けれど、そんな保護者にいつまでも頼ってばかりもいられない。
柚子は玲夜が帰ってくる日を見計らって玄関で待ち構えた。
仁王立ちする柚子に目を丸くした玲夜は、次の瞬間には甘くとろけるような顔に変わる。
「待っていたのか?」
「うん」
柚子は並々ならぬ決意を持って待っていたのだが、玲夜はそんなこと知るよしもなく、愛しい花嫁に出迎えられたことを素直に喜んで柚子にキスを迫る。
が、それを受け入れるのは今ではない。
さっと避けた柚子に、玲夜は眉間に皺を寄せる。
「どうして逃げる」
「話があるの」
「……却下だ」
「まだなにも言ってないのに!」
話す前からすでに却下されて柚子は大いに慌てた。
どうやら柚子が言わんとしていることを玲夜は察しているらしい。
玄関を上がると、ズンズンと自室に向けて歩いて行く。
それを柚子は必死の顔で追いかけた。
「玲夜ぁ」
「…………」
目の前でパタリと閉まる扉の前でうろうろして少しすると、扉が開き、スーツから部屋着の和服に着替えた玲夜が姿を見せた。
柚子は問答無用で部屋に押し入る。
「玲夜、大学卒業後の進路のことなんだけど」
「だから、却下だ」
「どうして? インターンの応募だって勝手に辞退しちゃうし」
「当たり前だ。大事な花嫁をよそに出せるか」
「応募した中には玲夜の会社のもあったじゃない」
駄目元で一応応募していたのだ。
応募しても、大会社の頂点にある玲夜の所までインターンの名簿など行かないだろうと思っていたがそう甘くなかったようだ。
「玲夜の会社なら働いても問題ないでしょう?」
「駄目だと言ってる」
「……ケチ」
ぼそっと呟いた言葉はばっちり玲夜に聞こえたようだ。
妖しげな笑みを向けられる。
「柚子」
「な、なんでしょう?」
なぜだろうか。肉食獣に睨まれた草食動物の気分になるのは。
言い過ぎたかと後悔したがもう遅い。
「最近は随分と俺に対して遠慮がなくなったな」
「そ、そうかな? 気のせいじゃないかな。あ、ははっ……」
乾いた笑いで誤魔化すが、誤魔化されてくれる玲夜ではない。
「それだけ俺に慣れたなら、いっそ結婚を早めるか?」
柚子はぶんぶんと首を大きく横に振る。
だが、勢いよく否定した後になって、そんなに否定しては結婚を嫌がっていると思い違いをされかねないのではと心配になる。
すると、玲夜はそれはもう深い溜息を吐いて、柚子と向き合う。
「そもそも、柚子はどうして働きたい?」
「どうしてって……。働くのは当たり前のことじゃないの? 玲夜だって働いてるじゃない」
「多くの人は生活するために働いている。金を稼ぎ生きていくためにな。そのために嫌な仕事でも文句を言いながら仕方なく働いている者がほとんどだろう。残念ながら俺もそのひとりだ。俺に与えられた責任を果たすために働いている。自分のしたいことで金を稼ぎ生きていけている者はほんのひと握りだろう」
「うん」
柚子は静かに頷いた。
「そんな中で、柚子は別に嫌々仕事をする必要のない立場だ。それは理解しているな?」
「……うん」
玲夜のすねを大いにかじっている柚子は、働かずとも生きていける。
お金を稼ぐ必要などないのだ。
それでもここまでしつこく働きたいと言うのは、それが普通の一般社会に生きている者なら当然のことだと思っているから。
別に仕事が好きなわけではない。
「もう一度聞くぞ。柚子はどうして働きたい?」
「それは……。玲夜の役に立ちたいし」
「俺のためを思うなら、この屋敷で俺の帰りを待っていてくれる方がよほどためになる。働く方が迷惑だ」
「そうだけど……」
そこまではっきり言わなくてもいいのにと思いつつ、それが玲夜の本音なのだろう。
なんだか突然迷子になった子供のように不安な気持ちになってくる。
