本来ならあり得ない。
 恐縮する運転手の体には、先程見たもやは微かにも存在していなかった。
 そして、そのすぐ後、角から先程突然倒れた護衛の男性が走ってくるのが見えた。
 彼にも、もうもやはまとわりついていなかった。
 あれがなにか分からないが、優生がしたことだという確信が持てた。
 そうでなければこんなにもタイミングがいいはずがない。
 それから少し間を置いて、続々と玲夜が付けただろう護衛たちが姿を現したのだった。
 だれもが申し訳なさそうに平身低頭し通しで、それは猫田家の護衛も同じだった。
 お互いにあったことを話合うと、護衛たちの方は全員気を失っていたのだという。
 だれもが表情を暗くする中、特に鬼たちの顔色がすこぶる悪い。
「俺ら玲夜様に殺されるかな……?」
「いや、せめて半殺し……」
「ああ~。俺は新婚なのに妻を残していくのかぁ!?」
「玲夜様より千夜様だ。このことをお知りになったら……」
「うああああ~。千夜様のお仕置きは嫌だぁ」
 ちょっと、いやかなり動揺しているのが分かる。
「えっと……結局私はなにもされてないから黙っててもいいですよ?」
 好意からの提案だったが、そこはプロ。
 断固として首を縦には振らなかった。
 そして、だれが玲夜に報告するかのなすり付け合いが始まったかと思うと、あみだくじが始まり、当選してしまったひとりが、死地に赴くかのごとく表情で電話をする。
 相手は玲夜なのだろう。
 だが、柚子はどうなったか分からぬまま、車に乗って猫田家で透子と東吉を下ろしてから、玲夜の屋敷へと戻ったのだった。
 その間、龍は恐い顔で無言のままだった。