自分はなぜ働きたいのか……。
「柚子」
玲夜は優しく名を呼ぶ。
まるで幼い子供に言い聞かせるように。
「言い方を変えよう。柚子はなにをしたい?」
「なにを?」
「そうだ。別に無理をして働く必要なんてないんだ。なら、柚子は大学を卒業後、どんなことをして暮らしたい?」
「……そんなこと急に言われても」
「母さんがなにをしているか知っているか?」
「沙良様?」
「ああ。母さんはあれでいて手先が器用でな。自作のアクセサリーを作ってはネットで売っている」
「そうなの!?」
それは初耳だった。
「それに、桜子も卒業後はしたいことがあると言っていた。高道の補佐の傍らやりたいように動いているようだ。柚子だって、好きなように生きればいい。もう無理をして働いて逃げなければならない家族もいないのだから」
自由に。自分の好きなことを。
「でも、そんな我が儘許されるのかな?」
「柚子の我が儘を叶えるために俺がいる。柚子は柚子がしたいことをしたらいいんだ。柚子はどうしたい?」
「私は……」
言われて考えてみた。
けれど、なにも浮かんでこない。
「分かんない……」
答えを導き出せなかったことにひどく自分にガッカリした。
自分には分からない。
自分がなにをしたいかも、卒業後の天望がなにひとつ浮かばない。
「焦る必要はない。ないのならこれから見つけていけばいい」
「見つかるのかな?」
「ゆっくりでいい。だから、俺への義理を果たすために働く必要はないんだ。柚子が柚子のために働きたいと言うのなら俺は文句は言わない」
心の中には常に玲夜への感謝があった。
あの最悪な家族から救ってくれた感謝。
なにもない自分をそばに置いてくれているという感謝。
そんな感謝は、いつかなにかの形で返さなければならないと自分で自分を追い込んでいた。
玲夜はそんなことを必要とはしていなかったのに。
恥ずかしい。
自分の心の中を見透かされたようで。
自分の価値を示すことで、ここにいてもいいと思おうとしたずる賢い自分がいたことを。
けれど、そんな柚子を知ってもなお、玲夜は柚子を離しはしなかった。
柚子の存在を認めてくれる。
なんて嬉しいことなのだろうか。
役に立たなくても、ただそこにあることを許してくれる。
「……分かった。就職するのは諦める」
玲夜は満足そうに優しく微笑んだ。
「それでいい。柚子が幸せでいてくれることが俺の願いだ。それ以上のことを望んでなどいない」
「玲夜は私を甘やかしすぎる」
「まだ足りないぐらいだ。もっと我が儘になれ、柚子。俺が手に負えなくなるぐらい我が儘になればいい」
「それは私が嫌かも。でも、少し考えてみる。自分のしたいことを」
「ああ。けれど、焦る必要はない。時間はたくさんあるんだからな。じきにそれよりも考えなくてはならないことがたくさんできて、それどころではなくなるだろうしな」
「なに?」
「結婚だ。大学を卒業したら籍を入れる予定だろう? 鬼龍院の次期当主の結婚だ。規模も大きくなるから準備が始まったらかなり忙しくなる」
くっと口角を上げる玲夜に、柚子も微笑んだ。
「確かに、そう考えると就活なんてしてる暇はないかも」
「母さんが一番はしゃぐだろうからな。色々と覚悟していた方がいいぞ。まあ、嫁姑問題はなさそうなのが幸いか」
「うん。沙良様は優しいから好きだもん」
世の中には泥沼の嫁姑問題があったりもするが、沙良の気さくな性格のおかげでそんな問題は柚子には無縁のものだ。
だが、その性格故に結婚などというイベントごとには周囲の抑えがきかないほど大はしゃぎしそうなのが心配ではある。
なにはともあれ、柚子の就職問題はこれで解決できたと言っていいかもしれない。
このことをなによりほっとしたのは玲夜であろう。